拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

やっぱりアーモンドアイは強かった

2020-11-30 14:20:38 | 日記

やはりこのことも今日中に記事にしなければ。運命田園と同日にあったことだから。ジャパンカップである。三強の世紀の対決として注目され、その三強がワンツースリーフィニッシュを決めるという絵に描いたような結末。そのなかで、やはりアーモンドアイは強かった。アーモンドアイに対する私の気持ちは複雑に変わってきた。三歳になったばかりの頃(私が、ではない)、多くの人は世代で最強牝馬はラッキーライラックだと言っていた。しかし、私は、アーモンドアイが牡馬と一緒に走ってシンザン記念を勝ったことがジェンティルドンナと重なって、アーモンドアイが最強だと思っていた。世間の見方が一転したのはアーモンドアイが桜花賞を勝ったときである。ほれみたことか、と思った私。ずっとアーモンドアイを応援していた。しかし、アーモンドアイがGⅠ7勝のタイ記録に並んだとき、心中、穏やかでなくなった。GⅠ7勝のタイトルホルダーの中にはわが愛するジェンティルドンナがいる。アーモンドアイが新記録を樹立するということはジェンティルの記録を抜くということである。抵抗があった。しかも、アーモンドアイがGⅠ7勝目を挙げたレースが牝馬限定戦。ここは勝って当然である。これでGⅠ8勝と言われてもなぁ……。ジェンティルは、牝馬3冠を達成した後は、常に牡馬と戦ったのであり、決して牝馬限定性に戻ることはなかった。だが、今回のジャパンカップでGⅠ9勝。これはもう文句の付けようがない。今回、馬券を買うにあたって、まだ世間がそれほどアーモンドアイに注目していなかったときから一番強いと思っていたときの初心に戻って、そして、あえて、ジャパンカップに出てきて若い二頭に胸を貸す選択をした陣営に敬意を表するためアーモンドアイを買おうと思った。それと、前日の私の夢の中では先頭でゴールし、その後、人間の女性に化けて私と付き合うことになったデアリングタクト(三強の一角。3歳牝馬)も買おう。ということで、アーモンドアイとデアリングタクトのワイドの一点買い。一点買いと言ったって公表するのも恥ずかしいくらいのしょぼい買い方である(当たっても1.9倍にしかならない)。しかも、写真を掲載すれば、千円馬券なのがばれる(私は、一日に買う馬券の上限額を千円と決めている)。だから、儲けは900円。まさにサイゼリヤ一回分である。ほんとは、アーモンドアイとデアリングタクトとコントレイルの三連複の予定だった。これだともうちょっとつく(しょぼいことには代わりはないが。いや、しょぼいと言ったって、今回、がっちがちのレースだったからしょぼい買い方をした人以外当たってない)。だが、パドックのコントレイルの様子がいまいちだったので、やっぱり、菊花賞の激戦の疲れが残っているのか、一週間前はもっとぼろぼろだったというし。ということで、コントレイルをはずしたのである(それでも二着に来るんだからやはりこの馬も強い)。まあ、アーモンドアイの有終の走りを見たし、馬券も当たったし(馬連にしてたらはずれてた)、良かった良かった。で、運命田園の会に向かい、会場で施設側と一悶着起きる。そのあたりのことは一つ前の記事で書いた。

ラを轟かせたのは誰?(運命・田園の会)

2020-11-30 09:25:12 | 音楽
昨日の運命田園の会は、音出し直後に大問題が勃発。施設の人から「楽器の音が大きすぎる」とクレームが入ったのだ。え?ここ、音楽をやるホールでしょ?ホームページには金管がダメだなんて一言も書いてないよ(江東区なんかはちゃんとダメなところは書いてある)。だが先方は「『歌いまくる会』ですよね。歌う人なんているんですか」。余計なお世話。私は、後ろの方にいる人たちを十把一絡げにして「あの人たちみんな歌の人」と応戦。しかし、ここは喧嘩をする場面ではない。とにかく、運命田園を一回ずつ通すことが最優先である。どうしてもダメ、止めろ、とか言うんだったら、そのときは「はい、そうですか」で引き下がってたまるか。君子豹変。ホームページの不備を武器にとことん争う覚悟を胸に忍ばせてはいたが、それは最後の手段、とにかく平身低頭、お願いしまくって、なんとか了解をとりつけ開催にこぎつけたのは幸いであった。因みに、私、今の法律職につく前はサラリーマンをやっていて、それこそ理不尽なことを言う顧客に米つきバッタのように頭を下げる毎日であった。だから、法律職はえばってる人が多いのだが(私の知人は除く)、私は、「日本一腰の低い○○○士」を自負している。その法律職だが、実はぼちぼちやめようかと思っている。離島に移住する(かもしれない)し。だが、離島こそ、こういう職種が求められているという噂もある。そういや、私が開業したての頃、会が伊豆七島で開業する会員を募集していたっけ。今なら、一にも二にもなく応募するだろう(でも、変人だと、断られるという。会の偉い人から聞いた。じゃあ、やっぱやめるか)。話を戻す。そうやって、始まった運命、田園、通りましたねー。だいたい、通唱会は通るものなのだ。全体を支えてくれたK子先生、マエストロ、マエストロを特訓したY先生、いつもコンマスを引き受けてくださるUさん、そして参加して下さったみなさん、本当にありがとうございました。そして、会場のことで、ご心配をおかけしたことを深くお詫びします(不倫した芸能人が「ご心配をおかけして」と謝罪するのを聴いて、誰も心配なんかしてないよ、と思うが、昨夜は本当にご心配をおかけした)。実は、一人だけ、トロンボーンの1st(アルト・トロンボーン)がキャンセル。えー、アルト・トロンボーンがいないのぉ?運命の第4楽章の大詰め、全楽器が音を長く伸ばす中、忽然とアルト・トロンボーンが「ラ」を響かせて怒濤のエンディングに突入する。最大の聞かせどころである(以前も当ブログに「関所」として紹介した箇所)。それが聴けないのはなんとも残念……と思ったらあなた、その「ラ」が轟いたではないか。トロンボーン吹きなら絶対吹きたいところだろうから、2ndの人が吹いたのかな。それともホルンの人かな。驚喜乱舞の瞬間であった。で、私のことである。神経の半分は出入り口に向かっていて、施設の人がいつ乱入してくるかを心配しつつのクラリネットであった。だが、田園の第3楽章が始まり(第5楽章まで休み無し)、ようやく、よし、ここまで来ればもう大丈夫と安心して、第3楽章のクラリネットの例の早いパッセージはいい加減ではあったが、最高に「下司」な音が出て、自分としては満足である。そのすぐ後にスタミナ切れを起こしたあたりはまだまだ修行が足りないところである。で、終わった後、うーんと怒られるんだろうな、と覚悟して受付に行くと、休憩時間に乱入してきておっかないことを言ってたおばさんがやたらに親切。「ご迷惑をおかけしました」と言うと、「とーんでもない」だって。この人いい人。そもそも、最初に大目に見てくれたところからしていい人である。そして、そういう風にすぐ思う私も実に御しやすい人間である。とにかく、この区ではもうやらない。そうでなくても、最近バテ気味である。だが、始まる前は、もうこりごり、これで終わりにしようと思ってても、終わると気分が高揚して、また次、となるのが常である。私が主催するもので決まってる「次」は年明けすぐのミサソレ(今度のホールは思いっきりでかい音を出しても大丈夫)。その後は、ミサソレと千人は当面お預けにして、ベートーヴェンの7番、8番、あとオペラもなんかやろう、なーんて話をしているところである。まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」である。

