「すごい残念ですね」 なかにし礼
FOIリハーサル映像の関連動画で見つけてしまいました。
なかにし礼さんの発言。
このとき妨害発言について、はっきりと物申してくれたのは、フィギュアの関係者ではなく、いちファンのなかにし礼さんだけだったことを、とても残念に思った記憶がよみがえってきてしまいました。
mizumizuさんも書いてくださっていますが、4月にオーサーが真央ちゃんからコーチのオファーを受けたと言い出した時(本人の口からかどうかははっきりしませんが、とにかくメディアには大々的に取り上げられていました)もっと事情を知りうる関係者が強く否定&訂正を求める行動をしていなかった為に今回またヨナさんとオーサーさんの決別のニュースに真央ちゃんが絡まれるという事態に陥ったのではないかと想像します。
スポーツにおける外交でさえこれだけ弱腰の日本が軍事を含めた国際外交に勝ち抜いていけるのか、大いに不安です。
話は変わりますが、前々からなかにし礼さん関係の事で発見した事があったのですが、記事に書きそびれていたことがあるんです。
偶然見つけたこの動画アップを機会にご紹介させていただこうと思います。
皆さんNHKのテレビ小説『てるてる家族』は覚えていらっしゃいますか?
なかにし礼さんの奥様のご実家のご家族の事を題材にしたドラマで、私の好きなNHKテレビ小説ベスト5、いやベスト3に入るほどのお気に入り番組でした。
四姉妹の長女さんは元フィギュアスケーターで、今はコーチをされているようです。その方のインタビュー記事を抜粋転載させていただこうと思います。
このインタビューを読んで、『なるほどなぁ~、納得』と思ったことがあるんです。皆さんも読んでいただければ、同じ思いをお持ちになるんではないかと想像します。
元フィギュアスケーター今川知子さんのサイト内インタビューページより抜粋
(ここから転載)
第3回 岡本治子コーチ
一家の4姉妹のうち長女がフィギュアスケートのオリンピック選手、次女が紅白にも出場した大スターが誕生した。信じられないような話だが実際あった話なのだ。その実話を題材にして、なかにし礼がその一家の母を主人公にして「てるてる坊主の照子さん」という小説を書き、帝国劇場で舞台化もされ話題を集めている。
そのモデルとなったのは次女の大スターの方は現在も女優として活躍中のいしだあゆみ。そして長女のほうが1968年のグルノーブルオリンピックに出場した石田治子である。
その後石田治子は選手引退後結婚して岡本治子となり、今もインストラクターとしてスケートを指導している。世界選手権出場した小林れい子、世界ジュニア選手権3位になった柏原由起子、青谷いずみ、柏木深幸などの日本トップスケーターを育てるといった実績をもったコーチなのである。そんな岡本治子コーチに戦後まもなくのスケート環境や選手時代の心境、インストラクターになってからの思いなどを新年早々、赤裸々に語っていただいた。
―あの小説の中で赤ちゃんだった夏子(いしだあゆみ)がペニシリンで助かるところ、それからスケートのシーンは全部好きなのです。モデルとしては複雑な気分ですか?
岡本:なんか変な気持ちというかちょっと照れくさいような重はゆいような感じです。実はこの小説を最後まで全部読みきってないのですが、小説というのは全くその通り書いてなくて、おもしろおかしく誇張して書いてあるところや変えてあるところもありますよね。読んだ人はそのままストレートに受け取ると思うからちょっとなんか照れくさいなと思うところもありますね。本音を言えば。
―小説では事実と違う部分などもあるのでしょうか?
岡本:そうですねー。私は小説を最後まできちんと読んでないのですけれどもスケートの成績などは記録通りに書いてありますね。しかし子供時代は確かにお金持ちでいいお家のお嬢様ばかりスケートをしていましたけど、だからと言って私達は別に何も感じたりしなかった。お母さんがこわくて必死につき進んでたというだけで・・・。まあそこが小説だから「苦労物語」っぽく書いてあると思います。またそう書かないと小説として面白くないだろうしね。
―当時のスケート・シーンはあの小説のような雰囲気だったのですか?
