幼稚園に入ると、友達はたいていこんな絵を描いていたかな。
私自身もたぶん、似たような絵を描いていたのかもしれない。
今どきの幼児でも、こんな絵を描いているのかな。たぶん、描いているのだろう。
駅のワッフル屋さんの壁には、子供たちの描いたたくさんの絵が貼りだしてあるけれど、
似たような絵が多い。近所のスーパーが「母の日」に募集する子供たちの絵も、こんな
感じ。
幼児には、ある程度「記号」を読み取る能力が生まれつき備わっているらしい。
赤ちゃんは、黒い二つの点を母親の眼として認識するという話を読んだことがある。
私は幼児の認識力について詳しいわけではないけれど、ウチの息子も赤ん坊のとき、
私が指で自分の顔の眼を吊り上げると怖がったし、目尻を下げると安心した。
つまり、幼児は、複雑で捉えづらい物の形(顔)から必要な情報を抽出して記号として受け取る能力を
持っているらしい。
だから、こんな絵を描くのかな。
でも、クレヨンを握って最初に描く絵は、こんな絵ではないだろうな。
たぶん、短く途切れた殴り描きのようなもの。短い横線。「の」の字や筆記体アルファベット
小文字エルを繋げて描いたような線、らせん、渦巻、波線、歪んだ〇、✕なんかだろう。
ピカソはある幼児施設を訪問したとき、幼児の描く絵を見て、
「わたしはこの子たちと同じ年齢の頃、ベラスケスのように描いていた。
だが、この子たちと同じように描けるのに60年掛かった」
と、言ったそうだ。
持てる者天才の驕りと受け留めるのは簡単だけど、私はピカソの正直な心情と受け取りたい。
「絵は描きたいように自由に描けば良い」
この単純な原理に人類が気付くまで、もう四千年以上経過している。
なにしろ、金銭にも名声にも権威にも技術にも伝統にも既成概念にも囚われず自由に絵が描けるのは
ピカソと幼児くらいのものだ。
で、ピカソの言う「この子たちの絵」がどんなものか、残念ながら私たちは見ることができない、
資料が残っていないから。どんな絵だったのだろう。
思うにそれは一枚目の「おひさまとおうちとおかあさんとチューリップ」の絵ではなくて、
二枚目のデタラメな線をいくつも描きなぐったような絵に近かったんじゃないか、と私は思う。
クレヨンではなく水彩絵の具で描かれていたとすれば、ペタペタと大きくさまざまな色が重なっていた
かもしれない。絵具の垂れや沁みもあっただろう。汚れた手の跡とか靴の跡、描きそこなってぐしゃぐしゃに消
して絡まった毛糸みたいになっちゃった線もそのまま残ったりして。
こんな感じかな。
一枚目の絵はいわば記号の集積で、ピカソが頭を下げるような絵とはとても思えない。
幼児が描くこれらはみな、絵というよりも「記号」に近い。
じゃあ、記号と絵はどう違うのか、ということについて、次回は考えてみます。