調べたのは「長崎ぶらぶら節」の本と映画(DVD)、そして映画の脚本です。
まず、なかにし礼の本に紹介されている「長崎ぶらぶら節」の歌詞
長崎名物 紙鳶(はた)揚げ 盆祭り
秋はお諏訪のシャギリで 氏子がぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
遊びに行くなら 花月か中の茶屋
梅園裏門たたいて 丸山ぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
紙鳶(はた)揚げするなら 金比羅 風頭山(かざがしら)
帰りは一杯機嫌で 瓢箪ぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
沖の台場は 伊王島四郎ヶ島
入り来る異船は すっぽんすっぽん
大筒小筒を 鳴らしたもんだいちう
嘉永七年 甲(きのえ)の寅の年
四郎ヶ島見物がてらに 魯西亜人(オロシャ)がぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
次に、映画の中で流れた「長崎ぶらぶら節」の歌詞
(昭和6年にビクターから出されたレコードのと同じ歌詞です。)
嘉永七年 甲(きのえ)の寅の年
まず明けまして 年頭のご祝儀 一杯屠蘇機嫌
酔うた酔うたと いうたもんだいちう
今年ゃ十三月 肥前さんの番替わり
四郎ヶ島見物がてらに 魯西亜人(オロシャ)がぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
沖の台場は 伊王島四郎ヶ島
入り来る異船は すっぽんすっぽん
大筒小筒を 鳴らしたもんだいちう
※ 映画の中ではここまでですが、DVD特典映像のフルバージョンにはあと2つ収録されていました。
遊びに行くなら 花月か中の茶屋
梅園裏門たたいて 丸山ぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
梅園太鼓に びっくり目をさまし
必ず忘れぬように また来てくだしゃんせ
しゃんせ しゃんせと いうたもんだいちう
これとは別に、映画の冒頭、愛八が10歳で長崎に売られて行く場面では次の歌詞が流れています。
ぽん袴 あちゃさん底抜け盆まつり
豚の土産で 二、三日ぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
実はこの場面、映画の脚本には別の歌詞が書かれていました。
ゆうれん 片下駄 あちゃさん商売帰りゃ
一杯機嫌で キン玉ぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
冒頭で流れる「長崎ぶらぶら節」はドラマの中で重要な役割を果たします。
親に売られて日見峠を越えて長崎に向かう途中、悲しむ愛八を女衒の松助が陽気に歌を歌って笑わせます。そのときの歌が「長崎ぶらぶら節」ですが、数ある歌詞の中から脚本家の市川森一氏が選んだのは「キン玉ぶうらぶうら」の歌詞でした。市川さんは長崎県出身だけあって、ふだん耳にしないようなレアな歌詞まで精通されていたのでしょう。愛八はこの歌を松助と一緒に歌うことで元気になっていきます。
(映画「長崎ぶらぶら節」)
(映画「長崎ぶらぶら節」愛八と松助)
映画に使われたのが「キン玉ぶうらぶうら…」ではなく「豚の土産で 二、三日ぶうらぶら」の方だったのは残念です。脚本を書かれた市川氏はなおのことでしょう。
映画の脚本
市川森一氏の生原稿
映画では「キン玉」の歌詞はNGだったのでしょうか。
ちょっと横道にそれますが、「ぶらぶら」を調べていたら面白いことが分かりました。
それは、よく知られている「たんたんたぬきのキン玉は…」の原曲が賛美歌だったということです。
→原曲「Shall we gather at the river?」
(クリックすると厳かな「たんたんたぬき」が流れます)
話を戻しますが、「長崎ぶらぶら節」は、嘉永年間から明治の初め頃まで盛んに歌われたそうです。元々は庶民の歌で、歌詞もいろいろなのがありました。
春歌系では
後からかつぎを被って 抱きつく五郎丸
これ何者ぢゃと またぐらさぐれば きんたまぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
梅園太鼓に びっくり目をさまし
朝の帰りにぬれまら ぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちう
時代が進み、昭和40年にキングレコードから出された「長崎ぶらぶら節」の歌詞は、長崎の名所や名物を紹介するものになっています。作詞は高橋菊太郎氏です。
長崎見るなら 出島の夕げしき
おひげのカピタン パイプくわえて ぶらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
お諏訪のお祭り 傘鉾もってこい
シャギリで踊れば 大蛇のしっぽがぶらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
ダンダラ登れば 港がよく見える
唐人船やら オランダ船やらぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
名物紙鳶揚げ 見るなら唐八景
勝っても負けても みなよか機嫌でぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
長崎よか街 石段石だたみ
眼鏡の石橋 ふたりでわたってぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
行こうか丸山 戻ろか思案橋
あの妓にゃ逢いたし 財布は軽いしぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
精霊流しの 大波止ドラが鳴る
お船の燈籠が 夜空に吹かれてぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
一時期、「長崎ぶらぶら節」は廃れてしまっていましたが、偉大な郷土史家・古賀十二郎先生により再び日の目をあび、今日ではおくんちの奉納踊りに欠かせないものになっています。古賀十二郎先生は「長崎市史・風俗編」を執筆されるなど長崎学の基礎を築かれました。歌人吉井勇は古賀先生を歌に詠んでその功績を讃えています。
長崎といへばまづ目に浮かびくる古賀先生の貂の襟巻き
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