日曜日にぎわったり、関東からコーチと生徒が滑りにきたり・・・。
岡本:それは本当で日曜日は人ですごかった。あの当時は娯楽というものがまず少なかったので梅田のリンクはにぎわっていました。ほんとリンクで滑走する人の円が二重くらいになっていましたね。関東からは確か夏に関東のリンクが全部閉鎖されているということで関東から全員コーチやその生徒さんが来ていました。
―ではお母様が経営されていたリンク内の喫茶店も大繁盛だったのでは?
岡本:まあ土日はかなり忙しかったみたいですね。平日は私達の休憩場所になってましたけど(笑)
―スケートを始めたきっかけは小説どおりだったのですか?
岡本:そうですね。リンク内の喫茶店を経営している母について毎日行くようになりました。春休みや夏休み毎日滑るようになってくると上手くなってきてわりと進歩が目に見えたので「先生に習おうか」というので始めました。当時は今ほどスケートの競技人口も少なかったし、スケート教室などもなかったのでちょっとやれば上手になったように思えたというのもあると思います。
―当時は外国からスケート靴は取り寄せていたそうですが、今のものと違いますか?
岡本:靴は日本製でしたが、いいタイツが日本になかったのでアメリカからダンスキンのタイツなんか取り寄せてましたね。ダンスキンのタイツは試合だけで練習時は普通のタイツを使って、今と違って本当に大事にタイツを使っていました。破けたらまた繕って使うという感じで、あの当時は普通のストッキングとか修繕してくれるお店があったのでそこに出してまた履いたりしていました。
―コスチュームなどはどうされていましたか?
岡本:スケートをやりだした子供の頃の練習着は母が作っていましたが、試合着はそうもいかないから洋裁店の方に作っていただいたりしていました。大学時代にアメリカからストレッチする素材が入ってきましたが、それまではストレッチの素材などはなくて伸びない洋服などの生地にマチをいれてもらったりしてましたね。今考えるとよくあんなので滑ってたなーなんて思いますが(笑)。でもこの頃はお母さん達もプロ顔負けぐらい上手に作られますよね。
―学校との両立は大変でしたか?当時の一日のスケジュールを教えて下さい。
岡本:まず学校終わったらすぐ練習に行っていました。試合前などは早退もよくしましたね。早退してリンクに行ったほうがリンクが空いてたので。高校生ぐらいから毎日貸切で早朝練習などをしていましたが、それまではまだそこまでするものだという認識はみんななかったように思います。小学生の頃から遠足、林間学校、修学旅行などはすべて休んで練習していましたね。夏休みは7、8時間練習していたのと違うかなー。営業が始まる前に朝の貸切で2時間くらいやってそのまま営業がはじまってずーっとえんえんと滑っていましたね。当時神戸に深江のリンクというのがあって、そこだけが朝の貸切が7時ぐらいから始まっていたのでよく行きました。もう今でも覚えているけどとても寒いリンクでねー。(笑)行くまでの道も遠くて寒かったからあれだけは身にしみて覚えています。だからお勉強の方はあまりしなかったですねー(笑)。しなかったというより、もう(スケートの試合や練習のために)それだけ授業抜けると勉強もわからなくなってくるしねー。
― お母さんという存在はスケートをする上でも大きかったですか?
岡本:はじめは大きかったですね。初めはほんとに母が自分の夢を子供に託している感じですごい勢いだったから。あと稲田先生(オリンピックを最年少で出場し10位という成績を残した名スケーター、当時のカリスマインストラクターであった)すごい強烈なコーチだったから、母親と先生が「こわい」という一心でやっていたという記憶しかないですねー。
―いつ頃からご自分で「スケートを頑張ろう。」と自覚されるようになったのですか?
岡本:たしか高校2年か3年ぐらいだったと思います。中学生ぐらいが一番ぐずぐずしてたと思います。というのは中学2年ぐらいの時に一回肝臓を悪くして3ヶ月入院して一シーズン休んでたから。やはり一年間休むとなかなか取り戻せないし、年齢的にも一番難しい時期だったということもあって、今から思えば2,3年はすっきりしなくてぐずぐずしてたのと違うかしら。で高校2年か3年のある時、何かの拍子になぜかわからないけれど「あ、こんな事していてもだめやわ。」と思って、まあとりあえず「何かやらなあかん」と思い練習に取り組みました。それからはほんとに親に言われるからではなくて自分で一生懸命練習しました。また当時は今みたいにいいスケートのインストラクターが豊富にいなかったということもあって上手い人を見て自分が出来ない事は「どうしたらできるだろう?」と真似ながらやったという事もありました。
―当時稲田コーチからはどの様なレッスンを受けていたのですか?
