イエズスの至聖なる聖心の信心の御約束
「イエスの聖心」は、17世紀にフランスの田舎街、パレルモニアルという所で起こったイエスの出現に由来する信心です。マルガリタ・マリア・アラコックという一人の修道女に姿をお見せになったイエスは、もし自分の聖心を信じるならば次の12の約束をかなえると言ったそうです。
(1)生活のために必要なすべての恵みを与える。
(2)家庭の中に平和をもたらす。
(3)どれほど困難なときにも彼らを慰める。
(4)生涯、特に死の間際に、わたしの聖心のなかに完全な避難所を見つける。
(5)すべての行いのうえに、豊かな祝福を注ぐ。
(6)罪人は、聖心の中に無限の憐みの源を見出す。
(7)生ぬるい霊魂は熱心になる。
(8)熱心な霊魂は、すみやかに大きな完成に到達する。
(9)聖心の御絵や御像を掲げ、崇敬する家庭を祝福する。
(10)司祭たちには、最もかたくなな心さえ感動させる力を与える。
(11)この信心を広める人は、消されることなくその名が聖心の中に書き込まれる。
(12)9ヵ月間続けて初金曜日に聖体拝領する人には、死の時に痛悔の恵みを与える。わたしに嫌われて死んだり、秘跡を受けずに死んだりすることがない。
この信心は、当時のフランスで多くの人々から受け入れられました。そして、マリア・アラコック修道女の指導司祭がクロード・ラ・コロンビエールというイエズス会員であったこともあり、この信心を広める使命がイエズス会に与えられることになりました。聖心女子大学を経営していることで有名な聖心会という修道会がありますが、あの修道会の名前も「イエスの聖心の信心」に由来しています。特に12番目の約束は有名で、今でも初金曜日のミサという形で残っています。六甲教会でも、毎月最初の金曜日には朝10時から特別なミサをしていますが、それは「イエスの聖心の信心」に由来するものです。鷹取教会に、震災で焼け残った有名なイエスの像がありますが、あの像も「イエスの聖心の信心」を表した像です。
さて、この信心ですが、一体なぜ心臓に象徴されるイエスの心を特別扱いして崇敬するのでしょうか。あの血を流したイエスの心臓の像や絵は、どうも日本人にはなじみにくいような気もします。
この信心も、さきほどの自己表現についての考察から理解することができます。まず、人間の体は魂の表現だという前提から出発します。体に現れた表現を見て、わたしたちは魂がどのようなものなのかを知るからです。しかし、体のすべての部分が同じように魂を表しているとは考えられません。足よりは手が、手よりは顔が、よりその人の魂を表すでしょう。そのように考えたときに、人間の魂をもっともよく表すのは、その人の心だと考えられます。17世紀のヨーロッパ人たちは、心が心臓に宿ると考えていましたので、心臓に象徴される人間の心こそ、その人の魂を最もよく表すものだと考えました。
そうだとすれば、イエスの魂、神の愛そのものであるイエスの魂を最もよく表すイエスの体の部分は、イエスの心の座としての心臓だということになります。イエスの心臓、すなわちイエスの心に触れることで、人間は神の愛に触れることができるのです。もしイエスに心がなければ、わたしたちは神の愛に触れることができなかったはずです。イエスの心があったからこそ、わたしたちは神の愛に触れ、神が「愛の神」であると知ることができたのです。この大きな恵みへの感謝を示しているのが「イエスの聖心の信心」だと考えれば、わたしたち日本人にもなじみが湧くのではないでしょうか。今度もしどこかで心臓が描かれたイエスの絵や彫刻を見たら、このことを思い出しながら祈ってみてください。
(カトリック六甲教会様のホームページを参考にさせていただきました。)
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