拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

道灌山(西日暮里は海だった)

2024-09-27 06:31:53 | 地理

西日暮里駅は、何十年も単に乗換駅のみの利用で、駅外に出たことなど覚えてないくらいなのだが、こないだ上野台地を上野から駒込まで歩いた際、なにやらえらく面白そうな所だということが分かり、今度は最初から西日暮里をターゲットにして歩いてきた。まずは、おさらいから。上野台地は、西日暮里駅の辺りが一番狭くなっているため道路を通すのに都合がよかった。で、道灌山通りが切り通され、台地が南北に分断された。下の写真(山手線のホームから撮った)の中央が道灌山通りであり、左右にある高台が分断された台地である(もともと細い切り通しがあり、それを広げたようである)。

分断面の幅は写真の赤矢印で示した通り大変狭い。そして、写真の左側が「諏訪台」であり、崖上には西日暮里公園がある。そして、右側が昔の「道灌山」であり、通りの名前はここから来た。この日は、旧道灌山を「ひぐらし坂」(上の写真参照)から登るルートを選択した。

というわけで、改札を出て通りを渡ってひぐらし坂の登り口に向かう。左端に坂名を記した標識がある。右側は道灌山通りである。

坂の途中に遺跡を表す標識が現れた。

縄文時代から弥生時代にかけての竪穴式住居の跡が発掘されたそうな。なぜ、この場所に遺跡があるかと言えば、太古の昔、この辺りが陸地の端だったからである。だから、てっぺんから東を見ると、今は線路があって、その先にビルが立ち並んでいるが、

ここが海だったわけだ。その後、海面が下がって陸地が広くなった後も、現在の線路の箇所には音無川が流れていて、


道灌山(広重)出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/)

その先は田園風景で、それを見下ろす道灌山はなかなかの観光スポットだったという。


道灌山虫聞之図(広重)出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/)

ただし、現在では住宅地や学校のグラウンドになっていて、高台ではあっても「山」という感じはない。

ずっと東側を見下ろしていたが、振り返って反対側を望むと、

すぐそこに西端が見える(何度も言うがホントに狭い)。でも、狭いのは東西で、北側はまだまだ続いて果ては王子の飛鳥山公園である。こないだ歩いたときは、山手線(田端の先で西にカーブし台地を突っ切る)に沿って途中で西に向きを変えたけれど、今度はまっすぐ王子まで歩いてみようと思う。

 


旧中山道

2024-09-24 18:08:49 | 地理

チコちゃんで、関東と関西の境は?というお題が出て、私、ブラウン管(古!)のこっちで「箱根の関!」と回答したんだけど、ブー。正解は、 東海道の鈴鹿の関と、 東山道の不破の関と、北陸道の愛発の関だと言う。そっか、京都から見た防衛線の外が関東ってわけね。京都が基準と言えば湖もそう。京都から見て近江(近い海)がびわ湖で、遠江(遠い海)が浜名湖。因みに、京都の人は「天皇陛下はちょっと関東にお散歩に行ってらっしゃると」と言ってるそうだ。亡くなられた髭の殿下のご息女様(その留学記が今ベストセラーだと言う)が徹子の部屋で仰ってました。

ところで、東山道ってどこかと思ったら中山道の旧名だという。中山道って江戸からほぼ本州の真ん中を通って京都に行く道だよね。関ケ原の戦いで、家康の分隊が東海道を進んだの対し、秀忠の本体は中山道を進軍し、途中で真田をやっつけてやろうとちょっと寄り道をしたら足止めを喰らって関ケ原に遅参し、家康の不興を買ったのだった。なるほど、真田親子が立て籠もった上田城は、中山道からちょっと北にはずれている(さっきまで長野の地図とにらめっこをしておりました)。

私は、もともと神奈川県民だったから、中山道より東海道の方がなじみあるし、現代では東海道の方が圧倒的に交通量が多い。中山道は山道だから上り下りも多くて大変そう。なのに、なぜ、徳川本体が中山道を選んだのかというと、東海道は、ところどころに難所があったからだという。まずは前記の箱根。それから大井川(箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川)。なるほどね。東海道の川はみな河口近くだから幅が広い。しかも、大井川って橋がなくて、旅人は人足にかつがれて渡ったという。川の真ん中で、人足に「お客さーん、料金上げてもらえねぇかねぇ」とか言われて止まられたら背筋が凍るだろう。

因みに、某民放局のアナウンサーが「旧中山道」のことを「いちにちじゅうやまみち」と読んだら、先輩アナウンサーから「きゅうちゅうさんどう」だよと直されたっていう小話(こばなし)みたいな話がありました。因みの因みに、私は「東山道」と入力するために「ひがしやまみち」で入力して変換した。だって「とうせんどう」で変換しないんだもの。あっ、「とうさんどう」って言うのか。そっちだと変換した。


上野台地歩きで山手線最後の踏切に遭遇

2024-09-18 06:57:44 | 地理

車窓から左右の景色を見ていると、山手線が上野から田端辺りまでは上野台地の縁(崖下)を通っていることが分かり、その崖上を歩くことを次なるミッションに決めていたのだが、この暑さのせいで繰り延べになっていた。ようやく秋風が吹いてきたのでこのたび実行した(冒頭の図は全行程の概略である)。

スタートは上野公園の南口である。

台地の入口と言うにふさわしい上り階段。ここを上って、しばらく上野公園内を進むと上野駅(公園口)が現れる。この日、最初に遭遇した駅である。

あら、びっくり。上野駅と東京文化会館の間を隔つ車道がない。昔は、ここに信号があって、信号が変わるのを待って渡ったものだが、今は往来が自由自在である。とんだ浦島太郎だ。一体、いつかからこうなったんだろう。

本来は、ずっと台地の縁に沿って線路を眼下に眺めながら歩きたいのだが、上野駅から先は、縁に道がない箇所が多く、かと言って忍者じゃないんだから(あるいは、クライミングの選手じゃないんだから)断崖を這って進むわけにもいかないので、この辺りでとった作戦は、とりあえず台地の中央辺り(寛永寺や谷中霊園がある)を歩きつつ、崖下に通じる坂が出てきたらそこを進み、跨線橋の袂まで行って線路を上から眺めて元の道に戻るという「タッチ・アンド・ゴー」作戦、あるいは、ムハメド・アリが行った「蝶のように舞い、蜂のように刺す」作戦である。歩く距離はいきおい長くなるが、望むところである(暑さでぱっとしない体調への喝である)。

その跨線橋の一つが御殿坂の先に架かる下御隠殿橋(しもごいんでんばし。日暮里駅のすぐ脇)である。

この橋は、荒川区のHPにも載っていて、橋の下を走っている路線は京浜東北線、山手線、新幹線(東北、山形、秋田、北海道、上越、北陸)、高崎線、宇都宮線、常磐線そして京成線だそうだ。左側の断崖が上野台地の縁であり、車窓からはこんな感じで見えていたものである。

ん?京成線?そう、京成線も走っている。次の写真は、ここよりちょっと上野寄りに戻ったところの寛永寺陸橋から撮ったものだが、JR線に交叉する形で山手線の内側に入っていく路線がある。

えー?山手線の内側を走ってる電車って都電荒川線のほかにあったっけ?あった。それが京成本線だったのである。日暮里駅の辺りではJR線に平行しているが、その後、カーブしてJR線に交叉した後、地下に潜って京成上野駅に向かうである。

先を急ごう。日暮里を後にして西日暮里に向かい台地を歩いていると「富士見坂」の標識が現れた。富士山だから西側だよな、とそっちを向くと、あったあった、いかにも昔は富士山が見えたけど今ではビルが邪魔して見えません風の坂が。

富士山が見えた頃の写真と比較すると、富士山を見えなくした犯人ならぬ犯ビルが分かる。この辺りは「谷根千」エリア内で、「夕焼けだんだん」や「谷中銀座」は近くである。次はそっちの方に行ってみるか。ところで、今、台地の真ん中を歩いていて、ちょっと東に行けば崖なのに(その下に線路)、西を向くとすぐさま下り坂。なんだか妙に台地が狭くなった気がするんだけど……

その感覚は正しかった。後から知ったのだが、ここからちょっとの所にある西日暮里駅の辺りが上野台地の一番狭い箇所なのだそうだ。西日暮里駅前を、台地を寸断する形で道灌山通りが通っているのはそのせいである。狭いから切り通して道を敷くのにもってこいの場所だったわけだ。そういうわけだから、台地の旅人は西日暮里駅でいったん下車ならぬ下山をしなければならない。下り道を下りきった所にあるのが道灌山通りと西日暮里駅である。

通りの向こう側(北側)に見えるのが寸断された台地の片割れである。西日暮里駅のホームからこの断崖を見る度に、線路に面した所は高いけど反対側(西側。写真の左側)がすぐ低くなっているのはなぜだろう、切り崩したのかな、などと思っていたが、そもそも、この幅(写真の左右に収まるくらいの幅)がこの辺りの上野台地の幅なのだ。なるほど、狭いと思ったわけである。

さて、通りを渡って再び台地の上に乗りたいわけだが、断崖の西(写真の左側)に「ひぐらし坂」という有名な坂があることをこの時はまだ知らなかったので(知ってたらそっちから上った)、線路に沿った坂(写真の右端)を上っていった。木々の合間からときたま下界(線路)が見える。

オリュンポスの神々もこのようにして人間界を覗いていたのだろうか。すると、上りきった辺りに突然公園が現れた(田端台公園)。

なんということもない普通の公園なのだが、まさか崖上にこのような世界があるとは下界の車窓からは想像もつかなかったからまるで空中庭園であり、集う人々がオリュンポスの神々に見える。因みに、小遊三師匠がパリと言っている大月の一つ手前の猿橋の駅前からケーブルカーで山の上に上ると、そこにいきなり住宅地が現れる。下界からは想像もつかない別天地である。

その後、脇に逸れて少し下る道を行くと田端駅の南口に出くわした。

田端駅は山手線と京浜東北線の乗換駅だからホームは混雑しているが、この南口はえらくこぢんまりしている。それでも「オリュンポスの神々」にとっては大事な改札口であろう。などと思っていたら、急ぎ足で駆け下りてくる神々の一人とすれ違った。へー、神様も急ぐことがあるんだ。私の奥地の家の最寄り駅じゃないんだから、そんなに急がなくてもすぐ次が来るだろうに。

さて、田端を過ぎると、いよいよ、京浜東北線や新幹線等と山手線が分かれる分岐点である。

写真の上が北に向かう新幹線であり、下が西の池袋方面に向かう山手線である。その間にある高台は車窓からもよく見える景色である。実は、この写真は合成である。そう都合良く二路線の電車が一緒に来てくれるわけがなく、当初は二枚並べて載せようかと思ったのだが、試しに上下で貼り付けてみたら見事に一体化したものである。この後、この山手線の電車は、これまでになかった経験、すなわち、進行方向の右手にも断崖を見る、という経験を味わうことになる。私も、山手線に沿って、進路を西に向けて進むことになる。

ここまで来ると、上野台地に乗っかってるのもあとわずかである。これまで高台にあった道が駒込駅に近づくにつれ、下り坂になり低くなっていく。

そこに突然、踏切が現れた。

え?山手線に踏切なんてあったっけ……って、現に目の前にある。なんと山手線に残る最後の踏切だそうで、廃止が決まっているそうである。期せずして、私とは初めましてと言ったそばから今生の別れとなったわけである(ジェンティルドンナが引退レースの有馬記念で初めて中山競馬場を走って優勝した際、実況アナが発した「こんにちはとさようならを同時にやってのけました!」は語り草である)。いずれにせよ、踏切があるということは、道路と線路の高さが同じということであり、台地は風前の灯である。

そして、上野台地を降りきったところに商店街と駒込駅の東口があり、

そこから、すぐ、今度は本郷台地への上り坂が現れるのだが、本日のミッションに本郷台地は入ってないから、この日の小旅はこれで終了。駒込駅東口からとっとと帰ったのでありました。大凡二時間の行程であった。

おまけに、今回の小旅の前奏曲を載せておこう。

上野公園を上る前に脇を通った不忍池である。池は蓮の葉っぱで被われていた。なんでも、蓮の葉っぱの浮力は大きいもので100㎏くらいあるそうだ。だったら、人が乗っても大丈夫じゃん……そうか、お釈迦様が乗ってるくらいだからなー。

 

 


江戸川の成り立ち

2024-08-23 13:00:49 | 地理

江戸川は妬ましい河である。「妬ましい」と言っても、やっかむとかそういう意味ではない。「ニーベルングの指輪」でジークムントがヴォータンの遺した剣を「ein neidliches Schwert」(妬ましい剣)と言った場合の「妬ましい」と同義、つまり、憧れるがなかなか手に入らない、そう言った意味合いである。そう、江戸川は私にとっては渡りたくて渡れない河=妬ましい河なのである(とか言いつつ、トム・ソーヤーがこっそりミシシッピ川を渡ったごとく、ワタクシもときどきこっそり江戸川を渡っている。写真はそのときのものである)。

その江戸川だが、元は利根川の本流だったとか、渡良瀬川だったとかいろんな情報を目にする。川づいている今こそ突き詰めるときである。江戸川の成り立ちは利根川の東遷と密接にかかわってるぽいが、それこそこの一週間ずっと調べていた事であるからその延長戦の趣である(甲子園の決勝も延長戦に入った)。分かった(つもりになった)ことは以下のとおり。時系列で見ていこう(以下、能書きは江戸川と利根川に絞る。荒川や中川については数日前のブログに随分書いたので割愛する)。

江戸時代の前、利根川が東京湾に注ぎ荒川がその支流だった頃、渡良瀬川(中流では権現堂川、下流では太日川と呼ばれていた)は独立した河川で東京湾に注いでいた(下図)。これが江戸川の原型である。

江戸時代に入り、利根川の東遷事業が始まった。手始めに新川通が開削され、利根川と渡良瀬川がつながった(下図)。これにより、利根川の本流が渡良瀬川に流れ込み、後に江戸川となる河道は一瞬、利根川の本流となった。渡良瀬川は利根川の支流に成り下がった。

続いて、赤堀川が開削され、利根川は、銚子沖の太平洋に注ぐ常陸川とつながり、利根川本流の河口は銚子沖に付け替えられた(下図)。これにより、銚子と江戸は水路でつながり物流ルートが完成した。

その後、利根川(赤堀川)と太日川のショートカットたる逆川が開削され、それまで利根川と太日川をつないでいた権現堂川は廃止された(下図)。こうしてできた利根川と東京湾を結ぶ河道(利根川から逆川が分流して太日川につながる河道)が現在の江戸川である。

そして、昭和に入ってから、各河川の河口付近に放水路が作られた。江戸川にも放水路が作られ、それが本流となりそれまでの流れは旧江戸川となった(下図)。

以上である。短い期間であったが利根川の本流となった時期もあるし、利根川東遷後も、銚子と東京を結ぶ大動脈たる水路であるからして、ますます妬ましい河である。東京都と千葉県を分かつ境界の役割も担っている。「江戸川」という大層な名称も伊達ではない。なお、神田川もまた「江戸川」と呼ばれたことがある。東京都文京区で神田川に架かっている橋が「江戸川橋」と呼ばれるのはそのためである。

 


春のうららの隅田川ってどの川?

2024-08-19 09:51:53 | 地理

ウチ(現住所=足立区)の近所でそこそこ立派な邸宅は大抵盛り土の上に建てられている。

これは洪水対策だろうか。ここら辺は中川と綾瀬川(もちっと先に行くと荒川)に挟まれた地帯で、水害がいつ起きてもおかしくない。「綾瀬」という地名だって、いかにも水が出そうな地名である。さて、その中川なのだが、「中川」のほかに「新中川」と「旧中川」がある。荒川にだって「元荒川」がある。そもそも、ここいらの川(東京湾に注いでる川)は古代から現代にかけて大変遷があったそうだが、その内容は複雑怪奇で一朝一夕には理解できない(私の頭脳では)。とりあえず、分かったつもりになったところだけでも、次に疑問に思ったときまた一から調べ直す煩から逃れるためにメモっておこう。冒頭の図(例によって超簡略化したから向きはまったく正確ではない)を参考にしつつ読んでいただければ幸いである。

【昔昔の物語】昔、昔(Es war einmal)、利根川は東京湾に注いでいた。荒川は利根川の支流だった(利根川と合流していた)。すなわち、現在の元荒川を通って利根川に合流していた。つまり、利根川と荒川の二台巨頭はかつて連合軍を構成していたのである。そして、現在の隅田川には入間川が流れていた。つまり、現在は荒川の一支流である入間川は、昔は列記とした独立河川だったのである。

【江戸時代の二大改修】その後、江戸時代に二つの大改修が行われた。一つは利根川の流れを東に変えて、銚子先の太平洋に注ぐようにしたこと(利根川の東遷)。もう一つは、荒川の流れを西に変えて、利根川ではなく入間川に合流させたこと(荒川の西遷)である。これにより元々の入間川の下流が荒川になり、独立河川だった入間川は荒川の支流になり下がった。母屋を後から来た荒川に横取りされ、それまで大名だったものが家来に格下げになったごとしである。そして、それまで利根川の本流だったが東遷により本流でなくなった部分が古利根川となり、荒川の本流だったが西遷により取り残された部分が元荒川となって、そのいずれもが中川に合流している(中川の支流となっている)のが現在の姿である。だから、現在の中川の流路はおおよそ東遷前の利根川の流路であり、その全部を「古利根川」と言ってもよかったところだが(東遷前の利根川全体をこう呼称する場合もある)、東遷した「利根川」が存在するせいだろうか、「古利根川」は中川と合流するまでの名称にとどまり、「中川」が元の利根川の屋台骨を背負う名称となっている。なお、利根川東遷以前、利根川は亀有付近で二つに分流し、そのうち東側の流れが「中川」と呼ばれ、西側の流れが「隅田川」(現在の「古隅田川」)と呼ばれて現在の隅田川につながっていた(後で再説する)。後者が東遷前の利根川の本流だと書いているものもある。

【荒川放水路】明治以降は、大河川につき放水路が作られた。その最大のものは荒川放水路である。荒川(西遷後の荒川=元の入間川)の下流部分の治水対策として、北区の岩淵水門から東京湾に至るまで掘削が行われ、そこに荒川の水を分流させたのである。古い地図はこの水路を「荒川放水路」と記しているが、現在はこちらが荒川の本流であり(だから「放水路」がとれている)、従来の荒川のうち分流地点より下流の部分(「大川」とも呼ばれていた。初代ゴジラが東京を壊した後に海に帰るとき通ったルートである)が「隅田川」になったのである。さらに、この荒川放水路は途中中川を突っ切ったため中川が分断され、分断されて取り残された部分が「旧中川」となった。

【その他の放水路】放水路は他の河川にも作られた。江戸川(もとは渡良瀬川の下流であり太日川と呼ばれ東京湾に注いでいた。利根川東遷事業により渡良瀬川は利根川に合流し、太日川は利根川の支流となって江戸川になった)にも河口付近に放水路が作られ、そっちが本流となり以前の流れは「旧江戸川」になった。因みに、江戸川は東京都と千葉県の境を形成している。ワタクシが超えたくて超えられない川である(とか言って、ときどき内緒で超えている)。
中川にも放水路が作られたが、こっちは本流とはならず「新中川」と呼ばれ、旧江戸川に合流する。中川の本流は、荒川放水路に突っ切られた地点からしばらく荒川と並行して南下し、最後の最後(河口近く)で荒川に合流する。荒川と並行する部分がかなり長いから荒川水系と思いきや、中川は利根川水系である。中川の分流の新中川は旧江戸川に合流するが(上記)、その旧江戸川の本流(江戸川)が利根川の支流だからである。

【綾瀬川】ウチの近所の綾瀬川は、近年は日本一汚い川の汚名(なんでも一番になりなさい、という言に従えばこれも「勇名」である)を負っているが、もとは利根川・荒川の本流だった、などと書かれている。が、それは今の流れとは別の流れだった頃の話で、現在の綾瀬川は江戸時代に開削されたものである。途中から荒川と並行して流れ、荒川と合流しそうなところに中川がやって来てそっちと先に合流する。

【古隅田川】そして、いよいよ本日のメインテーマである。現在の隅田川は元々荒川の下流だったと書いた。が、上記した通り、東遷前の利根川が亀有付近で二つに分流したうちの西側の流れが現在の隅田川につながっており、それが隅田川と呼ばれていた。綾瀬駅付近の足立区と葛飾区の境が蛇行しているのはこの川の名残だという。その多くが消滅してしまったが、残っている部分もあって「古隅田川」と呼ばれている(同名の川は埼玉県にもあるので区別するために「東京」「埼玉」の括弧が付される)。ほとんどが暗渠だが、綾瀬川を開削した際に分断された部分が小菅の拘置所のあたりで顔を出していて、その傍らが遊歩道になっている。そう言えば、漱石の小説の中に「舟で綾瀬まで行った」旨の記載がある。その頃はまだ現在の隅田川とつながる流れがあったのだろうか。すると、滝廉太郎の♪はーるのー、うらあらあのー、すうみいだーがーわー……の「すみだがわ」とはそっちの隅田川、つまり現在の古隅田川の可能性があるのではないか?と密かに思っている今日この頃のワタクシである。

【垳川】ウチのすぐ近くにあって、埼玉県と東京都の境にあるのでとりあげたが、横綱大関の話の中にいきなり前頭十枚目が出てきたような話である……いや、私が知らないだけで何か由緒があるかもしれない。例えば、やはり近所を流れる葛西用水などは、規模から言えば序二段程の小川だが、相当由緒がありそうである。しかし、今日はもう力尽きたから、調査は後日にすることにする。皆様、お休みなさい(まだ朝だけど)。


台地の縁にある山手線の駅群

2024-07-24 18:31:23 | 地理

こないだ、山手線の西日暮里から目白あたりまでの間が台地と谷の連続である旨を書いた。ふと思った。あのとき私が注目していたのは新宿・池袋方面行き電車の進行方向に向かって左側(山手線の内側)である。右側(外側)はどうなのだろうか。もし、台地の縁を走っているのなら、内側は高くても外側は低いはず。ということで、次に「電車小僧」になった際は外側の窓に張り付いて、そこんとこを検証した。

すると、あにはからんや、例えば田端駅では、内側は断崖絶壁なのに、

外側は、ずっと平地でビルが立ち並んでいる。

ようやく、田端駅を過ぎたあたり(山手線と京浜東北線が分岐する辺り)で、外側にも崖が見えてきた。

すなわち、上野駅から田端駅までは上野台地の縁にあって、内側は高台だが、外側は低地であり、駅は崖下に作られていたのである。これが駒込、巣鴨となると両側とも高いし、大塚になると両側とも低地である。以上を踏まえて、先日作った図を修正・加筆したものがコレである。

さあ、こうなってくると、上野から田端の先までを、内側すなわち高台の縁に沿って線路を見下ろしながら歩きたくてうずうずしてくる。なんのため?答えは簡単、そこに崖があるからさ。だが、この暑さ。私は丈夫で暑くても全然平気とたかをくくっていていきなり倒れるのが迷惑老人の常である……

炎天下の作業と言えば、奥地の家の猫の額(庭)の雑草抜きも相当に暑そう。いっそのこと、除草剤をまいて済まそうか。これまで、通販番組は調理器具のときだけ見ていたが、除草剤にも耳がダンボになる昨今である。だが、除草剤は、効き目の強いヤツは環境への影響が心配であり(隣が畑である)、天然成分で作ったヤツは安全だが効き目の点が心配である。やはり、手作業しかない、と思い詰めている昨今である。

 

 


奥多摩の山座同定(未だ、道半ば)

2024-07-12 10:02:06 | 地理

青梅の真東あたりから奥多摩の山々を見た絵である。日夜、写真、地図、ガイドブック等々を見比べて山座同定に励んでいる(なんと、最近は、このあたりを通っても富士山を目でおわなくなった)。その結果、かなり確信を持つにまで至ったが、どうしても分からない山がある。そこで、ワタクシの学習の成果を披露するとともに、未達な部分について広く教えを願おうと思ってこの記事を書くものである。

まず、山ってやつは、近くにあればあるほど緑が濃く、遠くに行けばいくほど青みがかる。だから、同じ色をした連なりは同じ尾根でつながっている山塊・丘陵である。写真で見ると、一番前列の緑は名もない森林、二列目で左半分に見える若干青みがかったのは青梅丘陵、三列目で右半分に見えるのが高水三山、四列目で中央より若干右よりが本仁田山、最後列が鷹巣山と雲取山である。以上は、間違いのないところである。

問題は、二列目の青梅丘陵である。左端(南東の端)の三方山は合ってると思う。分からないのが、その対極(北西)にあって同丘陵中最高峰の雷電山である。方角からするとその一つ後列の高水三山の中の惣岳山の真ん前にあるはず。だが、写真に写る真ん前の山はなだらかな感じだが、ガイドブックのイラストでは尖って描かれている。だから「雷電山」に「?」を付けたのである。ところで、真後ろの惣岳山の左側に、ぴょこたんと尖った部分がある。写真に「?」を付けた出っ張りである。これはいったいなんだ?もしかして、これこそが雷電山か?だが、色で見ると、この出っ張りは高水山、岩苔石山そして惣岳山の「高水三山」と同じ色をしているのに対し、三方山を含む青梅丘陵とは色が異なる(より青みがかっている)。地形図で見ると、高水三山の山塊には、その三山のほかにもいくつか出っ張りがあるから、その一部であって、雷電山は、やはり惣岳山の真ん前のまあるい山体だ、というのが現在の私の見立てである。

いっそのこと現地にいったらどうか。だが、青梅丘陵に入ってしまったら逆にその外観は分からない。青梅丘陵の全体像を眺められるいいスポットがないかを探している今日この頃である。

因みに、私がこのあたりの山々で、遠くから見て一番魅入られるのは本仁田山である。ミニ富士山とも言うべききれいなカタチをしている。一般にはほとんど無名のようだ。高さは1224メートルある。神奈川県の大山が1252メートルだからそれとほぼ同じである。


崖を愛す(山手線から見る凸凹)

2024-07-04 11:26:27 | 地理

奥地に行くときは都心を通る。地方間を走るトラックが途中に首都高を経由するのと同様である。ただし、私は電車を乗り継ぐから首都高には乗らず、これまでは地下鉄を乗り継いでいた。一番安いからである。だが、先週のように、1週間に三度も通ったりすると、時間が一分でも短い方がいい。ということで、山手線を使ってみたらあなたこれが面白い。西日暮里から高田馬場間なのだが、凸凹、すなわち、台地と谷間の連続である。例えば、山手線の内側の家々の建ってる地盤を見ると、西日暮里から田端までは断崖絶壁の上。

上野台地である。これが、田端を過ぎると、下り坂でだんだん低くなっていって、

駒込の商店街は完全に谷間。

ところが、そのすぐ後、駒込駅が近づいてくると今度は上り坂になり、

再び、台地の上に乗っかった格好になる。本郷台地である。ところが、巣鴨を過ぎてしばらくすると、台地がいきなり崖で断ち切られる(下の写真の中央あたりで緑に被われた台地が崖で終わり、谷間に白い建物が建っている)。

そして大塚駅に着く。この凸凹は見て決して飽きるものではない。

ところで、台地の始まりや終わりの多くは坂道。だが、本郷台地の終わり(一つ上の写真)はいきなりの崖。これは萌える♥ 現場に行って、近くこの目で見たいというのが人情である(賛同する人がほとんどいなさそうな人情である)。よし、行こう(スーパージェッターは、愛機「流星号」が到着すると、「来たな!よし、行こう」と言ったものである)。

というわけで、大塚駅で下車し、線路沿いを巣鴨方面に戻る(今回の徒歩旅のルートの概略は冒頭の図に記した)。ま、さすがに、全部が崖だと、台地と谷間の間の移動ができないから、ところどころに坂道がある。下の写真は件の崖から数十メートル南に行ったところの坂道である。

なかなか急で、先は台地の上であることを感じさせる。だが、本日の私の目的は台地の上に上ることではない。本郷台地と白山台地(本郷台地の分岐したもの)の縁=崖下をぐるっと回ることこそ私が自らに課したテーマである。ということで、崖に沿って南方面(山手線の中の中心方面)に向けて歩く。途中、小石川植物園の塀沿いを歩く。

ここは、以前、このあたりの台地を(今回とは異なり)東西につっきったときも出くわした場所である。さあ、そろそろ地図では白山台地の先端だが、おお!うれしいことに、ここも崖になっている。

崖こそが端っこにふさわしい。縁の在りかが明瞭になる。二つもの崖(先ほどの電車の車窓から見た崖とこの崖)が見られてこの日は大収穫。人生の喜びをかみしめた。この後、きびすを返し、北向きに進路をとり、巣鴨駅にたどり着いてそこから山手線に乗り帰宅。東西の移動距離は大塚駅と巣鴨駅間のわずか2キロ程度であるが、歩いた距離はその何倍もある。気温の暑い日で、お上が「不要の外出は控えましょう」と呼びかけてるなか、この日の外出は、私にとっては、「必要」な外出であった。

 


無人駅

2024-06-30 10:09:22 | 地理

単線だと、駅と駅の間で上り下りの電車がすれ違うことはできないから、自然と駅には同時に上り下りの両線が入線することになる。そんな単線の某駅に向かって下り電車は高台から下りてくるし、

上り電車は谷間から上がってくる。

その某駅は、駅員さんがいる時間が限られている。時間が有限なのは駅員だけではない。券売機の稼働時間も有限である。

駅員さんもおらず、券売機も動いてなければ切符の精算はどうやればいいかというと、SUICAやPASMOを持ってれば簡易式のタッチパネルがあるからそれにタッチすればよい。持ってない場合は、乗車駅証明書発行機っていうのがあって、

そこから証明書をとって降車駅で精算する、というシステムである。

だが、時間に限りがあっても駅員さんがいるだけましである。世の中には無人駅がいくつもある。券売機がない駅もある。SUICA等のタッチパネルすらない駅がある。つまり、何にもない駅がある。降車駅がそういう駅だと分かってれば乗車駅で切符を買うが、分かってなくてSUICA等で入った場合、降車駅で出場記録を残せない。実際、以前、某線に乗ってからそのことに気付いてどうしようと思ったことがあるが、よくしたものでちゃんと車掌さんが回ってくるから車内で精算することになる。

因みに、タッチパネル等の設備の有無と駅舎の有無は別物である。駅舎があっても無人で設備が皆無の駅もあれば、駅舎はないが(あるのはプラットフォームだけ。だから、道路とプラットフォームが直通である)、タッチパネルはある駅もある。私の父の実家の最寄り駅(中央本線の某駅)がそうだ。この駅は戦後作られたそうで、私がうーんと小さい頃、その駅には、各駅停車の列車ですらほとんど停まらなかった。でも駅員はいたと思う。その後、1970年に無人化したそうである。その頃、SUICAなどありようはずもないから精算は車掌さんがやっていたのだろう。今では、各駅停車は全部停まるようだ。その駅も出世したものである。しかも、駅前に大きなスーパーができていた。「私の奥地」とどっこいである。因みに、だいぶ前に父の墓参りに行ったときは、へー、こんなところに!と思う場所にイタリアンの店があり、次行ったときは寄ろうと思っていたが、次に行ったときは、「へー、こんなところに」というロケーションが災いしたらしく、消えてなくなっていた。


地下鉄銀座線渋谷駅が地上にある件/外濠(まとめ)

2024-06-20 09:23:52 | 地理

昨年、ギャラクシー賞を受賞したタモリさんが受賞式で「渋谷の坂」について一言求められて仰ったのが地下鉄銀座線渋谷駅が「空中」にある件。学生で東京に出てきたとき「地下鉄銀座線に乗ろうと思ったら地下に地下鉄の乗り場がない。ふと見たら空中を地下鉄が走ってる。青山通りの地下を走ってたのが渋谷という谷にさしかかると空中になる。そんな起伏に富んだ東京が素晴らしいと思って坂道に興味を持った」とのこと。こういう場でいきなりふられても、ひょいと含蓄が飛び出すあたりはさすがである。因みに、地下鉄丸の内線が御茶ノ水の聖橋の下でいきなり顔を出すのも、本郷台地の下を走っていたのが神田川の谷に出ていきなり「天井」がなくなるからである。

今、渋谷は大改造中。いろいろ激変してるそうだが(まだ全く見てない)、銀座線の駅は相変わらず地上にあるそうだ(位置はちょっとずれたそうだが)。

タモリさんが東京の坂に興味をもたれたのは学生として東京に出てこられたときだったとしても、それ以前から地理・地学に興味をお持ちだったのだと思う。なぜなら、ブラタモリで仰ってたのだが、郷里にいらしたとき群馬の沼田の河岸段丘のことを知って、東京に出てきたとき真っ先に沼田に行かれたというからである。沼田は、私も尾瀬に行ったとき通ったが、河岸段丘はたしかにすさまじかった。

その受賞式で、仕事の上で最も記憶に残っていることを聞かれて、「いいとも」で作家の有吉佐和子さんの番組ジャック(最後までゲスト席に居座ってしゃべり続けた)を挙げていた。ただし、そこでちょっと気になる一言があった。その後、黒柳徹子さんも同じ事をした、と言うのである。はて(これは「さて」ではなく「はて」でよい)、私の記憶とは異なる。私の記憶では、最初に番組ジャックをしたのは黒柳さんである。有吉佐和子さんが、自らの番組ジャック中に、過去の黒柳さんの件を持ち出していて、「あ、意識してるんだなぁ」と思った記憶が傍証である(ただし、私の記憶の証拠能力は極めて低い)。だが、更に思い出してみると、黒柳さんはもう一度いいともに出て、一回目ほどでないにしろ、やはりかなり長時間ゲスト席におられた(それが期待されてもいた)。タモリさんがそっちを言ってるのなら、たしかに「その後」である。

さて(今度は「はて」でなく「さて」でよい)、ブラタモリ(と漱石)の影響で、随分東京を歩いた。まだまだ歩く場所は山ほどあるが、外濠についてはだいぶ勉強したので、ここいらで、お勉強の成果を図にして表してみた(先生から言われたわけでもないのに、こんなことをするのは大した物好きである。いや、言われないから喜んでやるのである)。

つまり、日本橋川の雉子橋から時計回りに、外濠川、汐留川、溜池、西側の外濠、神田川と「のの字」に描いたものが外濠である。このうちまだ歩いてないのは、御茶ノ水から浅草橋と、雉子橋から新橋のルートである。当然、歩くつもりである。


15年前のブラタモリ(本郷台地)

2024-06-19 12:01:58 | 地理

話を神田橋に戻す。そこから銭湯に行き、銭湯から大手町に戻るのは芸がないから御茶ノ水方面を目指して歩いてたら、目の前で中央線と総武線が交叉。

聖橋から遠くに見えた緑の鉄道橋が目の前。そこを総武線が走り、少し手前の低い鉄道橋を中央線が走る。御茶ノ水駅を出た辺り(この写真のちょっと左手)で両線は分岐し、総武線は秋葉原を、中央線は神田を目指すのである。因みに、鉄道橋の下は昌平橋。大谷翔平の「しょうへい」と字が違う。ファンの方にはお気の毒である。

はて、ではなく、さて、ちょっと目を左に転じるとかなりの勾配の坂がある。

この坂の上が本郷台地の突端である。私は今、突端の際(きわ)の下にいるのである。江戸幕府は、開幕後すぐに日比谷の入江(現在の日比谷公園)の埋立にかかった。その埋立に使ったのがこの台地から切り出した土砂である。

そう言えば、放送開始直後のブラタモリで本郷台地を扱った回があったと聞く。録画があるか?パソコンのリストを検索。あった!15年前の第8回である。早速視聴。番組に入る前にちらっと映っていたニュース映像に表示されたドル円相場が87円台!アシスタントが久保田アナウンサー。ナレーションが草彅剛でなく戸田恵子。エンディングの歌は井上陽水だけど曲が違う等々、すべてにおいて「今は昔」である。当時、タモリさんのお歳は現在の私とだいたい同じ。「にもかかわらず」と言うべきか、「だから」と言うべきか、とってもお若い。

その本郷の回で、本郷台地の南端を深く削っている神田川の流れが自然の流れではなく、人工的に掘削されてできた流れだと言っていた。そうなのだ。元の川は南下して江戸城の近くを流れていたのを、江戸幕府が治水事業の一環として台地を掘削して向きを東向きに変えたのだった。で、元の川筋が(昨日ネタにした)現在の日本橋川になったのだった。「川の向きを東に変える」と言えば利根川もそう。あちらは東京湾に注いでいたものを銚子沖の太平洋に注ぐように付け替えたのだった。

びっくりしたのは、「弥生土器」のネーミング。が最初に発掘されたのが本郷台地上の文京区弥生という地であったからだという。縄文時代の次が弥生時代と呼ばれているのも、基をたどれば文京区弥生にたどり着くわけだ。なんでも、台地の際(きわ)は当時の一等地で人がたくさん(と言っても現在とは桁が違うが)住んでいたのだという。

「際」と言えば、タモリさんが、「(台地の)際を歩くのいい。なんでも際がいい。人間も服と肌の際がいい」と言ったのに対して久保田アナの「脱いじゃうとダメ?」などという切り返しはまったくNHKのアナウンサー離れしている。タモリさんはその後何人かのアナウンサーとコンビを組んだが、今見ると久保田アナとの掛け合いはなかなかのものである。そんな久保田アナはご幼少のみぎり、鈴木雅明指揮BCJの演奏会で、マタイ受難曲の子どもの合唱を歌った経験があるそうだ。横野君に言わせると、これはすごいことなのだそうだ。


日本橋の上空に青空が戻る日

2024-06-18 17:46:14 | 地理

ということで、再び聖橋でカメラ小僧になった話である(「小僧」は本来は男の子を指すが○○小僧と言った場合は、老若男女を問わない)。相変わらず、カメラ小僧がたくさんいる。私と同様に、中央線と総武線と丸の内線が同じ位置で交叉する様子を撮りたいのだろう。私が現地に着いたときが絶好のチャンスだったがカメラが間に合わなかった。その後、30分間くらいねばって一番惜しかったのがコレ。

総武線と丸の内線は上下で交叉している。だが、中央線は写ってはいるが、御茶ノ水駅に停車中で他の二線と交叉してない。もう少し早く出発してくれてれば目的を達成できたのに……残念である。

時計の針を少し戻そう。皇居を一周した後、大手町の近くの銭湯に向かう途中で神田橋とやらにぶちあたった。

その下を流れるのは日本橋川。私は、この「日本橋川」については、外堀のことを勉強してる途中でちらちらとその名が出てきたのにもかかわらず全く調査を怠ってきた。だが、こうやってその上を渡ることになったのも何かの縁。調べてみた。すると、この川の一部も外堀の役割を果たしていて、ご多分に漏れず、この神田橋にも門(見附)が設けられていた。いったいどこから流れてくるのかと思ったら、小石川橋のあたりで神田川から分岐してこっちに来てるのだという。そう言えば、前々回外堀沿いを半周した際、水道橋と飯田橋の間に小石川橋があった。そのとき撮った写真を見てみよう。

おお!ホントだ!分岐して線路の下をくぐってる。これが日本橋川だったのだ!この流れは、その名の通り、日本橋の下を流れて(神田川と同じく)隅田川に注ぐ。だが、ほとんど、その上に首都高が通っていて、空を眺めることができるのはわずか隅田川に注ぐ直前の500メートルに過ぎないそうだ。日本橋の上空も例外ではない。これが極めて景観を害するから、なんとか首都高をどかすことはできないのか?って話は昔からあったが、夢物語であった。都知事候補が「どかす」と言っても誰も本気にしなかった。ところが、なんとその夢物語が実現する運びになった。どっちみち首都高が老朽化したので作り直さなければならない、なら地下化しちゃおう、ということになったそうだ。地下化されるのは神田橋から江戸橋の間。その間に日本橋がある。地下が開通してから上部の撤去を始めて、完了するのが2040年とのこと。よし、それまで生きるぞ。がんばって、この目で見届けるぞ。


外堀

2024-06-03 09:37:41 | 地理

私は、歳がぐるっと一還りするまで勘違いしていたことがたくさんある。その一つが「京」。例えば平安京の碁盤の目のように整備された地域(洛中)には天皇や貴族の住まいと官公署だけが存在し、庶民の家はその外側(洛外)にあったというイメージを持っていた。だが、違った。洛中にも庶民が住むエリアがあった。すなわち、平城京や平安京は、都市計画に基づく都市(人の住む都市)であったわけである。因みに、平安京の碁盤の目の西側(右京)は低地であるため水はけが悪く人が住まなくなったって話はブラタモリで習ったことである。

似たような誤解は江戸城の外堀についてもしていた。私は、外堀の内側には将軍と武士だけがいて、いざ戦(いくさ)となったらそこに立て籠もるというイメージを持っていた。だが、違った。外堀の内側にも狭いながら町人が居住するエリアがあった。考えてみれば、外堀の内側は現在のほぼ千代田区に相当するという。そんな広いエリアであれば町人が住んでいても不思議は無い。

それに対し、西洋や中国の城壁都市については、早くからその内側に王様も兵士も町人も住んでいたという認識を持っていた。そうした城壁にはところどころ門があり、門には番兵がいて目を光らせていた(私が最初にクリスマスプレゼントに買ってもらった「紅はこべの冒険」がパリを囲む城壁と城門を描いていた。謎の人・紅はこべは、フランス革命当時、フランスの貴族をギロチンから救うために荷車の荷台に隠して城門をすり抜けたのである)。江戸の場合、その城壁に相当するのが外堀である。外堀にはところどころ橋がかかっており、橋を渡ったところには見附があった。見附とは、番兵が常駐する見張所であり、西洋の城門に相当する。赤坂見附という地名はそこからきたものである。虎ノ門にも見附があった(写真はウィキペディアから拝借した)。

中央右よりの門構えが虎ノ門(虎ノ門見附)である。水流は汐留川であり、写真に写ってる堰の上で水流は左に折れ、その先(写真が切れたあたり)で右に折れるとそこにも堰(水落し)があった。歌川広重作「名所江戸百景」の「葵坂」にその水落しが描かれている。水が激しく落ちる様から「どんどん」と呼ばれていたそうである。

「どんどん」の左側の坂が葵坂。名所だったがその後削られてしまった。現在、葵坂の位置には商船三井の本社ビルがあり、葵坂の左にちらっと描かれている建物の位置に道路が通っていて、その道路のわずかな傾斜がかろうじて当時の地形を思い起こさせる。

「どんどん」の向こうには溜池(赤坂溜池)が現在の赤坂見附の辺りまで細長く広がっており、これも、外堀の一部を成していた(前記の汐留川も、そして江戸城の北を流れる神田川も外堀の一部を成していた)。上掲の写真や絵には石垣が見てとれるが、「名所江戸百景」の「赤坂桐畑」で見る赤坂溜池にはもはや石垣などはなく、

防衛ラインにしては随分鄙びている。まあ、壁などなくてもこれだけ水があれば要害として十分だろう。用水としての役割もあったそうである。この「人造湖」は明治時代に跡形も無く埋め立てられ、現在は外堀通りが通っている。溜池の名残りは交差点や駅の名称としてわずかにあるに過ぎない。

ブラタモリの影響で、以前、浜離宮から汐留川と赤坂溜池の跡を辿って赤坂見附まで歩いたことがあるから(当ブログに書いた)、次の「外堀跡でブラマサコ」では、赤坂見附から四ッ谷を経て御茶ノ水に回ろうと思う。やはり「外堀」というくらいだから水があってほしい。このルートなら四ッ谷の先辺りから水が現れるはずである。

なお、初めてのクリスマスプレゼントのことをちらっと書いたが、私の親は、私が物心がつく頃から「サンタクロースなどいやしない。プレゼントは親が買ってくるものである」と、まるで子どもに夢を持たせるのが悪であるかのごとく力説していたものである。


恋バナ/江戸はヴェネチアだった件

2024-06-02 11:52:03 | 地理

ただ集まって黙ってじっとしてるのは猫の夜会。人が集まるのは話をするためである。ただし、する話の内容は集団によって異なる。政治論、芸術論、人生論等いろいろあるが、私が好むネタはもちろん恋愛論、くだけて言うところの恋バナである。政治論、芸術論、人生論が始まってしまった日には私は夜会の猫になる(黙る)。

