ロシアのノーベル賞作家イワン・アレクセーヴィチ・ブーニンの短編「アントーノフカ」が、この11月に翻訳出版された。解説によると、アントーヌフカとは、ロシア特産のリンゴの品種のことで、黄色味を帯びて香りが高く、わが国でも戦後の一時期に長野県で「鳳」という名で栽培されたこともあるという。本書は、領主貴族の子として生まれたブーニンが、このアントーノフカの香りに誘われて、革命前の豊かな農村生活を美しいことばで回顧し、読む者を心豊かにしてくれる小品である。
アントーノフカ
イワン・アレクセーヴィチ ブーニン,長濱 友子
未知谷
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ページの隅々にまで配慮が行き届いた丁寧な装丁や本文のデザインから作り手の思いが伝わってくる。ハードカバーのしっかりとした手ごたえ。80ページの薄い冊子が、手のひらにしっくりとなじむ。そして、品のいい、なめらかな訳文に付された気の利いた脚注と20枚に及ぶ風景画が、ロシア文学になじみの薄い読者の想像力を刺激してくれる。
挿画の作者は、じつは私の友人で、そのことが、ロシア文学に縁遠かった私がこの作品に触れるきっかけとなった。その友人によると、描かれているのはロシアではない。1998年から2000年にかけて1年半ほどポーランドに日本語教師として滞在していたときのスケッチなのだそうだ。「行き先のわからないバスに、終点まで乗ると大体ほどよい郊外に出て、そこから気ままにとぼとぼと歩いて見晴らしのいい丘があるとついのぼりたくなってそこでのんびりとスケッチを楽しむ一人だけの時間を楽しんでいた」という。繊細な筆致で描かれたポーランドの田園風景は、ブーニンの作品とはまったく異なる文脈で描かれたにもかかわらず、本書の醸しだす雰囲気にぴったりで、時代を超えたコラボレーションはみごとに成功している。ただひとつ残念なのは、絵そのものについての説明が一切ないことだ。できれば一枚一枚の作品が特定できるようにタイトルとか描かれた場所、年、季節など絵に書き込まれているメモでも付して、その一覧をつけてもらいたかった。
いま、私は寝室でアントーノフカならぬ青森産の薫り高いリンゴをほおばりながら、この小品を手にして遠い国の遠い時代へと想いをはせている。白いブックカバーがはずれ、下から全面を水彩で彩られた表紙が現れる。ぼくは思わず息を飲み、ポーランドの国境に近いドイツの町に暮らす友を想う。青森で生まれ育ち東欧の風土に自身を投じている彼女は、関西のぬるま湯のような文化の中で育ちアメリカ文化に憧れて育った私にとっていろんな意味で遠い存在だ。そんな彼女を違和感なく友と呼べるのはなぜか。外国語教師同士という近親感か。豊かな経験に支えられた彼女の言語感覚への敬意か、それとも、離れていても同じ時間を生きていることへの共感か。たしかに感じるのは、遠いものを想うことによって満たされる自己。そう考えると、「アントーノフカ」に描かれている世界もまた、単なる追憶ではなく、現代に生きる私たちの心が深いところで求めている原風景なのかもしれない。
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