拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

不倫オペラ(ドン・ジョヴァンニが失格の危機)

2024-09-16 08:16:48 | 音楽

横野好夫です。拝島さんが書いてたように、今、レーザーディスクでオペラ三昧。昨日はロシア物の二本立て。いずれも当局から目を付けられた曰く付き。一本目はショスタコーヴィチの「カテリーナ・イズマイロヴァ」。もともとは「ムツェンスク郡のマクベス夫人」ってタイトルで、スターリンの逆鱗に触れ、当時、粛正の嵐が吹き荒れていたからショスタコーヴィチは命の危険にさらされた。

内容は、カテリーナが情人と一緒になるために舅を殺し、情人に夫を殺させたがバレて二人してシベリアに送られる。その道すがら情人は別の女といい仲になり、怒ったカテーリナがその女を道連れに海に身投げするって話。ストーリーもさることながら「営み」のシーンが露骨で卑猥だったことがスターリンを怒らせた。ショスタコーヴィチが、後日、台詞をマイルドにし、タイトルを改めたのが昨日視聴した「カテーリナ・イズマイロヴァ」ってわけ。

その大元の「ムツェンスク……」は、実演をケルン歌劇場の引越公演で見た。たしかに「営み」のシーンは露骨だった。しかも、光の加減でストップモーションのように見せた演出は大変に過激だった。今回見たレーザーディスクは、そこまで露骨ではないが、でも、台詞をマイルドにしたと言ってもこちとらロシア語の台詞など分からないからどうマイルドになったのか分からない。十分に、生で見たときのことを思い出して楽しんだ。

この際である。不倫を扱ったオペラを思い起こしてみよう。ただし、「不倫」と言うためには、当事者の一方又は双方が配偶者持ちでなければならない。この条件に留意しつつ見てみると、

ロマン派の両巨頭、ヴェルディとヴァーグナーは「もちろん」不倫オペラを残している。ヴェルディの「仮面舞踏会」のリッカルド&アメリアのうち、アメリアには亭主がいるから合格である。ヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデはマルケ王の妻であるからやはり合格である。

モーツァルトとなると、注意が必要である。「フィガロの結婚」では、伯爵に対するスザンナも、伯爵夫人に対するフィガロも策略で不倫しそうに見せかけてるだけでちょめってない。だが、私は細部を見逃さなかった。伯爵はバルバリーナに手を出している。この一点でぎりぎり合格である。「ドン・ジョヴァンニ」は、いたした数だけならスペインだけでも1003人だからトップの成績だが、条件は配偶者持ちであることであった。ドン・ジョヴァンニは、唯一ドンナ・エルヴィーラとの結婚歴があるが、結婚後は、なにやら失敗続きでもしかするといたしてないかも知れない。ドン・ジョヴァンニがまさかの失格の危機にある。

「ムツェンスク」と同様に殺人がからんだマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」も、サントゥッツァとトゥリッドゥが結婚前だから、トゥリッドゥの浮気はサントゥッツァに対する関係においては不倫にならない。失格の危機?だが、トゥリッドゥの浮気相手のルチアには夫(馬車屋のアルフィオ)がいるから合格である。良かったね。なお、サントゥッツァはトゥリッドゥの子供をお腹に宿しているが、未婚の母は当時キリスト教社会では大変な罪になった。だから、サントゥッツァは必死にトゥリッドゥとの結婚を望んだのだが、トゥリッドゥが改心しそうもないと知るや、トゥリッドゥとルチアの関係をルチアの夫のアルフィオにばらしてしまい、決闘でトゥリッドゥはアルフィオに殺される。これで「未婚の母」確定となったわけである。

やはり不倫に殺人がからむベルクの「ヴォツェック」こそは、「ムツェンスク」に直接的に影響を与えたというが、ヴォツェックとマリーは事実婚である。この場合、マリーが鼓手長と持った関係が不倫になるか否かは事実婚の捉え方にかかってくる。今日のように、事実婚と法律婚がほとんど同じであれば合格であるが、さあどうだろう?

なお、ベートーヴェンの唯一のオペラである「フィデリオ」には不倫のふの字もない。ベートーヴェンはある意味石部金吉で、そういう話が大嫌いであった。と言って、ベートーヴェンが女嫌いだったわけではなく、第九の初演時には、ソプラノとアルトの歌手(どちらも二十歳前後)から「先生!あたしたちにソロを歌わせてください!」とにじり寄られてすっかり鼻の下をのばして承諾したものである。待てよ。こういう話がある。ベートーヴェンの不滅の恋人の候補の一人は亭主持ちだったが、ベートーヴェンと関係して密かに子を設けたという話である。立派な研究者が唱えている説である。それが本当なら、ベートーヴェンの不倫嫌いはなんだったんだ?と言いたくなるが、まあ、言ってることとやってることが違うというのはよくある話である。それより、それが真実なら、この世界のどこかにベートーヴェンの直系の子孫がいるかもしれない、ということである。なお、ベートーヴェンの傍系の子孫はいて、ベートーヴェンのことを「ハンサム」だったと言っているのをテレビで見た。身びいき!?と思わないでもなかった。


足るを知る

2024-09-15 16:38:15 | 経済

「所得倍増」って私が物心つく前に時の総理大臣が打ち出した政策。それを現在行われてる自民党の総裁選で聞くとは思いもよらなかった。倍増だなんて、高度経済成長期にはありえただろうけどこの成熟の時代に無理でしょう、と思ったが、考えてみれば今はインフレの世である。物価が3倍になれば所得だって2倍くらいにはなるかもしれない(その場合は3倍になってくれないと困るのだが)。

吾輩はバカである(ホント)。名前はまだない(ウソ。拝島正子という名前がある)。バカだから、給料が上がらないけど物価も上がらない世の中のどこが悪いのか分からなかった。でも、近所を練り歩く政治家の街宣車が「給料を上げます」と怒鳴ってるのを聞いて、そうか、給料が上がるとモノをたくさん買えるんだ、という基本的なことをようやく思い出した(ただし、給料を上げるのはこの政治家さんではなくて会社だとは思ったが)。