世紀のイベント二題(運命田園の会とジャパンカップ)

2020-11-29 09:07:05 | 音楽
今日は運命・田園の会。世紀のイベントである。いや、運命・田園を演奏するオケはやまほどあろうが、「歌付き」なんて聞いたことがない。だから世紀のイベントなのである。この一事で、主催の私はアマチュア音楽史の片隅に拭えようもない悪名を残すのである。そういえば、高校のとき、吹奏楽部の定演で運命を演奏した。「吹奏楽でベートーヴェン」。先輩達はこぞって無理だと言った。実際、本番は散々な出来だった。先輩たちは、ほれみたことかと言わんばかりに、張本人の私(当時の部長で、曲決めで運命が当選するように根回しをし、吹奏楽用に編曲をし、本番で指揮もした)に罵詈雑言を浴びせつけ(われわれが築いてきた歴史はこれでぶちこわしだ、と言った先輩もいた)、私は、酔乱高校吹奏楽部史に拭うことのできない悪名を残すことになったのである。あれから45年。あのとき使っていたのと同じクラリネットで、再び運命をやることになろうとは(正確に言うと、運命のとき私は指揮だったから、運命に使ったクラリネットではないが、他の曲はこれで吹いた)。おまけに田園も!感無量である。なぜ歌付きか?と言うと、いや、もともと私は通唱会の主宰者連絡会の末席を汚す者である。「通唱会」なら歌があるのは当然だ。それに、そうそう楽器の方は来て下さらないだろうから、足りないパートはもちろんピアノで支えていただくのだが歌でも補おうという魂胆であった。ところが、お仲間を紹介して下さるありがたい方々のおかげで管楽器はほぼフル編成(因みに、年明けすぐのミサソレの管楽器は「ほぼ」でなくて完全にフル編成である)。歌も、こんな酔狂な企画によくぞと思うくらいエントリーしていただいた(いや確かに歌うのも楽しいと思う。もし私が楽器をやらなかったら大喜びで歌っていたろう)。あとは、自分がちゃんとクラリネットを吹くだけ、これこそが最大の関門である(絶望的な顔文字がここにあるつもり)。本日の世紀のイベントと言えばもう一つ、ジャパンカップ。史上最多のGⅠ8勝を挙げた名牝アーモンドアイに、無敗で三冠馬となった牡牝のコントレイルとデアリングタクトが挑む。これぞ100年に一度あるかないか、まさに世紀のイベントである。実は、昨夜見た夢ではデアリングタクトが勝った。だが、おかしな夢で(だいたい夢はおかしいと相場が決まっている。なんでも、夢をみるときは、脳内の理性を司る分野をあまり使ってないからだそうだ)、牝馬のはずのデアリングタクトがそのうち人間の女性になり、私はタクト嬢と付き合うことになる、とそういう夢である。何かの予兆だろうか。とにかく、夢を見たからにはデアリングタクトを応援しよう。運命田園は、ジャパンカップの勝敗が決まった後である。

美女と歌う舟歌/翻訳の妙

2020-11-28 09:11:48 | 音楽
男になって愛の二重唱を歌うと言った舌の根の乾かぬうちに、もう女に戻る気になったワタクシ。いえね、某美女から、「ホフマンの舟歌」(ソプラノとメゾの二重唱)の楽譜はネットのどこにあるかと聞かれて、ただ楽譜の在りかを聞かれただけなのに私ときたら妄想がはたらいちゃって、当該美女ともうデュエットをしている。サビの部分で近寄って肩に手を回そうとすると「ソーシャル・ディスタンスっ」との声が飛ぶ。いいじゃん、妄想なんだから。想像の翼を広げるだけなら「思想は罰せず」だ(近代刑法の基本理念)。運命田園が鳴り響いていた頭の中が、しばらくオッフェンバックに置き換わった。さすがに、今は元に戻っている。なにしろ、明日が運命田園の会本番である。連日、一人ゲネプロを敢行中である。ところで、「想像の翼」って言葉は朝ドラ「花子とアン」によく出てきた言葉。「赤毛のアン」を日本語に訳した村岡花子の半生を描いていた。翻訳と言えば、「ハックルベリーフィンの冒険」の日本語訳を完読。ドイツ語訳で読み返している。つくづく翻訳というのは、まさに想像の翼を広げてする芸術的な作業だと思う。例えば、上記で、某さんのことを「美女」と表したが、こうした代名詞の使い方一つをとっても訳者の苦労がにじみ出る。ハックが自分の父親のことを言うとき、原書(これもダウンロードした)では、段落の最初に「the old man」(老いぼれって感じか)、後はしばらく「he」なのだが、日本語訳は一貫して「おとう」である。ドイツ語訳は、段落の最初が「Der Alte」で後は「er」。こっちは原書に忠実だ。ところで、原書で、一か所だけ「the old man」でも「he」でもない箇所がある。それは「pap」。おおっ、「大草原の小さな家」の「pa」を思い出す(ととさんアホならかかさんパー……ではない。パーなのはととさんである(ってそういう問題ではない))。「大草原」は、カナダと接してるあたり(ウィスコンシン州、ミネソタ州)のお話だったが、それがちょっと南のミズーリ州あたりにいくと「pap」になるのか!私は、かねがね、「大草原」の「pa」「ma」こそ「おとう」「おかあ」と訳すべきだと思っていた。その「pap」の箇所は、日本語訳では「おとうの奴」。既に「おとう」を使っちゃってるんで、「奴」を付け足すくらいしかできなったのだろう。ドイツ語訳だと「mein Alter」である。因みに、「美女」をドイツ語にすると「die Schöne」(形容詞の名詞化)。その「die Schöne」と歌う舟歌!この妄想で1か月はご飯が食べられそうである。

