【線香花火】(「海の底」夏木×望)
夏木は全速力で走った。
訓練でも実戦でもこうはスピードは出ないだろうというほど、マッハで人でごった返す構内を駆け抜ける。若干アルコールは入っていたが、電話を受けた途端、吹っ飛んだ。
――もしもし。そちら夏木さんの携帯ですか。
聞きなれないオッサンの声に、夏木は顔をしかめた。
――そうですけど、なんですか。どちらさま?
――えーとですね。こちらは○○駅構内にある××警察の派出所ですが。
警察。派出所。
それらの語句が意味を持って夏木の耳たぶを打つ。にわかに背筋が伸びる。
――警察、ですか。
――はい、あのですね。今こちらに森生望サンという方がおられるんですが。
望の名前が出てざあっと体内のアルコールが引く。
携帯をぎゅっと握りなおして、夏木は訊いた。
――望がどうかしたんですか。まさか事故でも?
――いえいえいえそういうんじゃなくてですね。あの、落ち着いて聞いてほしいんですが、実は被害に遭いまして。電車内なんですけど、その。痴漢被害ですわ。
――痴漢、被害?
夏木の血が逆流した。がたんと音を立てて席を立つ。
周りで飲んでいた同僚が、どした? なんだ、急用か夏木と声を掛けるも無視。
夏木は宴会場から人気のない廊下に出た。心臓が嫌な具合に鼓動を刻んでいる。
「望が痴漢に遭ったんですか、どこで? 彼女は無事なんですか」
つい詰問調になる。相手は、手元に資料を引き寄せながら説明しているように棒読みで経緯を口にした。
「ええと、なんでも下りの電車で被害に遭ったらしいのですが、残念ながら相手を取り逃がしまして。目撃者も居たのですがね。森生さんが騒いで、車内が騒然となったところで、どさくさに紛れて次の停車駅で降りてしまったようで。車掌が事情を聞いてここに連れて来たんですわ。で、いまは大分落ち着いて、連絡先に夏木さん? あなたの電話番号を言ったものですから。こうしてご連絡差し上げているというわけなんですが」
これからこちらに迎えに来てもらえますかね。やはり事情が事情だけに、興奮していらっしゃるみたいで。事務的に言った相手に、夏木は、「すぐ行きます」と即答した。
何を措いても行く。夏木は望が心配でならなかった。
自衛官ということを差し引いても、あの土壇場になると驚くほど肝が据わっている望が興奮しているなんて、尋常ではない。警官の言葉どおりなら、今は大分落ち着いたということだが、裏を返せばさっきまではかなり動揺していたということだ。あの望が。そう思うといてもたっても居られなかった。
通話を終え、携帯を懐にしまう。その手に汗がじっとりと滲んでいた。
上司に手短かに理由を話し、中座を詫びて夏木は宴会場から飛び出した。
猛ダッシュで。
今夜は花火大会だった。年に一度の。
夏木が珍しく大会当日オフで、陸にいると分かったものだから、望はずっと前からその夜の約束を取り決めて、一緒に出かける算段を組んでいた。
聡子から浴衣を借りて、草履を用意して、
おしゃれなかんざしを見繕って、
団扇なんかも用意して。
ぶら提げて持っていくきんちゃくも、浴衣の色に合わせた。
和装だから、派手じゃないペディキュアを塗って、身だしなみもOK。
うきうきと支度する、その時間さえもが愛おしかった。
それは全て、夏木との花火大会デートのため。
そのためだったのに。
「すまん、望。急に退職が決まった上司の送別会が入ったんで、今夜行けそうにない」
駅で待ち合わせの数時間前という土壇場になってキャンセルの電話が夏木から入る。
予想外のドタキャンで、望の頭の中が真っ白になった。
数秒、声を失っていると、「ごめんな。急病で、治療に専念するってんで勇退することになって。若い頃からお世話になった、大事な上官なんだ。だから」と弁解モード。
望は携帯を握りなおした。顔を上げる。
それで、俯いていたことに気づく。がっくりきていたのだ。自分が思っている以上に。