でも、それって物価が安定していることが条件。給料が上がっても物価がそれ以上に上がっちゃったら買えるモノの量は減ってしまう。現在がその状態。だけど、走り出した以上はもう後戻りができないとばかり、偉い人・お利口な人たちは、ここに来てなお「デフレ脱却」と言い続けている。デフレ脱却=インフレ容認、すなわち、物価をつり上げて、その勢いで給料をもっと上げようという魂胆である。でも、物価と給料の上昇レースは、どう見ても物価の方が速そうである。並ばれても絶対抜かせなかったジェンティルドンナのごとしである。

ここに来て、消費者が反撃に出た。食料品について買い控えを始めた。買うお肉も牛肉・豚肉から鶏肉にシフトしているそうだ。それに合わせてコンビニ各社が低価格帯の商品を拡充する動きに出た。当局の思惑がはずれた格好である。このことについてマクロ経済学者は「買い控えをする消費者が悪い」と言って済ましているだろう。マクロ経済学者とはそういう生き物である。そう言えば、かつてハイパー円高が進行したとき、1ドル50円(150円ではない)になる、と断言した経済学者がいた。黒田バズーカで一転円安に向かい予言が大ハズレに終わったときの言い訳は「政策のせい」であった。

あと、偉い人たちはGDPのような経済指標は常に右肩上がりでなければならない、という「成長神話」に取り憑かれているようにも思う。きっと、子供の頃「テストで1点でも多く点を取ってきなさい」と教え込まれたのだろう。だけど、満腹のところにそれ以上は詰め込めない(ケーキは別腹とは言うが)。長生きの秘訣は「足るを知る」ことだそうである。


「SHOGUN」vs「魅せられて」

2024-09-15 06:14:47 | ドラマ

チコちゃんで、「おじーちゃん、おばーちゃん……」って歌を、おじーちゃんやおばーちゃんが歌ってた。

ふと思った。「ちぎる」って「千切る」って書くんだよな。ってことは、「千切り」の動詞?意味は同じだし。

はて、ではなく、さて(この表現も残り2週間である)、やはりふと思ったのだが、「はて」は「はたして」の省略形だろうか?

今、話題の「SHOGUN」は、そうか、40年前の作品のリバイバルか(その前に原作があるんだけど)。40年前にヒロインを演じたのは島田陽子で、アメリカで随分評判をとってたことを覚えてる。ホントは、ヒロイン役をジュディ・オングが演じるはずだったんだけど、ジュディ・オングは「魅せられて」が大ヒットしたので忙しくて降板。島田陽子がその代わりを努めて大ブレイクしたのだった。「魅せられて」はレコード大賞を獲ったけど、ジュディ・オングからしたらどっちが良かったんだろう。私、ジュディ・オングを初めてテレビで見たのは、ウチにテレビが来てすぐの頃のドラマ。だから、1960年代の半ば。学生役だった。ググってみたら、当時、「あしたの家族」ってドラマがあって、ジュディ・オングは中学生役だって言うからこれかもしれないが確証はなし。

横野君がレーザーディスクのオペラをいろいろ見せてくれる。私、オペラの何が苦手って、ヒロインが薄幸なのはいいんだけど、その回りにいる人がいかにも「お気の毒」って顔して、眉毛を八の字にしてうろうろしてるでしょ?あれが気持ち悪い。人間、そんなに善意の生き物であるものか。人の不幸は蜜の味って言うでしょ?偽善だ。音楽だって「ブンタカタッタ」で元気だけど、そんな元気者にはついていけない。だけど、今回横野君が見せてくれたオペラっていうのが、

ヤナーチェク:利口な女狐の物語
ヤナーチェク:イェヌーファ
ギルバート&サリヴァン:ミカド
ブリテン:ねじの回転
ブリテン:アルバート・ヘリング
ブリテン:真夏の夜の夢
ナッセン:怪獣たちのいるところ
ナッセン:ヒギリッティ、ピギリッティ、ポップ
プロコフィエフ:炎の天使
ストラヴィンスキー:オイディプス王
ストラヴィンスキー:洪水……

ってところで、物語性に満ちていて、音楽もブンタカタッタにはほど遠い。面白い。横野君自身はブンタカタッタも好きだそうだけど、そういうのは巷にいくらでもあるから、あまり入手できないっぽいのを優先的に見てるんだってさ。

私は、この後、「SHOGUN」を見ます。ディズニー+で配信してるので。でも、見るのは昼間のうち。夜は、Wi-Fiを切っちゃってるから見られない。なんで切ってるかというと、スマホをいつもオフにしてるのと同じ。バッテリーを10年持たせるため。


Cosi fan tutte=才女はみんなこうしたもの(紫式部)

2024-09-14 07:56:11 | 小説

角田光代訳の源氏物語の第1巻(第6帖の「末摘花」までを収録)を読み終わった。本来なら第2巻をダウンロードすべきところだが、瀬戸内寂聴訳に浮気したくなった。例の第2帖「帚木」の問題箇所(与謝野晶子訳では光源氏が伊予守の息子の館に泊まった際、伊予守の娘が高慢だという噂を聞いていて興味を持っていたので近くにいないかと聞き耳を立て、その夜、館内を徘徊してぶち当たったのが伊予守の後妻で、そちらと関係する。これに対し、角田訳では、興味があって聞き耳を立てた相手は伊予守の後妻であり、その後妻と関係を持つ。どちらがホント?という疑問)についての寂聴先生のご意見を承りたいと思ったからである。浮気と言っても、光源氏の浮気に比べれば可愛いものである。

というわけで、瀬戸内寂聴訳第1巻をダウンロードし、早速読む。さすがに定評があるだけあって、文章が丁寧な分、長いと聞いていたが(そこんところが当初寂聴訳ではなく角田訳を選んだ理由であったが)、すらすら読めた。

問題の箇所は、角田訳と同じであった。すなわち、聞き耳を立てた相手も、その夜関係を結んだ相手も伊予守の後妻であった。考えてみれば、伊予守の娘は「西の対の方」と言われているように、普段は光源氏が宿泊した棟とは別の棟で暮らしている。聞き耳を立ててもその存在を確認するのは無理だろう(サイボーグ003なら別だが)。だから、角田訳や寂聴訳のように考えるのが自然だと思った(一初心者の感想)。なお、伊予守の娘も、後妻が居住する棟に「遠征」した際、光源氏と関係を結ぶ。光源氏は後妻といたしたかったのだが、後妻は光源氏が暗闇をにじり寄って来るのを察知し、着物だけ残して逃げる。「空蝉」の名の由縁である。光源氏はそこで後妻と添い寝をしていた娘と関係する。途中で人違いと分かるのだが、「始めからあなたを想っていた」などとうそぶく源氏の君(嘘も方便)。このとき、娘はヴィルジーネで、後で他の男に嫁いだと聞いた光源氏は「ヴィルジーネでなくて、大丈夫だったのだろうか?」などと心配するのであった(後妻の方は、そういう心配は無用であった(当たり前))。

さて、寂聴訳の第1巻を読み終えた後、寂聴訳で読み続けるか、角田訳に戻るかは思案のしどころである。光源氏は、暗がりでお手つきをした末摘花を朝日の元で見たら鼻が赤く、その後、赤い色が嫌いになるほどのトラウマとなったが、ずっと面倒を見ようと決心した。それに倣うなら、どっちも、ということになる。完読したことのある与謝野晶子訳だって、もう一度戻ってみたい気(Lust)がする。嫌いな色と言えば、「水車屋の娘」の若者は、水車屋の娘の好きな緑色を自分も好きになったが、ふられた後は緑色が嫌いになるのであった。

末摘花の鼻が赤いからどーのこーのって今でいうところのルッキズム。その他、歌が下手だとか、服が貧しいとか、庭が草ボウボウだとか(私の奥地の家が目に浮かぶ)、紫式部は光源氏を褒めそやす返す刀で他者のことはぼろくそ。「才女」は皆こうしたものなのだろうか(Cosi fan tutte?(「tutte」は、ここでは「才女全員」を表す))。

因みに、角田さんは古文をお読みになれないと後書きに書いてらした。ご謙遜もあるだろうが、そう書いてらっしゃるということは、あまたの現代語訳を元に新たな訳を生み出された、ということだろうか。ありうることである。「ソフィーの世界」の日本語訳は、ノルウェー語の原本ではなく、ドイツ語訳から起こされたものだそうだ。そんなことを言ったら聖書だって、元は旧約の部分がヘブライ語、新訳の部分がギリシャ語で書かれていて、ルターは、これを、ラテン語訳(ラテン語聖書も原典ではない)を参照しつつドイツ語に訳したということである。


褒めて伸びるタイプ、けなされて発憤するタイプ

2024-09-13 16:17:18 | 健康

以前、スマホの契約が2年縛りだった頃は、2年ごとにスマホを買い替えていた。2年縛りでなくなった今のスマホは4年目に入っている。シャープのアクオスはバッテリーが持つのである。一層、持たせるべく、今後は、家に居るときはスマホの電源を落とすことにした。どうせ、連絡などとってくる人はいない。唯一、今、連絡をとるべき植木屋さんにはメールでのやりとりをお願いしている。なので、かれこれ1週間スマホの電源を入れてない。外に出ないからである。

これでどのくらいスマホの寿命が長らえるだろうか。グリム童話に、目を温存しようと片目に目隠しをつけもう片っ方だけで見ていて、その目が見えなくなったときに目隠しをとったら隠していた方も使えなくなっていた、という話があったっけ。

ところで、1週間家にこもっているのは、暑いからというのもあるが、毎年、この時期になると、気力、体調とも超低空飛行になるのが一番の理由である。いったいなぜだろう?

まず、身体面の不調が精神に影響するのか、はたまた、精神面の不調が身体に影響するのかが不明である。

次に、その不調が季節的な要因によるものか、はたまた、一年の前半に飛ばした疲れが後半にどっと出るのかが不明である。以前、お医者さんから「あなたの胃はみんながばててる夏場に元気で、みんなが回復する秋口に不調になるタイプだ」と顔を見ただけで言われたことがあるから、前者の可能性が高いが、今年に限っては、前半奥地の家との間を随分往復したから後者の可能性も捨てきれない。

大谷選手は、毎年二刀流の疲れが9月に出るそうだが、今年は指名打者に専念しているので、9月の成績も期待できるという。あと、ご結婚されて初めての秋だから、その影響もあるだろう。

因みに、人間のタイプの組合せと、それが成績にもたらす影響の関係は、一般論としては次のとおりである。

2番目と3番目はともに「不良」としたが(競馬場の馬場の状態ではない)、よりこたえるのは2番目である。星野仙一監督などは鉄拳制裁で有名だったが、結構、選手のタイプによって接し方を変えていたそうである(今の時代なら、タイプもへったくれもなく鉄拳制裁はアウトだろうが)。


大谷選手はストラドを買わない?

