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「霊」に対する冒涜は赦されない (マタイ12章32節)
小池二郎神父著『吉報』巻頭言集 より
「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜(ぼうとく)は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイによる福音書12章31節‐32節)
このみ言葉の併行個所は、マルコによる福音書3章28節‐29節とルカによる福音書12章10節ですが、ルカの記述には少し変わった所もあるので、ここで引用します。
「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」
冒涜というと、神を汚す大変失礼な罪という意味です。ところがマタイの言葉によると、人が犯す罪や冒涜(ぼうとく)は、どんなものでも赦されるのです。 ルカの言葉によると、人の子の悪口を言う者は皆赦されるのです。 何と寛大なことでしょうか。しかし大変気になることは次のことです。
共観福音書の3箇所に共通して述べられていることは、“霊”に対する冒涜は赦されない。聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがないということです。
聖霊に一度でも逆らうと、それで終わりで赦しは永遠にないのかと、わたしは真剣に考えたことがあります。 言葉通りに解釈すればそうなりますから、そう考えるのは当然で、これまでに、同じように考えた人は決して少なくないと思います。 しかし、経験的に言えば、聖霊に対する一番ひどい罪については知りませんが、聖霊に背いても、しかも一度ならず背いても赦されている人が多くいると思います。 わたしもこれまでに、一度ならず背き、そのたびに、まことの痛悔やゆるしの秘跡を通じてお赦しを得たと思います。
フランシスコ会聖書研究所の注釈書にも、この個所の解説がありますが、 そのように言っているのですが、教父の著作、神学者の意見などに基づく教会の伝統的な教えは、 心の一番の奥底に、一番優しく語りかけてくださる聖霊に反抗している間は、神も赦しようがないという意味のようです。 したがって、教会の伝統的な解釈は、わたしたちが聖霊に対し取り続けた悪い態度を改め、心から痛悔することが出来れば、 聖霊はわたしたちを喜んで赦してくださるのです。 ここまで考えるとホッとします。 しかしまた一方、最も優しい聖霊に反抗し続けている人が、心から悔い改めることはことのほか難しいのかもしれません。 このように考えると、聖霊に対する罪は最も恐ろしい罪ということにならないでしょうか。
聖パウロは、回心の前にはキリスト教の有力な迫害者でした。 そのパウロがキリスト教徒を迫害することではどんな罪も犯さなかったとまでは言えませんが、彼がいい加減なユダヤ教徒だったわけではありません。 ユダヤ教徒や異教徒が、親や祖国の伝統に忠実であるためにキリスト教を迫害することが正義であるという良心を形成したことはこれまでに幾度もあり、これからも幾度もあることだと思います。
聖霊の声はその人に一番味方の声なのです。キリスト教が教義で聖霊を主張するが自分は聖霊を認めないというのであれば、その人はまだ聖霊にさえ触れていません。 聖霊は人の良心を養うものであり、時として、良心そのものとしてその人の内で働くのです。
どの異教徒にもどの無神論者にも事実は聖霊は一番の味方ですが、そのことを知っているわたしたちはこの聖霊を尊敬し、頼りに思い、親しくしなければならないと思います。 聖霊は、わたしたちの最大の、そして最良の友です。 御父がイエス・キリストを通じて、聖霊を示してくださったわけがそこにあります。 わたしたちが聖霊に信頼する限り、わたしたちが世界の何処にいようと、どんな境遇にいようと、変わることのない優しさと確かさで、わたしたちを導いていただくことが出来ます。 わたしたちはそのような神を必要としているのではないでしょうか。
今日は、「聖霊に対する罪はこの世でも後の世でも赦されることがない」という大変恐ろしい聖句を吟味しましたが、図らずも、神の想像を超える優しさを発見したのではないでしょうか。
最後に、イエス・キリストと聖霊の関係を一言述べたいと思います。
聖霊は、ギリシャ語でパラクレイトス(弁護者)といわれます。ヨハネによる福音書14章から16章まで、5回、聖霊は「弁護者」(パラクレイトス)と呼ばれ、 ヨハネの第一の手紙2章1節で、イエス・キリスト自身が「弁護者」と呼ばれています。 聖霊は、この他に、真理の霊、御父の霊、御子の霊とも言われます。 御子の霊とは神としての御子から出る霊なのですが、同時に人間イエス・キリストを生涯動かした霊でもあります。 この霊は、イエスのこの世に亡き後、イエス・キリストに代わって、この世で働き続けられる霊です。
イエス・キリストは、神秘的に、この世の終わりまで働き続けると言われるとしても、 その使命は、十字架上で「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19章30節)といわれて息を引き取られた時に完全に完了したのです。
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