ラブ・メール

2020-11-27 08:55:58 | 音楽
「今やれることはすぐやろう」とお友達が書いてるのを読んで、そうだ、うじうじしていられない、某女と某女に告ろう、コピペすれば同じ文面を使い回せる。それでメールを送ろう。でも、案外、人は通じてるものだ。ファルスタッフも同じ文面のラブレターを二人の人妻に送ったが、その二人が互いに見せあいっこして、どっちにも来た、しかも同じ文面ということがばれた。そう、逆の立場になったこともある。若い頃マドンナだったO嬢は、私にも友人の某にも手紙を送った。友人が私にそれを自慢したので私にばれた。だが内容は違っていて、私には「料理を作ってね」だったが某には「料理を作ってあげる」だった。そうか、内容を変えればいいのか、ちょびっと表現を変えよう。え?そういう問題じゃない?姑息なことをしてもばれる?だったら、いっそのこと、宛名を連名にして、一斉に送るか。某女さんと某女さん、私は、あなた方が大好きです。付き合ってください。ただし、いっぺんに付き合えるのは一人に限りますので、遅れてお申し出された方はキャンセル待ちになります。あしからず……最近の通唱会の案内文のようである。「一人に限る」と言えば、二人の人妻がファルスタッフに一泡吹かせようと、二人ともデートを承諾したように見せかけ、驚喜したファルスタッフが「(一人で二人を相手にできないから)わしを、食卓の上のカモシカのように二つに切ってくれ」と絶叫するシーンがある。私はここんとこが大好きである。だが、連名メールにも問題がある。冒頭の「某女さんと某女さん」だが、どちらか後に書いた方は「なんであたしが後なのっ」と言って怒るだろう。ラブメールを送るのも一筋縄ではいかない。通唱会の主催と同様に、気苦労である。考えてみると、ファルスタッフは偉い。当時、ワープロなんかないから、同じ内容の恋文をせっせと書いたわけだ。倍の時間がかかる。いや、代筆かもしれないな。昔は、字が書けない人は艶書(!)の代筆を人に頼んだし(おしんも代筆をしていた)、教養のある貴族も、手紙は召使いに書かせていた。「バラの騎士」のバロン・オックスもしかり、「フィガロ」のコンテッサもしかりである。因みに、コンテッサがスザンナに手紙の内容を口述して、スザンナがそれを復唱する様を描いたのが「手紙の二重唱」である。いいなぁ、歌いたいなぁ。でも、次に某会で二重唱をするとしたら、私は男になって、誰かと愛の二重唱を歌う(魔笛かドン・ジョヴァンニの)。誰かいない? 歌った人には特典がある。私と付き合うという特典である。罰ゲームではないっ、失敬なっ。因みに、冒頭の言葉は、感動的な文脈から発せられた言葉である。その言葉が私を通ると、ごらんの通り真っ黒になる。仕方がない。件の発信者は高邁な精神の持ち主だが、私のウリは痴性である。私のパソコンも、「ちせい」と打つと真っ先に「痴性」と変換する。ドン・ジョヴァンニに使えるレポレロのように主人に忠実である。かりに私にレポレロがいたとしてもカタログは空欄ばかりだけど。

韓流

2020-11-26 09:05:02 | グルメ


私は韓流ドラマにははまってない。だが韓流ラーメンは好きである。辛ラーメンだってこんなにメジャーになる前、30年前、合唱の練習の帰りに新大久保で偶然見つけて以来のファンである(今日の辛ラーメンの隆盛は、セールスマンの涙ぐましい努力によるものだそうだ)。そしたらお友達から韓国のラーメンをいただいた。袋の文字はすべてハングル。だから名称すら分からない。貴重品だからずっと食べずにとっておいた。何事においても私はキリギリスではなくアリであった(なんでもため込んでいた。レジ袋もゴミ袋になるんでたくさんためてある)。だが、最近、態度を改めた。島に移住するには(って現実的な話ではないが、今の私は、将来島に移住する夢のみのために生きながらえている)、身辺をすっきりさせなければならぬ。明日ぽっくり逝くかもしれないし。それに、置いとくといつ猫にかじられるか分からない。袋の端が切れているのは既にかじられたからである。ということで、件の韓国のラーメン(としか言いようがない。名称が分からないのだから)を食べることにした。早速ぶちあたった関門。お湯の量やゆで時間が分からない。ほんとにハングルばかりなのだ。だがヒントがあった。



作り方の絵に「600ml」とある。これはお湯の量だろう。日本の乾麺は大体450mlから500mlであるからそれより多い。問題はゆで時間だ。「分」がどこにもない。だが「5」という数字がある。日本の乾麺のゆで時間は平均3分だが、辛ラーメンは4分半。韓国の麺は太くてもちもちしていてゆで時間が長めである。だからこの「5」はゆで時間だろう。スープやかやくをどの段階で入れるかもまちまち。だが、辛ラーメンは最初に入れるし、絵を見ても最初に入れるっぽい。問題は「3」である。当初、スープとかやくとオリーブ油の袋が3つあったので、それのことかと思ったが、「600ml」のすぐ近くにあるので、「カップ3杯」のことだろう。ということで、食したお味は、どぎつい色の割には以外にマイルド。辛くなかった。