岡本:中学生くらいまでは東京から稲田先生が来られるというときには3日前ぐらいから「はあー」とため息をもらしてました。その「はあー」という意味は「つらい、こわい」という二つ意味でした。稲田先生がいらっしゃると一日中練習で本当に毎日あざだらけになって筋肉痛でトイレにもしゃがめないくらい練習させられましたから。それがあったから上手くなったとは思います。中学生ぐらいになると東京にも年間営業しているリンクができて稲田先生は大阪に来られなくなったので、私が夏休みなど東京にレッスンを受けに行っていました。東京に行ったときは稲田先生のお家にも泊まらせていただいたりもしました。先生はとにかく用意が早くて私は当時用意がおそい方でしたから置いていかれることもあって、早朝など暗がりの道を一人で歩くのがこわかったので、置いていかれないようにみんなより早く起きて布団の上でタイツなどを履いていたことを思い出します。今私の用意が早いのも稲田先生のおかげだと思うのですが(笑)
―姉妹スケーターと言えばクワンや浅田姉妹なども浮かびますが、お互いいい刺激になりましたか?妹たちは姉の目からみて、どういうタイプのスケーターだったのですか?
岡本:私達の場合はそんな事はなかったですねー。2番目のすぐ下の妹(いしだあゆみ)はもう小学6年生ぐらいで芸能界に入ったので一緒にスケートをやっていた時代というのは4年間ぐらいだったので・・・。3番目の妹(三女、美恵子さん)は中学生からスケートを初めて当時は3級ぐらいでも国体に出場できて、その程度だったからあんまり刺激を受けたということはないです。3番目はどうというレベルのスケーターではなかったですけど、2番目(いしだあゆみ)は器用でなんでもすぐ出来ましたね。私はどちらかと言うと不器用で何回もしないと出来ないほうだったのですが・・・。ただ2番目は朝早く起きるのがすごく苦手だったみたい。朝はなかなか起きてこないのよー。(笑)そのせいで「あんまりスケートは好きと違う」と言ってますが・・・。だから体質的にもスケートはあまり合わなかったかもしれないですね。
―妹のいしだあゆみさんが関西ジュニア選手権で優勝されたが出場年齢に達していなかったのでオープン参加で賞をもらえなかったという話が小説に載っていますがー
岡本:あれはみなさんに言っておかなくてはいけないと思うのですがあの話は本当にあったことですが、だからと言ってそれが原因で妹はスケートを辞めたわけではないです。あの当時、全日本は7級さえとれば誰でも出場できましたが、ジュニアは年齢制限があって妹はまだその年齢に達してなかったのでオープン参加でした。その試合では点数が出たので自分が何番くらいにいるかということはわかって、妹もまだ小学4年生ぐらいだったので「なんで私がもらえないの」と泣いていたのは覚えています。しかしそれは一時のことであってそれを承知で出場していたわけですからそれが原因でスケートを辞めたわけではないです。その後たまたま芸能界に入るということが決まったので辞めることになったわけです。
―スケートのどこが好きだったのでしょうか?
岡本:うーん。選手の頃はあまり好きじゃなかったですねー。自分で自覚を持って練習を始めたときも「苦しかった」ですね。「苦しかった」というのは「辞めたいな」という苦しさではなくてとりあえず「一生懸命練習しよう」という苦しさで・・・。ですが、できたら「逃げたいな」とは思っていましたねー。大学2年の頃からしんどいなりに楽しさを見つけた気はします。練習はきつかったけど海外試合に出たりしてそういう楽しさも覚えて10のうち8苦しくても2は楽しいというような感じで癒されたと思います。教えてからの方が「充実感」みたいなのはありましたね。選手の時にやり足らなかったような事をやってみたいというのがあって、自分の夢を託すというのがあり、夢に向けて一生懸命突っ走ったという感じですね。
―お母さんの五輪への思いがともかく強かったようですが、実際にそうだったのですか?
