拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

源氏物語の現代語訳を替えた件

2024-08-30 10:57:19 | 小説

コーイチの子供たちの怒りが爆発(朝ドラ)。コーイチの後妻とその娘ばかりがちやほやされることへの嫉妬が沸点に達した模様である。猫も、先住猫がいるところに新しく子猫をもらってきたときは、しばらくは子猫をケージに入れておいて、先住猫のご機嫌をとるべきだと聞いた。先住猫に嫉妬させないためである。コーイチはそれを怠った。猫を飼ったことがなかったのだろう。まあ、朝ドラだから、言いたいことを言ってすっきりしてより家族の絆が深まったようだが(雨降って地固まる)、現実世界では、それを言っちゃおしまいよ、で、離婚・別居に進む可能性だって大である(覆水盆に返らず)。

「後妻」と言えば、私は「後妻」のせいで読む源氏物語の現代語訳を替えた。こういうわけである。一度目に完読したときは与謝野晶子の現代語訳だった。ところどころよく分からなくて、与謝野晶子の訳のそのまた現代語訳が欲しい気もしたけど、なにせ「タダ」だし、有名な文豪だしで辛抱して読み続けていくうちに慣れた気がした。そして今回の二度目の挑戦も与謝野晶子訳で始めて、いっそう慣れた感じはしたんだけど、やはり、ところどころどうにも意味が分からないところがある。例えば、第2帖の「帚木」で、光源氏が紀伊守の家に泊まりに行った際「(紀伊守の父である)伊予守の娘」なる女性に光源氏が興味を抱いたというくだりがあったので、私はその「伊予守の娘」のことを忘れないようにと関係図まで作って再登場を期したのだが一向に現れない。代わりに現れたのが「伊予守の後妻」であり、光源氏はこちらと関係を持つ。いったい「伊予守の娘」はどうなってしまったのだ?もしや、読み飛ばした箇所があったか?と思い読み返して見たが消息は知れぬまま。そこで、とうとう一大決心をして、有料の角田光代訳をキンドルにダウンロードして読んでみた。すると、与謝野晶子が「伊予守の娘」と書いていたところは「伊予介の後妻」になっていた。これなら分かる。光源氏は最初から「伊予守(介)の後妻」に興味を持っていて、その相手と関係をもったのである。ってことは、与謝野晶子の訳はまさかの○訳(○=1×5)?ググると、与謝野晶子訳には○訳が多いと言ってる人がいる。それでも言葉のリズムがいいから与謝野晶子訳を奨める人がいる。資料がなかった当時、現代人でも読めるような訳をこしらえた与謝野晶子の偉業にケチをつけるなどけしからんと怒っている人もいる。私のようなドシロートが大先生の労作について○訳なんて言ったら口が曲がるから言えないし、与謝野晶子訳にだいぶ慣れ親しんでいたのも事実だが、ドシロートだからこそ「後妻」が「娘」になってたりすると読書上大変な障碍となる。ということで、今回は角田訳で行くことに決めた。

因みに、「上から目線」の描き方については、与謝野晶子訳が「ほかの人を軽蔑する」としていたところは角田光代訳では「他人をこき下ろしてみせる」になっていた。角田訳の方が「上から目線度」が高いだろうか。

それから、「左馬頭」の読みは与謝野晶子訳では「さまのかみ」だったが角田訳だと「ひだりのうまのかみ」になっていた。奥多摩にある馬頭刈山の読みは「まずかりやま」である。 

なお、今回、角田光代訳を選んだのは、「分かりやすい」と評判だったからだが、瀬戸内寂聴訳も分かりやすいそうである。瀬戸内寂聴さんは「中学生にも分かるように」という編集部の要請に応えて訳を書いたそうだ。こちらも読んでみたいものである。特に「いたす場面」を中学生にもわかるようにどう表現しているか知りたいものである。



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