VIVA! HOUSEKEEPING

30回目の震災記念日


さて本日は震災記念日 阪神・淡路大震災から30年の節目 

何度も書いていますが何度も書きますけど あの日ボクは卒論を大学に提出して 当時付き合ってた彼女とジャッキー・チェンの『酔拳2』を観に行くはずだった

当時我が家は新築の戸建を建てたばかりで 両親はマンション ボクはまだ荷物の運ばれていないがらんとした戸建の方にすんでいた 明け方突き上げるような揺れに全く立てず 揺れが収まるまでフローリングを滑りまくる布団の上でしがみついていた 

引越前で物がなかったのが幸い 怪我はないぞ 揺れが収まり火の元を確認して窓を開けると なんとあの硬い電信柱がグニャグニャと揺れていた 『これは大変なことになったぞ』と急ぎマンションへ 両親の無事を確認してTEEVEEをひねると(チャンネルはないんですけどね)その後は皆さんのご記憶にもある映像が写し出された

長田区が火事で大変だ 阪神高速が倒れている 三宮のビルも倒れている(その後このビルの持ち主とは自転車仲間になるんですけどね) この春から就職する会社の社長とか その会社のカワイコチャン(うちの妻ですね)とか 大学の教授とか友達とか 自分の親類とか 京阪神間に住んでいる人が多い

大学に行けないので 朝から片っ端に連絡したが 電話が通じない 仕方がないので長居の彼女んちに様子をみにいった 震災から一週間ほどたって伯父が 『一緒に苦楽園の親戚宅まで補給物資を持って行こう』と声掛けしてくれた

水など重いものもあったが 伯父はボクに現実を見てほしかったのかも知れない 何せボクはその春から社会人としてこの国難を担う一人になるのだから 西宮からは汽車が動いておらず ジェットコースターみたいにひんまがった阪急の線路をとぼとぼ歩いた その時のシューズはティンバランドのブーツ 

履いていた沿道の困難は ボクが書くよりもインターネットの写真から伝わってくる ボクが子どもの頃から大好きだった神戸の街はなくなってしまった


コラム 『阪神・淡路大震災30年の言葉#1 世直し、立て直し、やり直し 高森順子』

ミナトマチKOBEには 阪神大震災以降歌い継がれてきた歌がある 『しあわせ運べるように』 当時小学校の教諭だった方が作ったのだそうだ この時期の保育園や学校の式典では子どもたちが歌う 

ボクはこの歌を聞くと泣いてしまう 他方このコラムの著者のように聴くことすらできなかった人もいる 震災後に溢れた前向きな言葉の向こう側には 語られた事もあれば語られなかった現実もある 

様々な想いで迎える震災から30年の節目 

被災こそしなかったボクも 神戸で子育てをして 伸びやかに粛々とこの唄を歌う子どもたちの表情を見た時 この子達を信じてしっかりと社会を託してやりたいと 思うのだ

 
焼け野だった街はすっかりキレイに ぐちゃぐちゃになった街から復興するには本当に多くの力が必要だったと思う 瓦礫を取り除く力 下敷きの中から叫ぶ力 明日に向かう力 色んなPOWERが集まってこの街がある 

大変な想いをしたんだな 本当に御苦労様でした っと KOBEという街に声をかけてあげたい

朝日新聞デジタルの震災フォトギャラリーが閲覧できます
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