昨日のわたしのつぶやきと、これまで1月17日に書いてきたブログ記事を振り返ってみた。
あれから18回目の1月17日の朝をむかえた。ミニバイクで一進一退しながら駆け抜けた神戸の光景が、大阪大空襲の一夜が明けた尼崎の光景と重なって、鮮明によみがえってくる。(諸行無常、それは生きる力の源☆)そして、連日の酷使に耐えて塵灰の町を駆け抜けてくれた相棒とは、3年前に別れた。(相棒との別れ )
大阪大空襲の記憶を起点としてかたちづくられてきたわたしの人生は、1.17を契機に大きく変わった。そして2年前の3.11は、わたしがつくりあげてきたものを大きく揺さぶった。いまは、また起点にもどり、わたしがたどってきたすべてが合流して新たな水脈をつくりだしつつあるのを感じる。
一年前の1月17日に書いた記事がGooブログから送られてきた。東日本大震災で注目された「釜石の奇跡」について「教員も含め、自ら考え臨機応変に行動する力が日々の防災教育で培われていたのだと思っている。覚えさえすれば点が取れる教育では命を守れない。今回の震災が教えてくれたことです」という舞子高校環境防災科の諏訪清二先生のことばをあらためてかみしめた。(自らの命を守る教育を! 阪神淡路大震災から17年目をむかえて)
今朝、私は5時30分に目を覚ました。何事もなく過ぎてゆく5時46分。あらためて、いま、ここに生きている自分を存在せしめているものは何かを考えていた(15年の経験をどう生かすか。阪神淡路大震災の節目の日に寄せて)
------------------------------------------------------
震災の日の朝、我が家の建物には被害がありましたが家族の身は無事だったこともあって、私は、職場に向かうべく、5時46分の地震発生から1時間後にミニバイクで家を飛び出しました。いたるところで寸断され、余震に揺れる道路を、山際へ海岸へと大きく迂回しながら、自宅のある神戸市の西端から東の端を越えて4時間近くかかって職場のある芦屋市まで駆け抜けました。その途中で目に映った神戸の街は、一瞬にして50年前へとタイムスリップしてしまったかのようでした。それは、私の人生の記憶の原点である、終戦直前の大阪大空襲で焦土と化した(当時住んでいた)尼崎の町と重なって、その後に続く戦後の記憶をも包み込んだ、「懐かしい」光景でした。私の心を覆っていたのは、あの時と同じ、どうにもやりきれないこの世の無常、はかなさ。しかし、それがこの世のありようそのものであり、その現実を受け入れることによって、新たに生きる力が湧き出してくるということを、私は幸いにも50年のうちに多少なりとも学んでいました。事実、震災直後のどさくさから復興にいたるまでの何年かは、もっとも精神的な高揚感をもって仕事ができた期間でもありました。破壊は痛みと犠牲をともない耐えがたいことではあるけれども、創造の原動力にもなりうるということに望みを託すほかないでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます