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キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ(エフェソ3章18節)
小池二郎神父著『吉報』巻頭言集 より
「(皆さんが)キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソの信徒への手紙3章18-19節)
この句は「イエスのみ心」の祭日、B年、第二朗読に入っていて、わたしたちの理解をはるかに超えたイエスの愛の大きさを、やさしい言葉でよく表現していると思います。
これは身近な愛情のこもった表現で、この手紙を書いた人の主イエスに対する愛を読み取ることが出来ます。わたしたちもイエス様を愛することによって、はじめて、わたしたちの愛をはるかに超えるイエスの愛を少しでも感じることが出来るのだと思います。
わたしの神学生時代に、同級生にスペイン人のアルフォンソ・ネブレダという秀才がいました。その後司祭となり、その後のよい働きについて聞いていますが、司祭の生存者の名簿の中に入っていますから、今も元気でいるはずです。
神学校でネブレダさんは上司の許しを得て、神学生に向かって、聖心の信心を広める働きをはじめました。教皇の回勅の解説など、聖心に関する教説を抜粋し、また自分でエッセイを書き、プリントして希望者に配り、あるときは週一度、あるときは二週間に一度の割合で、少なくても、1年以上、研究会を開いていました。(そのプリントの大部分は今もわたしが持っています。) さて、わたしもそれによく出席しましたが、わたしの心に今も残っている彼の言葉に次のものがあります。
「イエスの聖心は、わたしたちがどんなに大きい罪を犯し、死の直前まで回心しないでいても、わたしたちが信頼を失わなければ、死の直前の5分間で完全にわたしたちを回心させ、救霊を得させることがおできになる。」
わたし一人の救霊なら、死の5分前に回心しても、あるいは十分であるかもしれませんが、多くの人にイエスの愛を分かってもらうためにはそれでは足りないのではないでしょうか。
ネブレダさんは、聖心の信心を次のようなたとえで説明しました。
聖心の信心は、わたしたち一人ひとりが、「イエス商店」の看板を掲げて、商売をするようなものです。
店主、または店員であるわたしたちは、ただひたすら、イエス商店の利益を目指して働けばよいのです。あとのことはイエス様ご自身がすべて面倒を見てくださいます。大切なことは、常に、もっぱらイエス商店の繁盛を目指すことです。
人は、救霊に関心を集中すればするほど、かえって、果たして自分は救われるか、大罪を犯していながら、まだ完全な赦しをもらっていないのではないか、これまでは大罪を犯さなかったにしても、今後大罪を犯し、しかも回心せずにこの世を去るということにならないかなど、次々に心配が起こることがあります。
これとは別に、徹底的にイエス様に従えば、天国に行けるだろうが、それまで、この世の生活はどうなるのかという心配が起こることも例外ではないでしょう。
そんな時、心配を一先ず横において、一切をイエス商店の利益を目指せばよいのです。
この「イエス商店」の話は有益です。しかし同じことを、すでにイエス様は、御父について、次の言葉でおっしゃっているのではないでしょうか。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6章33節)
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