はて、ではなく、さて。夏目漱石の実家は馬場下辺りにあった。「馬場下」とは高田馬場の下という意味であり、早稲田の辺りである。なるほど、早稲田から高田馬場方面に向かう早稲田通りは上り坂である。すなわち、高田馬場は台地の上に乗っていて、早稲田はその「下」にあるのである(早稲田大学も台地の縁に位置していて、正門から入ったキャンパスは登りの傾斜になっている)。その馬場下から浅草に芝居見物に行く場合、まだ市電が走ってない明治の初め頃どうやって行ったかというと、そのルートが漱石の随筆に書いてあるのだが、まず徒歩で現在の飯田橋辺りに行き(今でも早稲田~神楽坂~飯田橋は一本道である)、そこで屋根船(屋形船)に乗る。飯田橋には神田川が流れている。船は、そこから神田川を下り、柳橋で大川(隅田川)に出ると(緑の橋が柳橋)、

川を遡上して吾妻橋を通り抜けて目的地にたどり着いたのである。東京には隅田川のような大きな河だけではなく、神田川やそれよりもっと小さい川もたくさん流れていて、これらが交通網を形成していた。例えば、東武伊勢崎線はスカイツリー辺りから隅田川にぶつかるまで北十間川に沿って走っているのだが、

そこにも屋形船が浮かんでいた。そう言えば、浅草橋から見た神田川にも屋形船がたくさん浮かんでいたっけ。

まっこと、江戸(東京)は水上都市であった。ヴェネチアも真っ青である。

漱石は、他にも気になる船ルートを書いている。綾瀬(今の足立区)方面に船で行った、というのである。さて、ではなく、はて、綾瀬に船で行く、と言うのはにわかにはピンと来ないが……そう言えば、小菅の拘置所前に遊歩道が設けられた水路がある。この水路には、実は古隅田川と言う由緒のありそうな名前がついていて、今では中川と綾瀬川を結ぶ短流でしかもそのほとんど暗渠だが、その昔は隅田川ともつながっていたのかもしれない。これは根拠のない私の推測にすぎないが、関東地方の川は付け替え等々で大変化を遂げているからあり得ない話ではないと思う。


浅草やきそば~浅草橋

2024-06-01 08:24:13 | 地理

そんな上から目線の漱石だが、幼少時には苦労をしている。養子に出された先の養父母が養父の浮気のせいで離婚し、それもあって漱石は夏目家に戻されたのである。その後も実家と養家との間に金銭的なトラブルがあったり、成人した漱石に養父が金の無心に来たりしたことが漱石の自伝的小説である「道草」を読むと分かる。

漱石と言えば、小石川を始めとする山の手の人のイメージだが、子どもの頃は浅草に住んでいた。養父母の元にいた時期である。このたび「漱石と歩く、明治の東京」という古本をゲットしたら、漱石少年が住んでいた辺りを示す地図が載っている。ちょうど両国に用事があったところであるから、ちょうどいい、浅草から漱石の跡をたどりつつ両国まで歩くことにした。

浅草までは東武伊勢崎線を使った。東武スカイツリーラインという愛唱ではなくて愛妾ではもっとなくて愛称が付いている路線だ。途中の業平橋駅も、今では「とうきょうスカイツリー駅」に改称している。まさにスカイツリーの直下に位置し、駅から見えるのはスカイツリーの脚である。

次駅が終点の浅草駅。じきに隅田川が現れた。

荒川に比べると小ぶりの印象があった隅田川だが、やはり昔に「大川」と呼ばれただけのスケール感がある。初代ゴジラは東京に上陸した初日、この川に入って海に戻ったのである。そして、ゴジラではなく東武線は隅田川の上で、左に急カーブして、

松屋の建物内にある浅草駅に突入する。この急カーブはカーブが多いことで有名なこの路線のラストを飾るに相応しいものである。因みに、ジョージア料理のシュクメルリを出す「松屋」はこの松屋だと思っていたら牛丼の松屋であった。ここまでの写真を撮るために、私は先頭車両の運転席の後ろに張り付いていたのだが、途中から乗車してきた少年もその場所を狙っていて、それは分かっていたのだが、まあ大丈夫だろう、この少年も敬老の精神くらいは持ち合わせているだろうと思って隅田川を撮るためにその場を離れたら、その一瞬の隙をつかれて特等席は少年に占領されてしまった。だから、急カーブの写真は、少年の背後から、線路のカーブと同じくらい体をねじ曲げて撮ったものである。

さて。浅草に着いたら漱石の前に見ておきたいものがある。浅草地下街、特に映画「Perfect days」に登場した「浅草焼きそば」である。地下街に入ったらすぐそこにあった。

看板の「浅草やきそば」の文字も含めてまったく映画の通りである(店の名が「福ちゃん」であることは知らなかったが)。店先に出てるテーブルも映画と同じで、役所広司はここに座って一日の疲れを癒やしたのであった。

他にも昭和を感じさせる店がたくさんあった(「レコード買い取ります」って店もあった)。そんな地下街から地上に上がって、漱石少年が住んだ家跡3箇所を巡ったが、いずれも当時を思わせるモノは皆無。写真を撮ったが載せるまでもないだろう。

この後、隅田川にかかる橋をいくつか渡り、台東区と墨田区を行ったり来たりしてるうちに、台東区側で神田川にぶち当たった。そこにかかる橋が浅草橋であった。

下流側には屋形船がひしめいていて、その先には隣の柳橋(緑色)が見える。神田川が隅田川に合流するのはそのすぐ先である。

合流ポイントを隅田川にかかる両国橋から見た絵がこれ。

実は「浅草橋」が神田川にかかる橋であることを初めて知った。今「浅草」と聞くと浅草駅や雷門のあたりを思い浮かべるからそこから随分南にあるこの橋が「浅草橋」と称するのが疑問であったが、昔は、「浅草区」という広いエリアがあり、現在の浅草橋(橋名及び町名)はその区内に含まれていたと知って少し納得した。

てなわけで両国橋を渡って両国での用事にかかる。

両国での用事とはフグを食べることであった。なお、この小旅を敢行したのは某A団の直近の活動日とは別の日である。フグを食べるために活動を休んだという誤解を生まないために申し添える次第である。休んだ理由は体調不良である。などと書くと、そうか、ひれ酒の飲み過ぎによる二日酔いだと思われそうだ。弁解が更なる誤解を生む。我が身の不徳の致すところである。