山内得立という京都学派の哲学者がいる。西田幾多郎の弟子に当たるだけに、西欧的な論理とは異なる、東洋的な論理を位置付けている。今社会の分断などの根底に西欧的論理があるとすれば、参考にしていい哲学である。
まず、理解の土台として、西洋的論理を簡単に取り上げておく。アリストテレスが位置付けた「排中律」がその論理である。これは私たちの思考を根底から支えているというか、思考そのものといっていいから、頭がいい人など、「排中律」で物事を見て評価する。
「排中律」とは、形式論理であるが、どのような命題も真か偽いずれかであるとする論理であり、我々に馴染み深い。あるいは肯定するか否定するか、賛成するか反対するか、そんな感じでしょうか。そうすると間違っているとされれば、否定になるばかりではなく、「頭悪いな」などと評価されてしまうことになるでしょう。
ネットであれば、「俺の意見が正しい」だから「お前の意見は間違っている」。そうすると、俺が優位であると。ウクライナ戦争であれば、「プーチンが悪い」だから「ウクライナが正しい」「そのウクライナを支援する西側は正しい」、こんな感じでしょうか。
「排中律」はひょっとして、このような論理を世界の下敷きにする。「西欧は進んでいるから正しい」「アジアは遅れているから間違っている」。本当はなんの基準があるのか、不明であるが、不明であることを知らないのであるから、ここに無知の知が成立していないという人間認識の根本問題が控えている。
ここには主体(俺)と客体が必然の認識となり、人間という主体が環境という客体を主体のために変えることで、人間に都合のいい世界が作られるという信仰。まあその結果環境破壊。人間自体が環境と同様自然であるから、自己言及的に人間の破壊。
そこで「容中律」。これは西田幾多郎の弟子である山内得立が位置付けた論理というか、非論理の論理。仏教の論理である。簡単に言ってしまえば、真でもあり偽でもある。あるいは真ではないし偽でもない。そんな感じで、真も偽も両方の存在を許容する論理である。
テトラレンマ(肯定、否定、肯定と共に否定、肯定でもなく否定でもない、という四段階の思考方式)の包含的な超越を行う世界理解である。おそらく世界はそういうものである。これが僕たちの生活の場での当然ではないだろうか。
西欧は進んでいるといえば進んでいるが、遅れているところもある。というのは当然であるし、排中律で考えるから、どちらかに決めてしまうのだが、「容中律」であれば、そりゃ西欧にいいとこあるし、違う側面では東洋にいいところがある。当たり前すぎる。
これを論理のみで考えるから、どっちが正しい、どっちが進んでいる、そういう認識枠組みでのみ考える。学問であるなら、この枠組みを対象化していくべきだ。
移民は認めるか、認めないか。いやいや認めるところもあるし、認めないところもあるけれど、この両者の認識を取り入れれば、それは寛容の精神を必然とするだろう。移民の定義自体が定義でるから操作的だし。自国に利するか否かと、敵か味方か、いやいやどちらでもあるし、どちらでもないし。
世界の行き詰まりの根本に、こういう認識の問題が横たわっているとすれば、実は正解がいくつもあるよという認識が舞い戻ってくるに違いない。