拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

文鳥

2024-06-11 08:51:54 | 

夏が近づいてきて、猫共も家中に散らばるようになり(「家中」と言っても、現住所は狭い「鰻の寝床」である)、ワサビは一本足の足下にいることが多くなった。

因みに、王選手の一本足打法を知ってる人がどれだけいるのだろう?そろそろイチローの「振り子打法」だって怪しくなってるのかもしれない。

例年なら、とっくにコタツの布団をとっぱらってただのテーブルにしてるところだが、今年は布団を残している。ケメ子が夜、コタツ布団を枕にして寝るからである。

365日休み無くケメ子とワサビの世話をしている。人間一人だから家族が交代に、ってわけにはいかない。だが、それで良い面もある。なまじ家族があると、家族に任せたつもりで結局誰もしてなかった、ということがありうる。漱石の「文鳥」の主人公がそうである。人からもらった文鳥を、始めの頃は大いに可愛がってエサをあげたりしていたのに、そのうち仕事にかまけて家族任せになり、とうとう文鳥は死んでしまった。その言い訳を文鳥をくれた人にした手紙がこうである。「家人(うち)のものが餌をやらないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。(中略)しかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」と書いて、家族のせいにしている。こういうのを「厚顔無恥」と言う。あるいは、この小説が巷間言われているように自伝的小説なら、これは漱石の公開懺悔なのかもしれない。人は、抱えてる悩みを吐き出すことによって気が軽くなるという(漱石の気が軽くなっても文鳥は生き返らないが)。