でも声音だけは気丈に元気に振舞って、「いいよ。仕方ないもんね。ゆっくり別れを惜しんできてね」と言った。
夏木はしきりとごめんな、を繰り返した。この埋め合わせは必ずするからと。
そして電話は切れた。
ある意味、喜ばしいことなのだ。夏木が自分との約束を後回しにすることは、それだけ信頼関係ができたということだ。それに、上官や部下とのつながりや、義理人情を大切にする人だということは、ずっと前から分かっていた。夏木のそういうところを好ましく思っていたのは確かだ。望は何度も胸の内、そう言い聞かせた。
聡子から借りた浴衣の柄を見ながらしばらく部屋でぼうっと座っていた。が、思い立ってえいと腰を上げた。
うちにじっと篭っていても、しかたがない。せっかくこんなにおしゃれしたのだ。浴衣なのだ。年に一度着るか着ないかの。一人だけど、出かけよう。
花火を見るんじゃなくても、どこか時間をつぶせるところへ。そう思って草履をつっかけ、街に出たのだったが――
「望、大丈夫か?」
すごい勢いで派出所に飛び込んできた夏木は、息せき切って走ってきたのに顔は蒼白だった。
取るものも取り合えず駆けつけてくれたことが分かり、その姿を見ただけで望は涙ぐみそうになった。
でも、必死にこみ上げるものをこらえ、
「大丈夫。ごめんなさい。飲んでたのに」
夏木さんの連絡先、言ってしまって、と小声になる。
「そんなのはいい。痴漢だって? 何された」
すごい剣幕で聞かれ、望は鼻白む。
それをとりなしたのは、老年の警官だった。制服がくたびれて見えるのは、年齢のせいか、それとも巨大駅の派出所勤務という激務のせいか。
携帯越しで聞いた声と同じ言い回しでまあまあと夏木をなだめる。
「こんなところで娘さんに繰り返させるのもなんですから。それは勘弁してやってくださいよ」
望はうつむいた。確かに、人前で彼女に屈辱的なことを言わせるところだったと、自分の配慮のなさに思い至り、夏木も口を噤んだ。
それから老警官はニ、三事務的なことを口にして、引き取りにきた夏木のフルネームと連絡先を用紙に記入した。痴漢の加害者に関して何か分かったことや進展があったら連絡すると言ったが、とても本気で捜査する気がないのは見え見えだった。
痴漢被害に充てる人員も時間も不足しているであろうことは、容易に想像がついた。現行犯ならともかく、取り逃がした犯人を捕獲できる可能性は限りなく低いに違いない。
夏木は望を促して派出所を出た。気詰まりで、何を話せばいいか分からなかった。望もショックが色濃いのかずっと無言だった。夏木の後ろを頼りない足取りでついてくる。
夏木は手をつなごうと彼女に右手を伸ばしかけたが、結局それもかなわなかった。
二人は言葉も交わさず、黙って駅構内を歩いた。
「何も言ってくれないんだね」
ややあって、望がぽつんと言ったのは、駅のホームで電車待ちしているときだった。
え? と振り向いた夏木に、平坦な声で望は続けた。
「浴衣……着てるのに、何もなし?」
「あ、ああ」
夏木は気を飲まれたみたいに言葉に迷う。
なんて言えば? 痴漢に遭って派出所で取調べを受けて、すっかり疲弊してうな垂れている恋人に、今更なんて声を掛ければいいんだ? 浴衣、似合うななんて間の抜けた台詞はとうてい口にはできない。
そもそも、今日自分が望との約束をキャンセルしないで、予定通り一緒に出かけていれば、こんな事態にはならなかったはずなのだ。今頃は楽しいひと時を迎えていられたに違いない。
そう思うだに自責の念に駆られる。
言葉に窮している夏木に、望は言った。
「夏木さんのためのおしゃれだったの」
あなたに見せるための、浴衣だったのよ。涙声で望が漏らす。
「お風呂に入って髪を結い上げて、聡子さんから浴衣を着付けてもらって。団扇まで借りて……ばかみたい」
あたしだけ、楽しみにしてた。
何ヶ月も前から。今日の花火大会デートを。
そこで、堪えかねたように望の頬を大粒の涙が滑り落ちた。
夏木は慌てた。
「ごめん。ほんとごめんな」
いまさら許してくれなんて虫が良すぎるけど。
それでも、
「俺のせいだ。ごめん」
平謝り。
望は「痴漢は夏木さんのせいじゃない」と冷静に返す。
「そうかもしれないけど、でも、そんな卑劣なやつに好きにさせたのは俺のせいだ。俺が一緒にいなかったから」
「好きになんかさせない。あたしを、誰だと思ってるの」
これでも自衛官のはしくれよ、と言葉にプライドを覗かせる。
「悔しいのはあいつを取り逃がしたことよ。ひどいの。電車に乗ってた人たち、痴漢です、逃がさないでってあたしが叫んだのに、全然無視っていうか、我関せずって感じで」
そのときの事を思い出したか、俄かに語尾がぶれた。
感情が高ぶる。望の傷が、見えた気がした。
痴漢被害にももちろんショックを受けているが、それ以上に彼女が傷ついているのは周りの反応だ、きっと。
正義感の強い望なだけに、車内の無関心はさぞかし堪えたことだろう。夏木はかえすがえす自分がその場で彼女を守ってやれなかったことを悔いた。
「許してほしい。望、俺が悪かった。お前が許してくれるなら、これからでも今日お前のしたかったこと、全部かなえるから」
だから、泣かないで。
不器用な夏木が、言葉を選び選び謝罪する。
そのたどたどしさが、却って望の涙腺を緩くした。
「もう花火大会、終わっちゃいましたよ」
「知ってる。すまん」
「今夜の夏木さん、謝ってばっかり」
「……申し訳ない」
「ほら」
くすりと笑みをこぼして指摘すると、夏木はばつがわるそうに望を掬い見た。
「だってだな」
「全部してくれるの、今夜」
ふと声音が変った。夏木が顔を上げる。
まっすぐに望が自分を見ている。それは、今夜初めてのことだった。
やっと俺を見た。夏木はほっとした。だから頷いた。
「ああ、望みどおり」
そう言って、望という名前と被っていると気づき、夏木は困った顔を見せた。
それがおかしくてくすくす望は笑った。
「一緒に花火を見たかった。ナイアガラとかうんと派手なやつ。それから屋台でアイスとか買って交換して食べたり、団扇の陰で隠れて夏木さんとキスとかしたかったの」
言っているうちに、感極まってきたのか、また声がぶれる。今日は感情曲線がおおきく波打って定まらないらしい。無理もない。
「いいよ」
隠れてしなくても、ここでしよう。
そう言って夏木は少しかがんで望の唇を掠めた。
ホームに電車が滑り込んでくる。乗り込む客に紛れて、夏木は望にくちづけ。
望は身を硬くした。夏木も彼女も公衆の面前でキスするのは生まれて初めてだった。
望は目を閉じることもできなかった。あんまり驚いて。駅員の独特の言い回しのアナウンスが流れるが、ずうっと遠くに聞こえる。
夏木がゆっくりと唇を離すと、音が、世界が戻ってきた。
呼吸ができるようになる。胸のどきどきは、まだ耳の真裏からする。
「……びっくり、した」
電車に乗ってから、望が呟いた。
一緒のドアから乗った客が、自分たちのことをじろじろ見ている気がした。今更のように照れくささが襲ってくる。
「俺も。こんなことするなんて自分でも信じられん」
自失呆然とした口調。本当に夏木が自分で自分の行為を驚いている風だったので、思わず望は笑った。
「夏木さんたら」
「すまん。我慢できなかった」
夏木はそう言ってぎゅっと両手で望の手を握った。割と加減せずそうしたので、痛いくらいだった。
でも望は手を引かなかった。痛みが、夏木の想いが嬉しかった。
「……うん」
「ほんとごめん。今日一人にして。嫌な思いを、させた」
「……」
夏木さんのせいじゃない。そう言おうとして、口を開くとまた泣いてしまいそうだったので、望はただ頷いた。
「痴漢とかに遭わせてごめん。警察から電話、もらったとき、心臓、止まるかと思った」
「……ん」
「俺だけだ。お前に触っていいの。他のやつには二度とさせない」
夏木は誓うように言って、望の身体を抱き寄せた。ぎゅっと。
満員電車でもないのに、こんなことしたらまた悪目立ちしてしまう。胸に顔を押し当てられ、夏木の心臓の鼓動をポロシャツ越しに聞きながら、それでも望は幸福だった。
夏木の鼓動は早鐘のようだ。人前でこうすることで緊張しているというより、まだ動揺しているのだと分かった。警察からの連絡がよっぽどこたえたのだ。痴漢に遭ったことを、まだ引きずっているのだ。
きっと、あたし以上に。
そう思うと、不意に愛しさがこみ上げた。
望はあごを持ち上げ、夏木さんと呼んだ。間近で目と目が出会う。自然と唇が重なり合う。
夏木は情熱的に望をむさぼり、望もそれに応える。
二人は長い長いくちづけを交わした。
夜の電車内、乗客の好奇と非難の目を浴びながら、バカップルモード全開で、公開キスを繰り広げた。
ええい、見るなら見ろ。常識知らずと嗤わば嗤え。
こんな風にしか今日は彼女の傷を癒せない。こうすることでしか、望を守れないんだ。
望は夏木の背中のシャツをきゅっと握り締めた。まるで何かをこらえるかのように。
その皺さえも切なく夏木を揺さぶる。たっぷり舌まで使って激しく求めながら、夏木はくたりとくず折れそうになる望の身体を支え、いつまでもキスを引き伸ばした。
(つづきは冊子で)
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夏木は全速力で走った。
訓練でも実戦でもこうはスピードは出ないだろうというほど、マッハで人でごった返す構内を駆け抜ける。若干アルコールは入っていたが、電話を受けた途端、吹っ飛んだ。
――もしもし。そちら夏木さんの携帯ですか。
聞きなれないオッサンの声に、夏木は顔をしかめた。
――そうですけど、なんですか。どちらさま?
――えーとですね。こちらは○○駅構内にある××警察の派出所ですが。
警察。派出所。
それらの語句が意味を持って夏木の耳たぶを打つ。にわかに背筋が伸びる。
――警察、ですか。
――はい、あのですね。今こちらに森生望サンという方がおられるんですが。
望の名前が出てざあっと体内のアルコールが引く。
携帯をぎゅっと握りなおして、夏木は訊いた。
――望がどうかしたんですか。まさか事故でも?
――いえいえいえそういうんじゃなくてですね。あの、落ち着いて聞いてほしいんですが、実は被害に遭いまして。電車内なんですけど、その。痴漢被害ですわ。
――痴漢、被害?
夏木の血が逆流した。がたんと音を立てて席を立つ。
周りで飲んでいた同僚が、どした? なんだ、急用か夏木と声を掛けるも無視。
夏木は宴会場から人気のない廊下に出た。心臓が嫌な具合に鼓動を刻んでいる。
「望が痴漢に遭ったんですか、どこで? 彼女は無事なんですか」
つい詰問調になる。相手は、手元に資料を引き寄せながら説明しているように棒読みで経緯を口にした。
「ええと、なんでも下りの電車で被害に遭ったらしいのですが、残念ながら相手を取り逃がしまして。目撃者も居たのですがね。森生さんが騒いで、車内が騒然となったところで、どさくさに紛れて次の停車駅で降りてしまったようで。車掌が事情を聞いてここに連れて来たんですわ。で、いまは大分落ち着いて、連絡先に夏木さん? あなたの電話番号を言ったものですから。こうしてご連絡差し上げているというわけなんですが」
これからこちらに迎えに来てもらえますかね。やはり事情が事情だけに、興奮していらっしゃるみたいで。事務的に言った相手に、夏木は、「すぐ行きます」と即答した。
何を措いても行く。夏木は望が心配でならなかった。
自衛官ということを差し引いても、あの土壇場になると驚くほど肝が据わっている望が興奮しているなんて、尋常ではない。警官の言葉どおりなら、今は大分落ち着いたということだが、裏を返せばさっきまではかなり動揺していたということだ。あの望が。そう思うといてもたっても居られなかった。
通話を終え、携帯を懐にしまう。その手に汗がじっとりと滲んでいた。
