小学校では写生をさせられる。
教室で、花瓶に挿された花とか、果物なんかを描かされたり、
学校の外に引率されて、公園や河原で風景を描かされたり。
写生はいわばリアリズムへの第一歩で、
花は花らしく、葉は葉らしく、樹は木らしく描くように方向づけられる。
このころから絵は「上手に描けた」かどうかが基準になる。
絵は「うまい・下手」で評価される。
学校では点数を付けなければいけないからね。
ほとんどの生徒はべつに画家になることはないから、
何も絵がうまくなる必要はないような気がする。
じゃあ、写生なんか無駄か、と言うとそんなことはないと私は思う。
ふだん、花なんかをじっと見たりしない生徒でも、
その時間はいやでも見つめざるを得ない。
そうすると、例えば単純な形の葉っぱでも、様々な角度で生えていて、
ねじれたり、反ったり、捲れたり、閉じたりしていて、
「ひとつとして同じものはない」つまり「同じ形の繰り返しでは描けない」ことに気付く。
その形全体をある程度正確に画用紙に描き写すのは、とても難しい。
まして、図工の時間の一時間や二時間では、まず、描くことができない。
植物は一時間くらいでも形を変えるし、
教室の光の当たり方もどんどん変わる。
「花瓶に挿された花」といういわば「切り取られた自然」でさえ、
とても複雑で捉えがたいものなのだ。
そうしたことを、「教わる」のではなく「体感する」ことが
たいせつなんじゃないだろうか。たとえ、絵がうまくならなくても。
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