慈善とは忍耐すること
聖アルフォンソ・リゴリオ
聖アルフォンソ・リゴリオ
聖人達は苦しみの恩寵に関してどう考えておられるのでしょうか?
聖ヴィンセント・パウルはこうおっしゃいました。
「苦しみのなかで神を愛するのであれば、その人は天からたくさんの恩寵が与えられます。人生の中で苦しみたくないと考えるのは、大きな不幸です。」彼はこう続けました。「もし誰かが苦しむことを拒絶し、世界から誉め称えられることだけを望むのならば、天主様は間違いなくその人を突き落とされます。」
聖ヨハネはこのように断言されました。
「神が私達に与えられる苦しみの試練は、恩寵の中で最も素晴らしきベールに被された恩寵であり、イエズス様が仰ったように永遠の命を得るための恩寵なのです。
ルカによる福音書 / 21章 19節
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。
神は私達が苦しみの試練を通して自分の罪を償い、信仰を深め、より大きな喜びの恩寵を受けることを望んでおられます。私たちの優しき御父は私達が常に恩寵を受ける人となって欲しいのです。主は苦痛に耐え抜く人に対して、その人が予想もしない計り知れない恩寵と御愛を授けられます。」
ヤコブの手紙 / 1章 4節
あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
まさにその通りです。苦しみという十字架を忍耐し、その功徳を神に捧げること、これよりももっと神を喜ばせることはないのです。
聖フランシスコはこうおっしゃいました。
「キリストの全ての御傷は人々の口が犯した罪によるものです。これは私達がイエズス様のために苦しまなければいけないということを説いています。聖人たちはイエズス様のために絶えず苦しむことを励みました。私達もそれを実践できるのならば、聖人になれる日は近いでしょう。」
イエズス様を愛する人は、イエズス様のように貧しく、迫害され、軽蔑されることを願っています。しかしすべての聖人が殉教者という訳ではありません。それはどうしてなのでしょうか。このことについて聖グレゴリオはこう解釈しました。
「全ての殉教者たちが忍耐の剣を持っています。もし私達が忍耐を保つならば、剣を持たなくとも彼らと同じく殉教者となるでしょう。」
我らの主がアヴィラの聖テレサに仰せられたことを聴いてください。
「わが子よ、あなたにとって人生のメリットは何ですか。行楽することですか。それは違います。愛することと苦しむこと、これこそが人生の価値を見い出せるのです。私の生涯を見てください。苦痛とつらさに満ちた人生を送りました。私の司祭たちがたくさんの人々を愛するほど、苦しみを更に受けるのです。人々は彼の愛の規範です。
私の御傷を見なさい。あなたの苦痛はここまで達しません。全く苦しみを受けることを拒絶する人々が、司祭を通して恩寵を取りなしたいと思うのは、全く道理に合わないことなのです。」
アヴィラの聖テレサはこうおっしゃいました。「神のために私たちが善行を積むときに、全能なる御父はいくつかの試練、ベールに包まれた恩寵をお与えになります。ですから聖人たちは試練を受けたときに、神に感謝するのです。」
チューリンゲンの王女聖エリザベスは夫の死後、王国から息子と共に追放され、家も全て失ったのですが、彼女は即座にフランシスコ会の修道院に行き、そこでTe Deum(テ・デウム感謝の歌)の祈りを神に捧げ、神の愛の為に苦しむこと、この偉大なる恩寵を与えられたことに感謝しました。
「すべての苦しみは、天国を得るためのわずかなものです。」と、聖ヨゼフ・カラサンクティウスは言ったものです。
そして、使徒は同じことをすでに言いました。
ローマの信徒への手紙 / 8章 18節
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
続く
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