2024-09-13 06:55:40 | 音楽

ストラディバリは人の名前で、その人が作ったバイオリンをストラディバリウスというのか。何でも4文字にする日本の最近の風潮は何億円もするストラディバリウスにも容赦なく襲いかかり、人は「ストラド」と呼んでいる。そんなストラドを買える人は……いる。NHKの番組が言っていた、「金はあるところにある」と。あ、大谷選手のことね。スポーツ選手っていうと、私たち武士道の国では「武士は食わねど高楊枝」でどこか清貧のイメージがあるけど、アメリカ人が大谷選手を「大金持ち」と呼んでるの聞いて、ああ、そうなんだよなと改めて認識。でも、大谷選手ではないらしい。じゃ、だれ?あー、あのテレビでときどき見かける青年実業家さんか!その実業家さん、ストラドを買った理由を聴かれて「なんだっけ」!何億円もする買い物の購買理由を忘れるってありうる?で、シンキングタイムを経てひねり出した購買理由が「父親が家でクラシック音楽を聴いてたもんで。ウィーン・フィルハーモニー交響楽団が来日して演奏するから観に行くかとか。結構クラシックが好きだった」というもの。「結構好き」でストラドを買うのか。むかつく。むかついたからアラ探し。今の実業家さんの発言には一つ誤りがあります。シンキングタイムを経て正解発表。

誤:交響楽団、正:管弦楽団

「Symphony Orchestra」(Sin(Sym)foniker)は「交響楽団」で、「Philharmonic Orchestra」(Philharmoniker)は「フィルハーモニー管弦楽団」であるところ(括弧内=ドイツ語)、ウィーン・フィルは「Wiener Philharmoniker」だから「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」と呼ばれており、「交響」は付かない。なお、ウィーンには「Wiener Sinfoniker」もあるけど、こっちは「フィルハーモニー」が付いてないので「ウィーン交響楽団」と呼ばれている。

なお、日本のオーケストラは、ほとんどが「フィルハーモニー」と「交響楽団」のどっちも名称にぶちこんでいて、「○○フィルハーモニー交響楽団」と名乗っている。実業家さんは、ウィーン・フィルを日本のオーケストラ風に言っちゃったわけね。

だけど、件の実業家さんは、買ったストラドを若手演奏家に貸与してるそうな。あらま、いいことをなさってるじゃありませんか。立派なパトロンぶり。お見それしたからこれまでの発言は撤回します。え?撤回したのになぜ消さないのかって?あのね。登記簿では、「錯誤」で「抹消」した場合でも、抹消した内容はちゃんと見えるようにしなければならないの。経緯を残しておく、ということね。

ストラドって、弾きこなすのが難しいらしい。サラブレッドを乗りこなすのが大変なのと同じか。その点、ストラドの中でも最高級の「メサイア」って楽器は博物館に飾られていて100年間誰も弾いてないって言うから「弾きこなすのが難しい」って言って嘆く人はいない。良かったね?でも、楽器って弾いてなんぼじゃないの?ワインが飲んでなんぼなのと一緒で。そうそう、私んとこには銘醸ワインが随分あったんだけど、惜しくて飲まないでいたらことごとく劣化しちゃってて「早く飲んどきゃよかった」と後悔したものです。

因みに、その実業家さんは、他にも何億もする買い物をなさってて、その中には100億円のゴッホもある。それじゃあ、ストラディバリウスの購買理由は忘れちゃいますよねー。


ギロチンとバロック音楽(フランス)

2024-09-12 06:26:39 | 音楽

横野君から「ミカド」ってオペラのレーザーディスクを見せられた。私、オペラなんて高尚なモノは普段見ないんだけど、これは台詞や踊りが入ってて、ふざけてて笑えて楽しい。オペレッタというのか。こういうのなら見てもいい(あと、オーケストラも、なんとかフィルだと演奏者が燕尾服やドレスを着ててしかめっ面してて敷居が高いんだけど、こないだあさイチに出てたスカパラダイスオーケストラは観て聴いて楽しかった。こういうのなら見てもいい)。そのオペラ、「ミカド」って題名通り日本が舞台なんだけど、役名が「ナンキプー」「ヤムヤム」とかでどこの国かと思う。それでも、お辞儀は深々としてたなー。日本人のイメージは「お辞儀」らしい。

私、日本人のする、うなじが見えるようなお辞儀って好きじゃない。だって、いかにも、うなじ=首を切るか切らないかはあなた様にお委ねいたしますって感じがするから。

そのくせ、パリ・オリンピックの開会式で、マリー・アントワネットが自分の首を手で持ってる演出は、日本では悪趣味だって言って評判が悪かった。

でも、フランスってギロチンの国ですからねー。しかも、ギロチンによる公開処刑が1939年まで行われていたという。刑場は見物客であふれていたという。だから、そのへんの感覚がわれわれと違っていて、それが開会式の演出に現れたんじゃないですかねー。

だけど、フランスは他のヨーロッパの国に比べて格段に日本文化が大好きらしい。柔道しかり、マンガしかり。それに比べたら、お隣のドイツなんかニュースを見たってほとんど日本のことはとりあげない。

大学では、第二外国語としてフランス語とドイツ語を選択する割合は大体半々。特に、クラシック音楽好きにドイツ語を選択する人が多いみたいで、それは明治維新で西洋音楽をドイツから取り入れた経緯から学校で教える音楽がドイツ音楽(ベートーヴェンとか)に偏ってたせい。日本でのドイツ音楽偏重は古楽についても言えることで、バロック音楽と言ったらバッハ、シュッツを思い浮かべる人が多いけれど、実は、ドイツでバロック期の音楽家が森のあちこちに散らばって活動してた時期に、フランスではルイ王朝の宮殿で絢爛豪華な音楽が鳴り響いていた。バロック音楽が「咲き誇っていた」という感じです。

前記の通り、ほとんどのドイツ人は日本のことなんか何とも思ってなくて、もっぱら日本人の片想い。だったら、「次はイタリア抜きでやろうな」なんていう軽口に乗っかるのはやめて、フランスと相思相愛でいきましょうよ。

因みに、ルイ王朝で活躍した音楽家の一人がリュリ。指揮棒で自分の脚を突いちゃってその怪我が元で亡くなったことで有名。あと、この人、もともとはイタリア人で、権謀術数に長けていたことでも有名です(以上、音楽関係は横野好夫からの請け売りでした)。