岡本:それはやっぱりねー。どのスポーツしても目指すところはまず「オリンピック」と言いますよね。それは本当の最終目標であって、「オリンピック」と言う言葉は口に出さなかったけど小学生の頃の私に対する母のプレッシャーはすごかったですよね。今のソフトなお母さんという感じはなくて当時の厳しいお母さんという感じでずーっと練習を見張っていました。それは私達だけではなく当時のトップ選手の親御さんたちはみんなそうでした。久美子ちゃん(佐藤有香さんの母親、佐藤久美子コーチ)のお父さんもチチローも顔負けぐらいすごかったし・・・。スケートというのは親も熱心でないとできないスポーツで今の親御さん達も熱心ですよね。そうではあるのだけれどもあのときの時代背景ということでさらに強烈でしたね。
―お父さんはスケートをする事に対して協力的でしたか?
岡本:小説やテレビなどではすごく物わかりのいい父親になってますでしょ(笑)ですが実は(スケートをする事に対して)すごく反対していましたね。中学校くらいまでは賛成でなかったし、妹が芸能界に行くことも賛成でなかったです。しかしうちの母親は人の言うことを聞くタイプとは違うので。母は母なりに自分の夢があってそれを子供に託したのだと思います。
― 選手の頃、一番うれしかったことは何ですか?
岡本:うれしかった事は二つあって一つ目は「自分でできるだけやろう」と思って頑張りだして全日本でそれなりにいい成績を納めることができて、当時の全日本ではその年一番努力した形跡が見えた選手に「努力賞」という賞が与えられて、その「努力賞」を自分がもらった時に「あ、やっぱりやったらできるんだ」と思ってうれしかった事。二つ目は最後の大学4年の時にオリンピックがあって出場することができたこと。どちらにしても大学4年で選手は辞めると思っていたから「あー、引退の時にオリンピックに出ることができて、最後きちんと締めくくりができてよかったなー」と思いました。今になってその当時のビデオを見て「あー、自分があのオリンピック出たのだなー」と初めて思い、「やっぱりオリンピック出るのと出ないのとでは大きな違いやなー、自分の財産として残るなー」と思ったことは事実です。
―当時の国際試合、ユニバーシアード、ジュニア選手権や五輪の雰囲気、思い出を聞かせて下さい。
岡本:今になって思うに五輪はもっと楽しめたらよかったのになーと思いますねー。あのときは開会式が始まる前の日にコンパルソリーの試合があって、開会式があった次の日くらいに女子フィギュアの大会終わってしまったんですね。それから閉会式までいたのですけど、今と違ってスキーとかいろんな競技を見に行かせてもらえなかった。そうは言っても若いからそれなりには楽しんいでましたが、今になってあの雰囲気をもっと味わかったなーとは思います。あと昔の国際試合のバンケットはすごかったですねー。私が出た国際大会がヨーロッパばかりだったということもありますが、晩餐会のような雰囲気でとても華やかに行われていました。すごいきれいなホテルのボールルームなんかで招待状には「ドレスを着てくるように」とか書かれてイブニングドレスを着たりして・・・。ペギー・フレミングもドレス着ててきれいでした。もうそれを見ているだけで楽しかったですね。私達も見よう見まねでドレスを仕立ててもらってそれを着ていくのが楽しみだった。その後教えていた生徒が出場した国際大会のバンケットにそのつもりで出席して、だいぶ傾向が変わって随分ラフな格好になったなーと思ったことがあります。スイスのダボスで行われた世界選手権の時はスイスのダボス会議も開かれたスイスの超一流ホテルに泊まっていて、そこがもう素晴らしくて今でもその景色覚えていますね。もう「絵はがきよりきれい!」と思いましたものね。泊まっている人もヨーロッパの超一流マダムばかりで部屋から下のレストランに降りてくるだけでミンクのストールとか着てくるし、食事中は必ず生バンドは入るし「あー、こんな世界もあるのだなー」と思って楽しかったです。
―スケートのインストラクターをしようと思ったきっかけは?
岡本:現役選手を辞めて「さあ、何する」となったとき、それまではジャッジになったりする人もいたけれどもその当時はインストラクターもそんなに数もいなかったのでなんとなくするとしたらスケートのインストラクターかなーと思ってやり始めました。「大選手を育成したい」とかそういう大それた理由はなかったのだけれどもやり出したらガーッとのめりこみましたね。
―インストラクターとして今はどういうスケジュールで動いてますか?
岡本:昔は(10年くらい前)までは毎日早朝から晩まで働いてましたねー。あれだけ働いたら体悪くするのかしらと思うくらい。今は生徒も5人ぐらいでリンクに毎日行っているというのではなく、だいたい何曜日の何時くらいから決めてもらって 個人個人にスケジュールを聞いてその希望の時間にレッスンするといった感じです。
―スケート関係者ではよく自分のお子さんにもスケートをさせられる方が多いように思うのですが、(岡本先生2男1女)息子さんやお嬢さんスケートをさせようとは思いませんでしたか?
―インストラクターとして何を教えたいのか、心がけている点は?
岡本:そうですねー。私もれいこちゃん(小林れいこ選手、世界選手権出場)を教え始めた頃は若さもあったからただ夢中で「いい成績をとってもらって、自分の思っているところに引っ張っていきたい」と突っ走してましたね。そしてだんだんいろんなお弟子さんを見てインストラクターとして勉強していくこともあったのだけれども、今度は自分がするんじゃなくて相手を納得させないといけないし、その親御さんも納得させないといけないというので時代が変わってくるとそれに応じて感覚のズレも感じてきました。ただ私が今でも思ってるし、悩んだこともあるけれども、やっぱり試合では一番になる人は一人で十番になる人もいるし、全員がどれかにならないとダメなわけです。思わない成績になったら最近の人の方が親も子もガマンができない人が多い。「それ(成績)だけじゃないですよ。」と言ってもそれを理解できる人が少なくなってきたと思います。たかがスケート教室であっても月謝払っているからすべて満足いくように権利を主張される方がいますが、やっぱりいやな事でもその子の今後のことを考えてこの頃は言うようにしてます。そういうことを言っておけば今はわかってもらえなくても後になっていつかわかってくれるときがあるかもしれない。だからそれはそれでいいかなとは思っています。例えば教室でも6年生ぐらいになっているのにまだ親がスケート靴をはかしているんですよ。だから「自分で靴を履くのは時間がかかると思います。けれども、何も氷で一時間半滑らないと損というのではない。初めは紐がほどけて何回も結び直しに行かないといけないと思う。でも自分でやらないといつまでたっても結べるようにならない。そら親御さんが履かした方が早いし、紐もほどけないと思う。紐がほどけて何回も結び直しにいって練習時間がロスしたように思われるかもしれませんが、こっちの方が結局子供さんのスケートをうまくするよりももっと大事なことと私は思うからそうして下さい。」と言いました。この頃そういう事を教えたいなーと思っています。昔から教えた選手と親御さんにこれだけは言っています。「スケートさえできたら『あとは何もできなくてもいい』という事はないですよ。」と。スケートをやる時間というのは人生のほんの何年かの間ですからその後それが役に立って価値のあるものにならないと何の意味もない。せっかくそこまでのお金と時間、情熱を費やしてきたものを無駄にしてしまうように私は思うのです。ですからこんな事いうと自慢にもならないかもしれないけれど(笑)うちから引退した子はいろんな方面で活躍しているけれども、わりときっちりとしている子が多いと思います。思い返してみて選手の時は選手として、コーチになってからはまたコーチとしていろいろ勉強させてもらったなーと思います。
ー後略ー
(転載以上)
そうなんです。岡本コーチの愛弟子に、真央ちゃんが2度の世界女王になった際にキスクラに座っていただいたり、そばについてくださっていた小川れい子さんがいらっしゃるんですよね。
なかにし礼さんにとっても義理のお姉さんの愛弟子が教えている選手が真央ちゃんだったんです。
キムヨナさんの演技が大好きだった(実は私もそうなんですよ)なかにし礼さんが、2009年世界選手権直前の妨害報道で、しかも本人の口から語る様子が動画で大々的に流れ、かなりのショックを受けられた気持ち、私も少しは分かるつもりです。
これからも、なかにし礼さんの様に、思うことをきちんと公の場で語れる人が一人でも多くマスコミ側の人にいらしてくださる事を、何度も裏切られているにもかかわらず祈らずにはいられません。
なかにし礼さん、これからも義理のお姉さまが一生をかけているお仕事であるフィギュアスケートを盛り立てるために、声を上げていただければうれしく思っています。