さて、私は韓流ドラマにははまってないと言ったが、「天国の階段」は全部見た。当時付き合っていた相手に付き合って観たのであるが、見始めると結構はまるものだ。いっちょまえにチェジウのファンにもなった。チェジウは身長が174センチあるという。こういう方と高下駄を履いてでもお付き合いしたい。それから韓国の映画では、女性ピアノ教師と少年の交流を描いた映画が印象的だった。まったくもってベタな内容だったのに大泣きをした私は変だった。だが、成長して名ピアニストになった青年(かつての少年)がエンディングで弾いた曲がラフマニノフの2番だったのだが、当初はベートーヴェンの皇帝の予定だったと知って、まあ分かる気がする、泣かせようと思ったらラフマニノフだと納得しつつも、変えたことに腹がたった。因みに、私、韓国語の知識はゼロだが、以前、韓国のお店に入ったら、店員のおばさんが韓国語を話しているんで、私の癖で、ついつい、それをそっくり真似をして発音したら、おばさんがびっくりして、あんたは韓国語ができるのか?できない?じゃあ教えてやるって感じで、おばさんの後についてずっとリピートさせられた。なかなかおばさんが納得するようにはしゃべれなかったのだが、おばさんは、最初のインパクトが強かったせいか、こいつをモノにしてやると言わんばかりになかなか帰してくれなかった。そのおばさんなどはこちらにたいそう親近感を持ってくれたのだが、そうでない経験もした。フライブルクのドイツ語学校でアジア人を見つけて話しかけると、韓国人だという。私、同じアジアの同胞だと思ってうれしくなって、ボクはヤパーナーだよ!と言うと、おおっ、同胞同胞(ほらから、ほらから)と喜んでくれると思ったこちらの意に反し、とたんに顔が険しくなった。そういう人もいるんだ、とあらためて思った。因みに彼は外交官だった(今考えると、単なる人見知りだったのかも知れない。日本人同士でも、初対面だとなかなか心を開いてくれない人がいるし)。

オリビア・ハッセーのジュリエット/オペラの演出

2020-11-25 09:39:16 | 音楽
ニーノ・ロータが音楽を担当した映画「ロミオとジュリエット」を観に行ったのは中一のとき。クラスに割引券が配られたので、クラスメイトの男女数人で、横浜の奥地から中心部に電車を乗り継いで行った(当時、電車に乗るのは一大アドヴェンチャーだった)。字幕は初めてだったんだと思う。始め、見にくくて苦労したが直に慣れた。見終わった後の感想は、一にも二にもオリビア・ハッセーが可愛かったこと。後に布施明がオリビア・ハッセーと結婚したときは……さて、このときの私の心の内に分け入ってみよう。可能性その1。日本人の男でもこんな美人と結婚できるんだ、と希望を持った。その2。われらのマドンナをよりによって日本人の男がかっさらうなんて、と妬んだ。その3。ヒンズー教の坊さんの前で二人が結婚式を挙げたとき、しきりにオリビア・ハッセーが布施明に耳打ち。背中をしゃんとしなさい、との注意だったという。それを聞いて、オリビア・ハッセーって結構きついんだな、と恐れた。1も2も可能性はあるが、はっきり覚えているのは3である(私自身が結婚したのは、オリビア・ハッセーの結婚の2年後であるが、自分の将来を予見したのかも知れぬ)。映画に戻る。事前の噂で、この映画は「エッチな映画」とささやかれていた。その理由が分かった。ジュリエットの裸の上半身が一瞬映るシーンがある。それだ。たしかに中学一年生にはインパクトがあって、隣同士で肘をこづきあった。だが、「別にいやらしくなかったよな」が終わってからの共通の感想だった。そう、いくら頭の中にそれしかない中一でも(頭の中にそれしかないのはカンレキ越えでも同じ?)、芸術とわいせつの区別はつくということだ。映画の中で、恋する二人が神父さんの前でぶちゅぶちゅぶちゅぶちゅキスの嵐。役の上での二人の年齢を考えたうえでの演出だろう(演じた二人の年齢もこれに近かった)。そうしたティーンエイジャーでも、裸を見て常に鼻血が出るわけではない、ということだ。さて、そのロレンス神父、ジュリエットを仮死状態にして、街のみんなには死んだと思わせて(葬式の時にたっと笑うシーンを見て観客も笑った)、街の外にいるロミオに真相を知らせるべく使いをやるのだが、この使いの神父がロバに乗ってちんたらちんたら歩いている。チコちゃんにぼーっと歩いてんじゃねーよ、と怒られそう。そして、一刻も早くロミオにジュリエットが死んだことを知らせねばと馬を駆るロミオの友達がぼーっと休憩をしてる神父を追い抜くとき、館内に悲鳴があがった。映画館で映画を見る醍醐味である(「ゴジラ・ファイナルウォーズ」で、最後にキングギドラが登場したとき隣のおじさんが「おおーっ」と声を挙げていた。これも映画館で映画を見る醍醐味である)。さて、映画を観た後である。サントラ盤を買って「What is a youth?」なんて歌ってたし、原作(日本語訳)も読んだ。原作は戯曲だったので、独特の言い回しにあふれていた。後年、この映画を再び観たとき、中一の時には気づかなかったが(字幕で筋を追うのがやっと)、同じような言い回しが使われていることを知った。監督はゼッフィレッリ。この人が演出をしたオペラ「椿姫」がビデオになっている。そう、演出家って映画も、舞台も、オペラもいろいろやるんだよな。日本の演出家だってそう。浅利慶太がスカラ座で演出した「蝶々夫人」や市川猿之助がミュンヘン・オペラで演出した「影のない女」は、日本人しか作れないような素晴らしい舞台だった。だが、稽古中に灰皿を投げることで有名な某(亡)演出家が演出した「イドメネオ」(モーツァルト)は解せなかった。舞台を取り囲む群衆が手をゆらゆらさせる様がなんとも不気味だった。灰皿を投げるんだならもっとまとまな舞台を見せてよ、と思った。再び、映画の話に戻る。私らが観たのはリバイバル上映だった。学校に戻って先輩に話をしたら、「バッカヤロー、おめーら古いんだよー、オリビア・ハッセーが可愛いなんてのは俺たちが前から言ってんだから」と既得権をふりかざしていた。リバイバルだからか、二本立てだった気がする。だとすると、もう一つはディズニーの実写映画(別の機会に観たのかもしれない)。最後、カーチェースになって、で、クレーン車だかはしご車だかのクレーンだかはしごだかが人がつかまったまま走行中に上がっていくシーンがあった。いまだに、この映画の題名を思い出せない。

鶴富姫の伝説を聴いてうるうるしながらも雑感がふつふつと湧いてくる因果な私

2020-11-24 10:21:36 | 日記
宮崎県の椎葉村は平氏の落人の里であったが、ここにも源氏の追討の手が迫った。追ってきたのは那須与一の弟の那須大八郎。だが、大八郎は、落人達が農耕にいそしんでいる様を見て追討の必要なしと判断。鎌倉には追討完了と報告して、自身はそこに3年間住んだそうだ。そしてフォーリンラブ。相手は平清盛の末孫の鶴富姫。仇同士であるはずの源氏の若者と平氏の娘の恋は、さながらロミオとジュリエットのよう。この話を紹介したお名前番組も、映画「ロミオとジュリエット」の音楽(ニーノ・ロータ作曲)をBGMに流して盛んに盛り上げる。大八郎は3年後に鎌倉に呼び戻されるが、残された鶴富姫は大八郎の子である女児を産んで婿をとり、代々その地をおさめたそうな……いや、私もうるうるしましたよ、話を聞いて。だが、うるうるしつつ、雑感もふつふつ湧いてくる。その1。番組では、大八郎が追討をやめた後に鶴富姫と恋に落ちたと言っていたが、逆ってことはないだろうか。つまり、平氏の鶴富姫と恋に落ちたんで、平氏追討の任務を放棄したってことは?そうだとすると、これは職務怠慢のそしりを免れない。ノルマが敵将のポリオーネと密かに恋仲だったのでローマとの戦争をいろんな理屈をつけて避けていたのと同様である。そのノルマは、ポリオーネの愛情が自分の侍女に移ったと知るや、一転、戦争を宣言(私利私欲で政治が動く典型例)。でも、最後は良心の呵責に耐えかねて真相を告白、自ら火刑台に向かう。ベッリーニのオペラの話である。その2。こういうことを思いつくのが私なのだが、大八郎には、鎌倉に妻子がいなかったのだろうか。いたら、結局昨日の話題と同じで不倫である。そうなると、鶴富姫は蝶々夫人で大八郎はピンケルトンである(これはプッチーニのオペラの話である)。その3。平氏が壇ノ浦で滅んだのが800年前と聞いて、一瞬、え?そんな最近?たしかに、平安末期の紀元1200年頃の話だから言われてみればそうだ。今でこそ、災害時に略奪をしないお行儀のよい国民性を誇る日本人だが、当時は、落ち武者狩りと称して、有事に殺戮・略奪を当たり前のようにやっていた。その時からまだ千年経ってないんだから短期間でえらい変わりようである。その4。落人の里と言っても、落人が全くの未開の地で新たに開墾したのではなく、既に存在する村落に流れ着いてそこで受け入れられたものである(でなければ、すぐに食べるものにも困る。落人の中には鶴富姫のような姫もいるのだから、いきなりのサバイバルは無理だろう。椎葉村の場合はどうだろう、と思ったら、やはり元からの住人がいたそうである)。ただ、当初受け入れられたように見えても、八つ墓村のように、結局その地で落ち武者狩りに遭うこともあろう。私は、金田一耕助もの(映画)の中では、渥美清が金田一を演じる「八つ墓村」が一番好きである。その5。ニーノ・ロータが音楽を書いた「ロミオとジュリエット」(上記)は……これ、長くなりそうなので、別の回で。あらためて、その5。椎葉村は、そういったいきさつで源氏と平氏が共存することになったのだが、秘境で生きていくために反目などしている余裕はない。いつしか助け合いの精神が芽生えて今に至るそうだ。「分断」が問題視されている現代においてはまさにパラディーゾ(急にイタリア語。なぜだろう?そっか、イタリアオペラのことをいくつか書いたから頭がそっちよりなんだな)。離島もいいが、こういう秘境で暮らすのもいいかも……と思ったら、この地に移住する若者が後を絶たないとのこと。離島で暮らすのもここんとこブームなんだとか。なんだ、結構、私って普通!? でも、落ち武者狩りには遭いたくない。身なりをぴしっとしよう、ぴしっと……と言っても、服装は私の不得意分野である。誰か私を着せ替え人形にして遊んでくれないだろうか。因みに、日本では「ルンペン」は浮浪者の意味で使われるが、ドイツ語の「Lumpen」は「ボロ着」の意味である。だから、中学のとき、穴の開いた体操服を着せられていた私は、まさに「Lumpen」をはおったルンペンであった!(偉そう)

男もすなる不倫といふものを、女もしてみむとて、するなり

2020-11-23 09:32:37 | 日記
そりゃあ、イイネは押せないだろう。テーマが「夜の営み」「不倫」である。因みに、刑法上、「わいせつ」とは、①いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するものをいう(最判昭26.5.10)。つまり、ムラムラさせ、恥ずかしいと思わせ、さらにけしからんと思わせて初めて「わいせつ」に該当する。縮めて言えば「ムラムラ」「恥ずかし」「けしからん」である(この表現は私の専売特許である)。すると、「夜の営み」は、それが健全な江戸の庶民の生活風景であれば「恥ずかしい」と思わせても「けしから」なくない。「不倫」は、「けしからん」と思わせても「恥ずかしい」ものではない。だから、いずれも「わいせつ」には該当しない。なかには、「不倫」と聞いて、勝手に、ラブホでの行為まで連想して真っ赤になる人がいるかもしれないが、法律は、そんなうぶな人の面倒まで見てられない。だが、刑法の構成要件に該当するなんざよっぽどのことである。社会の良識はその手前にある。だから、不倫をしたマッチは活動自粛に追い込まれたのだ。こうした世の中であれば、現に不倫の恋に身を焦がしている当事者たちは、その秘めたる思いを誰かに聞いてほしくても語るに語れまい。よござんす。オアシス・イージマがその任に当たってしんぜよう。妻子ある男性と禁断の恋に落ちたあなた、夫も子供もいるのに年下の部下との許されぬ愛にはまったあなた、ワタクシにこっそり話されよ。親身になって聞いてあげますぞ。いや、聞くだけではない。もし、「男もすなる不倫といふものを、女もしてみむとて、するなり」な方がいれば、よし、分かった、オアシス・イージマは体も張ろう。つまり、オアシス・イージマは、相談だけではなく、当事者にもなる覚悟である。ただし、私は正真正銘の独身だから、私との関係が不倫になるためにはお相手は人妻でなければならぬ。え?聞いた話や体験した話をブログに書くんだろって?そりゃあそのくらいのお駄賃はいただかないと。大丈夫。フランス王の話をマントヴァ公爵の話にすり替えたリゴレット程度の設定変更をするからバレない。それから「良識」と書いたが、これほど当てにならないものはない。例えば、黒人奴隷を解放して自由にさせようと奮闘するハックルベリーは良心の呵責に悩むのだが、この場合の良心とは「奴隷の所有者の所有権を害してはいけない」である。ハックは、他方で、奴隷のジムを自由にしなければならないという心の欲求もかかえている。そこで、良心ってなんだろう、と悩むのである。さてさて、もともと今回の記事は二本立ての予定で、後半は打って変わってテーマは「純愛」。鶴富姫のことを書こうと思ったが、不倫話で相当なヴォリュームになった。次回への持ち越しとしよう。

聖人君子

2020-11-22 09:22:49 | 日記
マッチが不倫で活動自粛だと。プライベートは関係ないってわけにはいかないのが日本。アメリカもそうか(だが、単に倫理の問題と言うよりも、集団リンチの臭いもする)。そこへいくとフランスは……、いや、フランスも今と昔では話が違うそうだ。キューリー夫人が不倫をしたときは、これを糾弾するメディアがあったそうだ。だが、同時に擁護するメディアもあって、それぞれの記者が決闘をしたそうな(これぞ代理戦争)。このときの決闘は剣と剣(バロン・オックスとオクタヴィアンの決闘も剣と剣であった)。でも、キューリー夫人の不倫は初めて知った。そりゃあ、お子様が読む偉人伝には書かないだろう。でも、野口英世が大酒飲みだったってことは小学生のときに読んだ。当時の私は「偉い人=聖人君子」のイメージを持っていたので(マッチを叩く現代の日本人と同様のメンタリティー?)、野口英世が大酒を飲んでくだをまく様が残念に感じられた。同時代人の証言に「酒でも飲まなきゃやってられなかったんだろう」とあったが、その意味がよく分からなかった。今では分かりすぎるくらい分かる。因みに、「そのとき歴史がうにゃうにゃ」のMCだった某殿(の末裔)が泥酔してタクシーの運転手さんを足蹴にしたときも、功成り名を遂げた人がなぜこんなバカなことをするんだろう、と思ったが、その後、殿といえども放送局の中では半端なくストレスがかかっていたんだなぁ、と見方がちょっと変わった私であった。もちろん暴行は許されないから、それなりの代償を払うのは当然である。殿はニュースから降板し、しばらくテレビで見なかった(「そのとき……」は事件後だいぶ経ってからの番組である)。因みに、殿は、退局後朝ドラ「アサが来る」で役者をやられていた。堂々としたものだった。一緒に出ていたミヤネ屋の宮根さんがガチガチだったのとは対照的だった。最近ではチコちゃんに出ていたが半分見逃して残念だった。

一本のイイネも打たれず!完全試合達成!

2020-11-21 10:06:53 | 音楽

昨日当ブログを訪れた人の数は322人。そのうちの誰一人としてイイネを押さなかった。これは快挙である。この快挙を今朝一番のネタにすべく、日付が変わる頃から「押さないでね、押さないでね」と念じていた。7回まで一人の走者も出さず、完全試合がにおってきた投手の心境。だが、永久にイイネ無しとは限らない。削除するわけではないのだから、掲載していれば誰か物好きが押すかもしれない。時間を区切ろう。今書いてるこのブログを掲載するまで誰も押さなければ完全試合達成である。すると、この記事の投稿と、イイネを押す人の早い方が勝つことになる。だったら、ぐだぐだ言ってないで、さっさとこの記事を投稿すればいいのだが、しかし、そういう仮差押えをするような真似はしたくない。今日の予定記事をしっかり書いた上での競争である(競争と言っても、他に誰も走ってないという噂もある)。もし、この記事の投稿直前にイイネが押されたら、9回二死からポテンヒットを打たれたようなもの。それはそれでネタである。つまりなんでもネタにする私である。ということで、正々堂々と予定した記事を済ませてしまおう。その1。チコちゃんで、人間以外の動物は、猫も含めて白目がないと言っていたが、猫に白目がある。写真のケメ子にも白目がある。因みに、黒目が光ってしまっているが、光ってないところが白目である。その2。私はビートルズでは「ガール」を書いたジョン・レノンが好きである。一番好きなのは「I am the walrus」(オレはセイウチ)。一般の人はほとんどイイネを押さないような奇っ怪な曲であるが、私は大好きだ。因みに、いわゆる海獣といわれる生物に私はあまり詳しくない(怪獣の方が詳しい)。オットセイはまだ分かるとして、アザラシ、ジュゴン、セイウチあたりの区別がよくついていない。まだ、走者は出てない。ちょっとどきどき。その3(いよいよ9回裏。パーフェクト目前)。最近、私はお疲れモードである。なくしたジャケットは出てきたが、自転車のカギとチケットは消えたまま。でも、自転車はスペアのカギがあってどうにか乗れている。忙しい原因は、二つの通唱会の幹事をほぼ同時にやっていること。もう人の名前を間違えるわ、パートを間違えるわで散々である(ご迷惑をおかけしてます)。こないだ靴を履こうとしたら靴の中の様子が左右で異なっていたのだって、そうした状態の表れ。

何かがめくれたのか?違う。白い方はスリッパである。気分も最悪。だが、運命のクラリネットの練習をしたら、いっぺんに元気になった。ベートーヴェンで沈んだ気分はベートーヴェンで活気づく!さあ、いったぞー、完全試合達成の瞬間である!「投稿」ボタンを押す。ん?「タイトルを入れてください」だって。ちょっと気がせいた。