尊属殺重罰規定/ヤナーチェク

2024-09-11 06:26:34 | 音楽

朝ドラの2か月前の回で、尊属殺人を重罰に処す刑法の規定(法定刑は死刑と無期懲役のみ)が最高裁で合憲との判断を受けた際、尾野真千子のナレーションが、この問題が再び世間を賑わすのは20年後と言っていたが、その20年後がドラマでは2か月後に訪れた。実際にあった事件で、実の父親から性的虐待を受け続けていた娘に彼氏ができて結婚したいと思ったらその父親から猛烈に妨害され、思いあまって父親を殺害した事件である。有名な史実だから言ってもいいのだが、一応、朝ドラのみでこの事件を知った人のために結論を伏せておこう。

朝ドラの弁護団も、尊属殺重罰規定が違憲である旨の主張をするつもりだ、と言っていたが、そうしなければならない理由があった。事件は、あまりにも被告人が気の毒だから執行猶予を付けようと思っても、執行猶予は懲役3年以下が要件であるところ、無期懲役に法律上可能な減刑を施しても3年6か月より軽くすることはできない。すると、執行猶予を付けようと思ったら尊属殺重罰規定自体を違憲無効とする必要があったのである。

朝ドラでは、新聞にこの事件が最初に載った際「娘の恋愛から喧嘩か」との小見出しが付いていた。たしかに、きっかけは娘が結婚したいと思ったことだから新聞は当初そう書いたのか、そのうち徐々に内容が明らかになっていくのだな。朝ドラが描く被告人は結構しっかりした感じで、件の新聞記事には「(容疑者は)職場では……人気者だった」とも書いてあった。私が抱いていた人物像とは違う描かれようだった。史実をよく踏まえた脚本だから、そのへんのところも取材したのだろうか。

逆の、子殺し、孫殺しについては、従来から重罰規定はなく、普通の殺人罪で処断されていた。尊属殺だけが刑が重いのは「親は敬うべし」という儒教の影響である。例えば、犯人を匿うと犯人蔵匿罪が成立するが、匿った犯人が親だった場合、以前は処罰されなかった。論語に「子は父のために隠す」と書いてあって、親を匿うのはむしろ美徳だからだ(現在は、親族を匿うと刑が免除されうる)。

その孫殺し(と言っても、養母が養女の赤子を殺した案件なので、犯人と被害者との間に血縁はない)を扱ったオペラがヤナーチェクのイェヌーファ。チェコ語の語りのリズムを重視したヤナーチェクのオペラは、イタリア・オペラの「ブンタカタッタ」とは一線を画すと横野君が言っている。横野君は、このオペラをフランクフルトの歌劇場で観て、あまりの衝撃・感動に鳥肌が立ったそうだ……って、伝聞は面倒臭いので、この後は横野君にバトンタッチします。

横野好夫です。そのフランクフルトの公演なんだけど、特に孫殺し役を歌ったアニア・シリアが圧巻だった。この人は若い頃、ワーグナーの孫のヴィーラントから、祖父のオペラのヒロインにと嘱望された人なんだけど、今頃、どんな役を歌ってるのかと思ってたらこういう役を歌っていて、そうか、かつてのヒロインも今はヒロインの母親役か、俳優もそうなるよな、と思ったんだけど、結局、この人が全部もってった感じ。カーテンコールでは一番大きな喝采を受けていた。

ちょうど、昨日、レーザーディスクで観たオペラがそのイェヌーファ。因みに、一昨日観たのは、同じヤナーチェクの「利口な女狐の物語」。演技と歌が別撮りで、女狐の声はベニャチコヴァーだった。そう、「……va」は「ヴァー」が正しい。だから「グルベローヴァ」も正しくは「グルベロヴァー」である。ルチア・ポップの本名は「ポポヴァー」である。

因みに、「イェヌーファ」がアメリカで初演されたとき、あるイギリスの批評家は「明らかに素人に毛が生えた程度の男の作品としか思えない音楽」と酷評したそうだ(ウィキペディア)。どっちが素人か、と言いたい。私が子供の頃だって「バカと言ったらお前がバカ」と言ったものである。これほどの「はずれ」の批評が世に溢れてることを鑑みれば、人の批判など意に介す必要がないと思えてくる。

因みの因みに、村上春樹の小説の中にヤナーチェクの「シンフォニエッタ」という曲の話が出てくる。だから、ヤナーチェクの知名度は思いのほか高いかもしれない。


女房

2024-09-10 06:43:29 | 言葉

興福寺が僧兵を繰り出して道長に強訴した(大河ドラマ)。こういう勢力に対抗するために武士が必要となり、武士が台頭したのであろう。平清盛が興福寺を焼き討ちにするのはこの約180年後である。

その大河ドラマで、女房達が御殿の御簾を下ろしていた。源氏物語で読んだ「御簾を下ろす」はこんな感じだったのか、と思った。

源氏物語には「(夕顔は)卑しい家の垣根に咲く」とある(与謝野晶子訳)。たしかに夕顔は、令和の時代にあってもそこら辺のどうでもいいような処に咲いている。

今の世で「女房」と言ったら、夫のいる女性、すなわち「妻」を指すが、源氏物語で「女房」と言ったらそれは貴族に侍る女官である。その語源のせいだろうか、「妻」と言わず「女房」と言った場合、世話を焼くイメージがあるのは(「世話焼き女房」という言葉もある)。ということは、「妻」というのは夫のある女性一般を指す広い概念であり、その中に、夫の世話を焼く妻(女房)、夫に世話を焼かれる妻(御姫様)、夫と没交渉な妻の数学で言うところの部分集合があるようである。

さらに、「妻」は、別角度、すなわち夫と妻のどちらに支配権があるか?との基準によっても分類ができそうである。すなわち、夫に支配権がある場合(亭主関白)、妻に支配権がある場合(かかあ天下)、平等の場合(夫婦間民主制)である。因みに、この文章を書くにあたり、「かかあ天下」という用語はすぐに浮かんだが、「亭主関白」は最後まで浮かばず、「かかあ天下の反対」でググってようやくたどり着いた用語であった。私の脳内では、この用語はほぼ死語である。

なお、ドイツ語には「妻」を表す言葉として「Frau」と「Weib」があるが、私の感覚では、「Frau」は「妻」に、「Weib」は「女房」に相当する。「Die lustigen 『Weiber』 von Windsor」というオペラの邦題も「ウィンザーの陽気な女房たち」である。ここでの「女房たち」は、策略を巡らせて、言い寄る太った男(ファルスタッフ)どころか自分達の夫にさえも一泡ふかせる躍動的な女性達である。仮に、邦題が「ウィンザーの陽気な妻たち」だったらどうだろうか。「女房」よりもちょっとすました感じがするが、「金妻」からの連想で、浮気な印象を受ける人がいるかもしれない。


アラン・ドロンと小遊三

2024-09-09 07:26:38 | 日記

笑点に出てる三遊亭小遊三師匠は自ら「アラン・ドロン」を名乗っているが、本物のアラン・ドロンが亡くなったとき「小遊三」がトレンドワード入りしたという林家たい平師匠の話はホントだったそうだ。私は、小遊三師匠の「いないいないばあ」をもじってする「いないいないアランドロン」が好きである。

アラン・ドロンが全裸になった映画が日本で公開されるときモザイクがかかった。映画会社の人が全裸のアラン・ドロンを見て欲しかったと残念がってたのを覚えている。今なら、ノーカットで公開したかもしれない。

小遊三師匠は、ご自身をアラン・ドロンに例えるほか、郷里の大月(山梨)をパリに例えていて、たしかに、オリンピックの開会式などで見ても「外目」には魅力的な街だと思うが、古い建物の上階で水の圧力が低かったり、それでいて家賃が結構な額だったりと聞くと、住むなら日本がいい、と思う。「天離る鄙(あまざかるひな)」という言葉がぴったりの私の奥地の家だって、インフラは整っている。

その笑点の大喜利で、一之輔が紙に「罪」という漢字を長ーく伸ばして書いて「無期懲役」と言ってウケていたが、刑法的には「刑」又は「罰」の方がよかった。犯した行為が「罪」であり、それに対して科される「罰」である「刑」の一つが無期懲役だからである。なお、刑法では「罪」と対になる言葉は「刑」であるが(罪刑法定主義等)、ドストエフスキー的には、「罪」とセットになる言葉は「罰」である(「罪と罰」)。

懲役で刑務所に入っている間に食事当番をやっていると、それが調理師免許取得の条件である「実務経験」にカウントされるそうである。いいなぁ。禁錮刑は労役を課せられない点が懲役と異なるところだが受刑者が自らが希望すれば労役が課せられ、ほとんどの禁錮刑の受刑者は労役を希望するそうである。私は、なぜ好き好んで働くのだろう?と疑問だったが、調理師免許の実務経験になるのなら私だって希望する、と思った(でも、希望通り食事当番に回されるのだろうか。メーカーなどは工場勤務を希望しても外回りの営業に回され、メンタルを破壊される人がいるものである)。

懲役刑と禁錮刑が「拘禁刑」に一本化されるという話を風の頼りで聞いた。法律職の末席を汚していたことが遠い昔に感じられる昨今である。

なお、小遊三師匠は大喜利ではふざけたことばかり仰ってるが(それがお仕事だが)、実は、卓球の名手である。


アッディーオ、庭木!

2024-09-08 08:51:38 | 植物

私の郷里の田んぼはなくなったが(前回の記事)、筑波山の回りには今でも豊かな田園風景が広がっている。「でんえん」というと、なにやら高級な感じがしないでもないが、そもそも「田」であるから、田んぼがある風景に使うのが相応しいはず。だからベートーヴェンの交響曲第6番は「田んぼ」と呼ばれてしかるべきである。え?ドイツに田んぼはない?なら、この交響曲の副題に「田園」という邦語を当てるのが間違っている。因みに、光源氏がふざけて作った歌に「常陸には田をこそ作れ」というのがある(源氏物語)。現在の常陸(茨城)の田園風景は平安の世からあったのだな。

茨城は海が近く、霞ヶ浦もあって低地だから田んぼだが、私の奥地の家の辺りにあるのは茶畑(と山)である。そんな奥地の家の「猫の額」は、狭いくせに未開地であり、鬱蒼としていて「秘密の花園」という別名を与えているが、

いよいよ討伐軍をさしむけることにした(植木屋さんに来てもらうことにした)。このままでは、内にあっては妖怪の住処然としていて恐ろしいし、外にあっては切っても切っても道に枝が張りだすし葉も落ちてご近所迷惑である。さらに、こないだなどは、家の雨戸のあたりでガタガタと鳴る音がして、ポルターガイストか?とはさすがに思わなかったが、雨戸の戸袋に鳥でも入ったか(そういうことは過去にあったと聞く)、と思い戸袋の中を覗いたりもしたが何もない。正体は、伸びすぎて風が吹く度に戸袋と接触した庭木の枝であった。こうした狼藉まで働くようになったので、討伐を決めたのである。

作戦は、信長(の家来の明智)が延暦寺に対してしたような、あるいは秀吉が秀次の妻子に対してしたような「根絶やし」(皆殺し)であるが、杏(梅だと思っていたのは杏であった)だけは残しておこうと思った。だが、頼朝に情をかけたばかりに滅亡した平家の例もある。というのはとってつけた話であり、実際は、植木屋さんと「この梅(杏)だけは残したい」「でも、これ、相当弱ってますよ」「え?今年、実をたくさんつけたけど」「最期に実をたくさんつけるものなんです」「じゃあ、これも切っちゃってください」「それがいいと思います」という会話があって作戦が決まった次第である。

というわけで、杏(下の写真の左)も、サルスベリ(右)も、

サザンカも、ハナズオウも、トキワマンサクも、カエデも、カナメモチもこの日が見納めである。サルスベリなどは、今が盛りと咲き誇っているが、道に落ちた花房は掃除しなければならぬ。樹上にあって咲いているうちは綺麗だが、道路に落ちたソレは厄介者である。

ホントを言えば、寂しい気がする。私が此処に常駐していれば、日々メンテナンスができ、剪定・除草によって生じたゴミは燃えるゴミで出せるはずである。常駐せずとも車があれば、生じたゴミはたやすく処分場に運べたところである。すべては、常駐せず、車を持ってないことから生じる不都合であった(リアカーの購入を検討したこともあるが、非現実的である)。

それにしても、サルスベリは、夏にきれいな花を咲かせるものだ。私はこの歳になるまで、サルスベリの花を認識してこなかったが、一度認識すると、至る所にサルスベリの花を見る(と同時に道に落ちた花房も見る)。


孤閨をかこつ・守る

2024-09-07 06:51:01 | 朝ドラ

朝ドラ「虎に翼」で寅子を演じている伊藤沙莉さんを初めて知ったのは、かつての朝ドラ「ひよっこ」の米子役。米屋の娘の役である。米子は自分の名前が嫌で「さおり」と名乗っていた。昨日のあさイチでは、是非、米子の思い出話をしてほしかったのにそれは出なかった。そう言えば、「虎に翼」に「山田よね」という役名が登場する。「米子」にしろ「よね」にしろ、親はお米に不自由しないようにと願って付けた名前だろう。

その米がお店にない。米屋にもない。新米が出るまでの辛抱だと言われてきたが、その新米の価格は銘柄によっては40%アップだと言う。このインフレの中、比較的価格が安定してると言って米に注目が集まっていたのに40%増はきつい。私は予言する。今後、米離れは一層加速するであろう(米不足でタイ米を輸入したときがそうだった)。田んぼの景色は日本の原風景であるから残ってほしいのはやまやまであるが、残念なことである。

田んぼと言えば、私が子供の頃、季節になると田んぼの蛙の大合唱が町中に響きわたっていた。稲を刈り取った後は子供達が野球をして遊ぶ場だった。「横浜市」と言っても、港のヨーコが闊歩するエリアだけではないのである。その故郷を何十年ぶりかで訪れて歩いてみたら、田んぼがすっかり住宅地に変わっていた。もはや蛙の合唱が響くことはないだろう。こんなにどんどん田んぼをつぶしてよく米が足りてるなー、それだけ米離れが進んでるのかー、と思っていたら、需給はキツキツだったのだろう。ひとたびバランスが崩れると今回のような米不足である。

ところで(落語ならここで羽織を脱ぐところである。だが枕話の方が長い)、私の靴下の片割れが長いこと雲隠れ状態で、残されたもう片っ方は孤閨をかこっていた。いったいこの狭い家のどこに隠れているのか不思議だった。ところが、ある日、猫のケージの下から見慣れないブツが顔をのぞかせている。

もしや、と思ったら当たりであった。行方不明の片割れであった。いきなり顔を出したのは、多分、最近レーザーディスクを押入から取り出すときこのケージを動かしので、そのとき引きずられたのだろう。崖崩れによって顔を出した地層から化石が見つかるごとしである。明けない夜がないごとく、見つからない靴下の片割れはない。相棒が見つかって、各々は再びペアとなって衣装ケースにしまわれることとなったが、それが彼らにとって幸せかどうかは不明である。因みに、前出の朝ドラ「ひよっこ」は、ヒロインの父が長く行方不明で妻(ヒロインの母=木村佳乃)は孤閨を守っていた。なお、「孤閨(こけい)をかこつ」は独り寝の寂しさを嘆くことであり、「孤閨を守る」は配偶者の長期不在中に残存配偶者が家を維持すること(だそうで)である。(私にとって)大変お勉強になる当ブログである。


伊予の湯桁(源氏物語の疑問再び)

2024-09-06 07:19:58 | 小説

私は豚肉も鯖も好きであるが、ビタミンB1が豊富な前者とドコサヘキサエン酸が豊富な後者の二者選択に迫られた場合、どちらを選択すべきかは悩むところである。

私が亡き母に「免疫を鍛えて病気を治す」話をしたとき、母は、そんなバカなことがあるものか、病気は病院で処方された薬で治すモノである、と言い張り、私のことを胡散臭そうな顔で見た。え?お母さんはこの歳になるまで「免疫」について聞いたことがなかったの?と不思議に思ったが、実際、免疫が注目されだしたのはこの半世紀のことらしく、私自身も免疫を聞くようになったのは大人になってからである。だが、母の場合は、聞いたことがあっても忘れた可能性がある。

はて(が口癖の寅子が今日のあさイチのゲストである)……ではなく、さて。源氏物語の第二帖「帚木」の与謝野晶子訳で哀れな私の脳みそは糸を紡ぐグレートヒェンのように混乱したが、角田光代訳で回復した旨を書いた。その後、疑問がぶり返した。一部重複するが、こういうことである。

最初に読んだ与謝野晶子訳ではこうであった。光源氏が伊予守の息子の家に泊まったとき、光源氏は、伊予守の「娘」が高慢だという噂を聞いて興味を持っていた。その後、夜中に光源氏が屋敷内を徘徊しているうちに伊予守の「後妻」の部屋に行きあたり関係を結んだ。ここで私は混乱した。最初に話の出た伊予守の「娘」はいったいなんだったんだ?そこで、助けを求めて角田光代訳を読んだ。角田光代訳では、光源氏が興味を持っていたのは伊予守の「後妻」であった。だから、興味を持っていた相手と関係を結んだ相手が一致する。これで納得した私は混乱から脱却した。角田光代訳は各帖の冒頭に人物関係図を載せているが、本帖の関係図では、伊予守の子は息子が一人いるのみである。

