実際には、いつも身体がだるくなっていた。調子いいときもあるが、だいたい調子悪い。
医者から心配されているとは思った。だから、腎代替療法、人工透析に向かうような流れになっていた。そして、そのことを僕自身意識していた。
しかしながら、僕にはこの病気とは無関係なというか、僕なりの考えを意識していた。意識していたというか、湧き上がっていた。だるい身体と背反してというか考えが先鋭化していたというか・・・
どう説明しようか。難しい。僕の考えを説明するのに、自身がゼロから言葉を紡いで説明するのは難しい。だから他人の考え、言葉を借りようと思う。
例えば、ショーペンハウアーは自我を3つに分けている。1真の自我、2物理的自我、3社会的自我である。別にショーペンハウアーである必要はない。仏教でもいいし、プラトンでも・・・いくらでも出てくるだろう。
ショーペンハウアーは近代の哲学者であるから、近代的彩りが強いとは思う。意志の哲学などとさえいうので、意識化されることを本質化してしまうように読めてしまうこともあるに違いない。とはいえ、そのような限界の背後に真理探求がある。
自我という用語を使うというのが、僕なりの理解としてある限界だが、実際にはその限界を利用しているだけではある。
人間は真の自我を求めるべき存在であるが、車が欲しいとか財産にこだわるのが物理的自我。社会的自我は名誉や地位や承認欲求として現れる。つまりは欲望でしょう。真の自我は知性人格などを求めている。僕なりの理解は、つまりは具体的に内実を言説化することをズラしてしまうなにがしか、である。
今病気で身体は辛いのであるが、そうだとしても、真の自我を求めることは変わらない。そちらの方を見てしまう。周りには理解してもらえないので、そこは孤独ではあるが、妻が僕の生を支えてくれているという実感があるので、孤立はしない。
ショーペンハウアーの真の自我、ん〜〜〜、魂でいいんじゃないか、そんなことを考えることがあると考えてみれば、若い時から、こういう考えを抱いていたと振り返ることができる。
ということからすれば、病気という体験でその考えに輪郭を与えることができるようになったのであり、病気は恩寵でさえある。
面白いもんだ。