ガール/江戸の長屋の夜の音/Stauとstay

2020-11-20 08:07:47 | 音楽
誰か私の話を聞きたい人いる?昔、私のところに泊りに来た女の話なんだけど……いないっ。お前のそんな話なんか聞きたくない。あ、そう。ここで終われば今日のブログは短くてすむ。読むのが楽である。だが、これがジョン・レノンの話となると続きが聞きたくなるだろう。そう、これはビートルズの「ガール」で、ジョンの曲である。イントロなしでいきなりジョンの「Is there anybody going to listen to my story,all about the girl who came to stay?」で始まる。この「stay」を「泊まる」と訳したんだが、一泊だけって話ではなく、同棲のイメージだろう。同棲と言えば……ここから若干成人向けである。いちいちこう断るのは苦い経験があるからである。以前「Samen」について書いたら、それまで熱烈な読者でいてくれた某嬢の相当な顰蹙を買うことになった。私は私で、純粋にドイツ語の議論をしたかったのに、飲み屋のおやじの下ネタと同列に扱われたのが極めて不本意だった。よーし、だったら、もうそういう話は聞かせてやるものか、と思って裏ブログを作って、そっち系はそちらに書くこととし、話の分かりそうな数人のお姉様だけにアドレスを教えた。5年以上前のことである。すると、表ブログ(当ブログ)より面白いと大好評。必至にサイトを探すお友達もいた。だが、同時に二つのブログを書き続けるのは大変(同時期に二つの通唱会を主催するのも大変)。表に集中することとにし、成人向けのときは、その旨のお断りを入れることとした。因みに、その裏ブログはもうない。運営会社がブログサービスを中止したとき移行の手続をとらなかったから、もはや影も形もない。ということで、同棲の話である。「巨人の星」の星飛雄馬の実家は長屋である。長屋は一棟の建物を複数に区切って数世帯が暮らしている場所である。すると、テラスハウスやマンションだって、言ってみれば長屋である。だが、長屋というと、建て付けが悪いイメージがあり、隣の声は丸聞こえだろう。こないだ式根島で泊まった民宿が長屋風で、やはり隣の音が丸聞こえだった。ああいう所だと、かりにガールと同宿だったとしても営みは憚られただろう。さあ、ここからである。江戸の街で町人の同棲場所は長屋。当時は、テレビもない。暗くなってすることと言えば「営み」くらい。実際、当時は子だくさんだった。だが、隣の音は丸聞こえ。声を出さないように、例えば、てぬぐいをかみしめながら、と言っても限界があるだろう。ってことは、江戸の街の夜はある種の声で満ちあふれていたのではないか。現代の都会の朝がカラスの声で満ちあふれているように。365日、町中がそういう状況であれば、「夜はみんなそういうもの」ということで、人は慣れてしまうだろう。これが今朝、カラスの声を聞きながら私が思いついた仮説である。私は大真面目である(いつも真面目である)。どこぞの偉い先生で、江戸の町人文化を研究された方でそういうことをおっしゃってる方がいないものだろうか。「営み」と言えば、ドイツ語学校で授業中に「Stau」(渋滞)と題された映画を見せられた。渋滞で動けなくなった車が揺れている。中で営んでいるのである。ふと思った。ドイツ語の「Stau」と英語の「stay」は似ている。意味も共通する。ってことは語源は同じ?

また一つ消えたジャケット。そしてすべてなくなった。

2020-11-19 12:03:51 | 日記
吾輩はバカである。名前はまだない。名前がないのはうそである(バカはホントである)。名前はあるが、それはバカの代名詞である。楽しみにしていた昨夜の室内楽の演奏会に行きそびれたその理由というのがバカ丸出しなのである(山田洋次監督が駆け出しの頃「バカ丸出し」という映画を撮った。主演はハナ肇だが、寅さんになる前の渥美清がちょい役で出てて全部もっていった)。よし、これから出かけるぞとなったとき、チケットが見当たらない。探しているうちに時間になってしまったのだが、これだけならありそうな話で、半バカである。本バカはここからである。結局、行けずにがっかり。今朝を迎えた。すると、ジャケットがない。ないない、どこにもない。あっ、これだっ。昨日の昼は某イタリアンに行ったのだが(五文字の店ではないとこ)、行くときはジャケットを着ていた。そして今朝は家の中にない。店にチケットごとジャケットを置き忘れたのに違いない。ジャケットを置き忘れるのは私の十八番である。過去二回通唱会で忘れたことがある。そのときは二回ともくまぱんださんが拾ってくれて手元に戻った。あのフリースジャケットをなくすことはもうない。殿堂入りにしたからである(殿堂=押し入れの奥)。代わりに、別のジャケットが次々になくなっている。今回見えなくなったのはカジュアル・ジャケットの最後の砦である。だが、思い出したから大丈夫。店に電話すればあるだろう。チケットは残念だったがジャケットは戻るだろう。と、ところが、さきほど電話したら「ない」という。事件は振り出しに戻った。じゃ、いったいどこに消えたのだ?ひとつ手がかりになりそうなことがある。自転車の鍵も無くなっていること。でも、自転車はある。これらのことから推理できること=ジャケットを着て帰ってきて、自転車にカギをかけてそれをジャケットのポケットに入れた。その後、ジャケットが見えなくなった……そうなら家のどこかにあるはずである。だがない。ミステリーである。それとも、もう一度店に行ってじかに聞いてみようか。でも、そうすると、またジャケットをなくすかもしれない……いや、大丈夫だ、なくそうにも、もうジャケットは残ってない。さて、行きそびれた演奏会の話である。行った人の話だと、素晴らしかったそうだ。そうだろう、そうだろう、私はそのアンサンブルのファンを自認していて、ずっと楽しみにしていた。プログラムの中にはドヴォルザークの「アメリカ」もあって、第一楽章に出てくるフレーズは「ティーラララ」じゃなくて「ティーイラララ」なんだよな、そういえば同じ作曲家の「新世界」の第四楽章の出だし、映画「ジョーズ」でサメが迫ってくるときの音楽(byジョン・ウィリアムズ)とよく似たアレも、「ティーラッ」じゃなくて「ティーイラッ」だったよな、なんてことを思いつつ演奏会の日を待ち焦がれていた。だのにだのに、嗚呼無情……無情ではなくてバカ。キョエちゃんはオカムラではなく、私のところ来てバカーと言うべきである。ブログも、後は実際の感想文を入れるまでできていたがボツである。ボツになったのはそれだけではない。会場に麗しいご婦人が来ることが分かっていたから、終演後、ディナーにお誘いして、で、「今夜は帰さないよ」という台詞を用意していた。それもボツである。

