小中学校の「道徳」を教科外の活動から、「特別の教科」に格上げをする動きがあるようです。
海外から注目を浴びる、「日本人の素養」の原点ともいえる「道徳」とは何かを導く授業ですから、そうするべきであると私は考えますが、みなさんはいかがお考えでしょうか?
昔はおじいさん、おばあさんが「躾」を教えたものですが、核家族化が多くなった今日においては欧米化が加速しているのも事実です。
欧米化が駄目と言っているのではなく、それを超えたものが海外から“注目”されているのです。
「道徳」の根源は何なのかは良く分かりませんが、日本の場合は仏教的な要素が大きいと考えます。
我々が仏教に興味があるか否かは明白であり、物事の良し悪しを知るものが「親」、「学校」ではなく、残念ながらテレビ番組やネット社会になっている現状があります。
ここ最近のこれらに関する話題としては、次のようなものがありました。
お腹の大きいマタニテイを着用した女性が優先席に座る、譲る行為はいかがなものか。
保育園児の声がうるさい。
この2つの問題を問題とする場合でも、既に意見が分かれ賛否両論となります。
我々が教えられた道徳とは、生命の尊さ、それを大切にする心を育てる大切さ、他人を思いやる心を養う必要性、善悪の判断などの 規範意識等、決められたことは決められたとおりに行うことが大切であり、それは生活の中で自然な行為として行われなければならない。
これらが大人になるためのひとつの条件だったと記憶しています。
それがあるときに大きく変化しました。
それを時代の移り変わりとし、グローバルな社会を理由とし美徳化した結果、世の中では過去にない悲惨な事件が発生しているのも事実なのです。
ですから、何が正しい、何が間違っているという議論の前に、ひとりの人間としてのすべき行動として“どうするべきか”を誰かに説いて欲しいのです。
それによって一人でも多く素養が高まることを期待します。
例えば、業務中に子供が泣いていたのを見つけたら、みなさんはどうしますか。
・仕事を投げ出して子供が怪我したのを手当てしますか?
・それとも泣いている理由を聞いてどうするべきか考え行動しますか?
・仕事に影響するので何もしませんか?
どちらも社会の中では正しいといえます。
但し、道徳の意味、すべての人から見た場合の正しさの意味は異なります。
前回、話題として取り上げた鉄道マンの遅刻問題は何が最大の問題だったのでしょうか?
ブログ表題のことについて一言。
曲がったことは駄目という方がいます。
そのとおりです。
何も間違ったことはありません。
私も同感です。
ただ、それに付け加えてこう述べる方が居ます。
“一本芯が通った”という表現です。
この「一本」という意味は何か。
この「芯」とは何か。
この意味を導くのが「道徳」だと私は考えます。
つまりは、幼くして銃を持たされ、ナイフで人を殺めることを「生きるための正論」、「自分たちの理想国家の樹立」等を叩き込まれた人間は、「一本の芯が通った」という意味は、それが彼らの道徳そのものになります。
銃で人を撃つこと、ナイフで人を殺めることは正論として何の違和感もないと感じます。
彼らはゲームじゃなく、リアル感で理解してそうしているのです。
彼らを正当化しているのは「戦士」という崇高な表現なのでしょうが、角度が変われば我々からは良くて少年兵、悪くてテロの少年兵ということになります。
国によって法律が異なることを今一度知る必要があります。
そしてこの法律は我々が変化させることが出来るという危険な側面を持っていることも。
私たちから見たら違法でも、彼らの住む世界では違法性がないのです。
変えてもいいものと絶対に変えてはならないものがあります。
私たちは代々受けつがれてきた、日本人としての素養は人間らしさを継続するために必要なものです。
実は私は曲がったことは嫌いではありません。
最初の段階で“その理由が明確”であり、“大義名分”があれば行動します。
ただそれが“人の道”としてあるべき姿であればのことですが。
ドン引きされると困るので、分かりやすく申し上げると「緊急避難」的な要素がある場合という意味合いです。
くれぐれも「曲がったこと」という意味は、違法なことを助長する意味ではないということをご理解下さい。
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