ところが、次帖の「空蝉」の関係図ではしらっと伊予守の子が増えている。「西の対のお方」と呼ばれる伊予守の「娘」である。光源氏は先に関係を結んだ「後妻」と今一度とばかり寝込みを襲ったがもぬけの空(着物だけが残っていた。だから「空蝉」と呼ばれる)。代わりに寝ていた「娘」と関係を結ぶのである。

ってことは、当該館には、たしかに伊予守の「後妻」と「娘」が両方いて、光源氏はどっちとも関係を結んだことになる。だから、最初に光源氏が興味を持った対象を「娘」とした与謝野晶子訳も「あり」だったことになる。因みに、そのくだりの原文は「思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば」であり、この「女」についてのそれ以上の記述はここにはない。それゆえに「女」を「娘」ととるか「後妻」ととるかで訳者の解釈が分かれたようである。

なお、伊予守は「受領」である。「受領」とは名目のみではなく実際に現地に赴任する地方長官であり、光源氏が伊予守の後妻と関係を結んだときは伊予守は任地の伊予の国にいて(つまり、伊予守の後妻は夫の単身赴任中に光源氏と関係を持ったわけである)、その後、上京した際にはまっさきに光源氏に挨拶に来た。光源氏はさすがにまともに伊予守の顔を見られなかったと言うから一応罪の意識はあるようだ。だが、伊予守が妻を任地に連れて行き娘を適当な相手に嫁がせるつもりだと聞くと大慌て。情事の相手を二人一度に失うことになるからである。とか言いつつ、情事の相手は他にもいるのだから何をか言わんやである。与謝野晶子訳では光源氏は非の打ち所のないスーパーヒーローの印象だが、角田光代訳では「しょうがない人だ」的なニュアンスが強い。因みに、大河ドラマのまひろの父も、まひろを連れて任地の越前に赴任したから受領だったのだな、とガテンがいった。

因みに、光源氏は、挨拶に来た伊予守に「伊予の湯桁」について聞いている。「伊予の湯桁」って道後温泉?当たりらしい。漱石の「坊ちゃん」にも登場する温泉で、私はここに一度行ってみたいと思っている。


弟子も美女

2024-09-05 06:11:20 | 日記

某国家資格の受験指導をしていたときの生徒さん達は、今や押しも押されぬ先生に出世された方々ばかり。私の誇りであり(Darauf bin ich stolz!)、藍より青くもここに極まれりである。先生方は紺碧に輝き、私の藍はもはや蒸発して影も形もない(私は廃業済みであるからこれは卑下ではなく事実である)。そうした先生方のうち、私のことを覚えていてくださる殊勝なお二方と会食を共にした。写真の掲載及びタイトルを「弟子も美女」とすることについては先生方のご了承済みである。

先生方との歳の差は○○(○○に入る値は素数である)。奇しくも、今、お世話になっている別の分野の二人の先生方と同い年であらせられる。私は、このお歳の方々と縁があるんだなー、と感じ入った次第である。

先生方からは、「若い」と言っていただいた。そりゃー「老けた」とは言えない。人は人生の過程でこうした嘘を学ぶものである(学ばない人もいる)。

因みに、「弟子も」の「も」を表す外国語はtoo,also,auch,ancheといろいろあるが、そのうち「also」は「も」の意味であるから英語のオールソーである。だが、横野君のような古いドイツの歌を歌う人は、まっさきにアルゾーが思い浮かぶそうである。そんなことがあるぞー、と言う人が古いのは歌ではなくおつむである。歳をとると前頭葉が退化し、こういうろくでもない駄洒落を言うことのセーブが効かなくなるそうである。


ボケ老人の決め台詞

2024-09-04 08:43:41 | 日記

朝ドラの昨日の放送では、余貴美子演じるコーイチの継母が鬼の形相で「どーいうことっ?」と言っていた。ぎょっとした。ボケが進んだ頃の私の母も同じ形相で同じ台詞を吐いていた。まず「どーいうこと?」が来て、その後に詰問が続く点も同じである。「どーいうこと?」はボケ老人の決め台詞なのだろうか。せめて、いきなり「どーいうこと?」ではなく、内容を先に言ってほしいと思ったものだが、考えてみれば、5W1Hを文頭に言うのは欧米的である。こういうボケ老人に、理屈を懇切丁寧に説明して理解してもらおうとするのは愚である。私の母の場合は、もともと変な人(私はその遺伝子を引き継いでいる)だったから、ボケてんだかなんだかが分からず、かつ、私も認知症の理解が薄かったから一生懸命説明をしたものだが、後から考えてみれば無駄な努力であった。朝ドラではそのへんのことを家族がよく分かっていて、逆らわずにご機嫌をとっていた。

今日の放送では、「財布がない」と騒いでいた。これも認知症患者のあるあるである。が、「財布がない」は認知症でなくてもあるあるである(数学的に言えば、認知症患者は「財布がない」と騒ぐ人の部分集合である)。私などは、人生の3分の1をモノ探しで費やしてきた自負がある。原因は分かっている。分かった、若年性ボケだろうって?そう簡単に分からないで欲しい。違う。例えば、家の中をうろうろしていて、はっと気がつくと手にスマホを持っていると、ははーんと思う。このスマホを、そこら辺にぽいと置いて、それで後からないないと騒ぐのである。だから「モノはしかるべき場所に置く」を徹底すれば問題は解決である。ドイツ系アメリカ人の夫と結婚した私の恩師は、モノを「しかるべき場所」以外に置くと必ず夫がそれを元の場所に戻すと言っていた。整理整頓好きなドイツ人の面目躍如である。だが、恩師はそれが鬱陶しいと文句を言っていた。あたしはもっと気楽な人がいいのとも言っていた。

なお、ドイツ人が整理整頓好きなのは認めるが、「Sauberkeit」(清潔さ)にかけては、これは日本人の方が徹底してると思う。日本は水に溢れていて、水で清める生活が身についているせいだと思う。鉄道の正確性にはかけては、これはもう日本の独壇場である。ドイツの鉄道は、特に冬場は雪のせいで何十分遅れはざらである。