スィート・マサシはアナザー・マン/猿の助演出の「影のない女」

2020-11-18 09:15:43 | 音楽
洗い物をしてたら付けっぱなしのテレビからバッハの無伴奏チェロ組曲が聞こえてきたので画面を見たらバッハ会長が写っていた。隣に元柔道の小川直也氏でもいればダブル・バッハだったが、いらしたのはWald氏だった。さて、ビートルズの「Get back」に「Sweet Loretta Martin thought she was a woman. But she was another man」というくだりがある。「可愛いロレッタ・マーティンは自分を女だと思っていたが『アナザー・マン』だった」というその「アナザー・マン」は通常は「別の人」だがここでは「実は男」の意味。歌詞を「スィート・マサシ」に替えればさしずめアルトを歌う私である(「スィート」じゃないけれど)。その「Get back」を最初に聴いたとき「奇っ怪」に感じたと書いた。「奇っ怪」で思い出すのは「怪物くん」の主題歌。最後「愉快、痛快、ききかいかーいの、怪物くん」で締める(ききかいかーい=奇っ怪)。「怪物くん」の原作は藤子不二雄。藤子不二雄というのは我孫子さんと藤本さんが合体したペンネームで、当初、藤子不二雄は共作としていたが、実際はそれぞれが単独で書いていた。「どらえもん」は藤本さんで、「怪物くん」は我孫子さんって具合である。後年「F」「A」が付いてどちらの作品か分かるようになったが、これがなくても作風が違うからすぐ分かる。かわいい系が藤本さんで、おどろおどろしいのが我孫子さんである。ビートルズも、多くの曲がレノン&マッカートニー作とされているが、実際は、別々に作っていた。こちらもどちらの曲かすぐ分かる。まず、自分の曲は自分で歌っている。作風も全然違う。メロディー豊富なのがポールで、「奇っ怪」なのがジョンである。だから、ジョンが凶弾に倒れたときその死を悼む群衆が「イエスタデイ」を合唱したときはジョンが浮かばれないと思った(「イエスタデイ」はポールの代表曲)。「怪物くん」に戻る。漫画で読んだとき、怪物くんが父王の支配する怪物ランドにヒロシを連れったら人間だとばれてヒロシが石にされる、だが、怪物くんが泣いて暴れたので父王が人間に戻す、という回があった。Rシュトラウスのオペラ「影のない女」でも、皇帝(皇后は霊界の王の娘)がいったん石になるが最後に人間に戻る。このオペラをサバリッシュの指揮で見たとき演出は先代の市川猿之助だった。歌舞伎(もどき)を舞台で生で観たのはこのときが初めてである。実に絢爛豪華だった。着物を着て白塗りになった欧米のオペラ歌手は相当に見栄えがした。再び「怪物くん」に戻る。怪物くんの声を担当し、主題歌を歌っていたのは白石冬美さん。私が子供時代、テレビはこの人の声であふれていた。「ひゅうま!」と言って泣いていた明子姉ちゃん(巨人の星)も白石さんだった。高校の頃、いっちょ前に深夜放送を聴いていたのだが、なかでも野沢那智さんと白石さんのコンビの曜日が好きだった。プラトニックな二人の関係がよいといった読者からの葉書が読まれたときのラジオから漂ってくる雰囲気から、ホントにプラトニックなのかな~と怪しんだ高校生の私であった。こういう勘ぐりをする私は当時から下司である(三つ子の魂百まで)。

ミシェル

2020-11-17 09:40:26 | 音楽
ちょっと前に「穴」を話題にした。「穴」と言えば、「fixing a hole」というビートルズの歌がある。私はずっと道に開いた穴を直すんだと思っていたら、雨漏りがする穴を直す歌だった。ビートルズで最初に聞いたのは「Get back」。同年代でそういうお友達が結構多い。年代的なものがあるのだろう。つまり、この曲はビートルズが解散する直前くらいの曲で、その頃、私は10代前半、こういう音楽を聴き始める頃に当たったのである。きれいというよりエキセントリックな曲で、お子様だった私のビートルズの第一印象は「奇っ怪」(今ではこの曲は大好きである)。ところで、私が通ってた中学は下校時に音楽を流していて、きれいなオーケストラ曲だったのだが、ある日なんかの機会にそれがビートルズの「ミシェル」と「ガール」の編曲だということを知ってびっくり。手のひらを返してファンになった。「ミシェル」のオリジナルは、ポール・マッカートニーが歌ってる。その歌詞にフランス語が入っていて、なんの意味もわからず真似して歌っていた。こんな具合である(今ある余分な知識をそぎとって、真に当時聞き取って歌ってた内容を再現する)。「ミーシェール、マーベール、そんでー僕ー、ボントレーベーノーソンブル、トレベノソンブル」。さあ、半世紀経っての答合わせだ。「Michelle,ma belle. Sont des mots qui vont tres bien ensemble. Tres bien ensemble」。ふむ、「mots qui」を「僕ー」と聞き間違ったのはいただけないが、後は大体合ってる(といえるか?)。ところで、この歌のミシェルは、ポールが「ma belle」と言っているから女性だろうが、映画「禁じられた遊び」では男の子の名前がミシェルである。なんでも「Michel」なら男性名で「Michelle」なら女性名だが読みはどっちも「ミシェル」だそうだ。語源は、言わずと知れた大天使ミカエル。子供の頃の天使についての私のイメージはキューピーマヨーネズのキューピーちゃん、つまり羽根の生えた可愛い子供であったが、萩尾望都の「百億の昼と千億の夜」を読んでからは、巨大な、恐ろしい感じさえする美男子である。その呼び名は国によって「マイケル」「ミヒァエル」「ミシェル」「ミケーレ」と様々。因みに、見目麗しいフランス人の女性騎手の名前が「ミカエル・ミシェル」である。これってマイケル・マイケル?(追記。調べたら全然珍しくなかった。マイケル・ミシェルさん、マイケル・ミケーレさん等続々)