上司に手短かに理由を話し、中座を詫びて夏木は宴会場から飛び出した。
猛ダッシュで。
今夜は花火大会だった。年に一度の。
夏木が珍しく大会当日オフで、陸にいると分かったものだから、望はずっと前からその夜の約束を取り決めて、一緒に出かける算段を組んでいた。
聡子から浴衣を借りて、草履を用意して、
おしゃれなかんざしを見繕って、
団扇なんかも用意して。
ぶら提げて持っていくきんちゃくも、浴衣の色に合わせた。
和装だから、派手じゃないペディキュアを塗って、身だしなみもOK。
うきうきと支度する、その時間さえもが愛おしかった。
それは全て、夏木との花火大会デートのため。
そのためだったのに。
「すまん、望。急に退職が決まった上司の送別会が入ったんで、今夜行けそうにない」
駅で待ち合わせの数時間前という土壇場になってキャンセルの電話が夏木から入る。
予想外のドタキャンで、望の頭の中が真っ白になった。
数秒、声を失っていると、「ごめんな。急病で、治療に専念するってんで勇退することになって。若い頃からお世話になった、大事な上官なんだ。だから」と弁解モード。
望は携帯を握りなおした。顔を上げる。
それで、俯いていたことに気づく。がっくりきていたのだ。自分が思っている以上に。
でも声音だけは気丈に元気に振舞って、「いいよ。仕方ないもんね。ゆっくり別れを惜しんできてね」と言った。
夏木はしきりとごめんな、を繰り返した。この埋め合わせは必ずするからと。
そして電話は切れた。
ある意味、喜ばしいことなのだ。夏木が自分との約束を後回しにすることは、それだけ信頼関係ができたということだ。それに、上官や部下とのつながりや、義理人情を大切にする人だということは、ずっと前から分かっていた。夏木のそういうところを好ましく思っていたのは確かだ。望は何度も胸の内、そう言い聞かせた。
聡子から借りた浴衣の柄を見ながらしばらく部屋でぼうっと座っていた。が、思い立ってえいと腰を上げた。
うちにじっと篭っていても、しかたがない。せっかくこんなにおしゃれしたのだ。浴衣なのだ。年に一度着るか着ないかの。一人だけど、出かけよう。
花火を見るんじゃなくても、どこか時間をつぶせるところへ。そう思って草履をつっかけ、街に出たのだったが――
「望、大丈夫か?」
すごい勢いで派出所に飛び込んできた夏木は、息せき切って走ってきたのに顔は蒼白だった。
取るものも取り合えず駆けつけてくれたことが分かり、その姿を見ただけで望は涙ぐみそうになった。
でも、必死にこみ上げるものをこらえ、
「大丈夫。ごめんなさい。飲んでたのに」
夏木さんの連絡先、言ってしまって、と小声になる。
「そんなのはいい。痴漢だって? 何された」
すごい剣幕で聞かれ、望は鼻白む。
それをとりなしたのは、老年の警官だった。制服がくたびれて見えるのは、年齢のせいか、それとも巨大駅の派出所勤務という激務のせいか。
携帯越しで聞いた声と同じ言い回しでまあまあと夏木をなだめる。
「こんなところで娘さんに繰り返させるのもなんですから。それは勘弁してやってくださいよ」
望はうつむいた。確かに、人前で彼女に屈辱的なことを言わせるところだったと、自分の配慮のなさに思い至り、夏木も口を噤んだ。
それから老警官はニ、三事務的なことを口にして、引き取りにきた夏木のフルネームと連絡先を用紙に記入した。痴漢の加害者に関して何か分かったことや進展があったら連絡すると言ったが、とても本気で捜査する気がないのは見え見えだった。
痴漢被害に充てる人員も時間も不足しているであろうことは、容易に想像がついた。現行犯ならともかく、取り逃がした犯人を捕獲できる可能性は限りなく低いに違いない。
夏木は望を促して派出所を出た。気詰まりで、何を話せばいいか分からなかった。望もショックが色濃いのかずっと無言だった。夏木の後ろを頼りない足取りでついてくる。
夏木は手をつなごうと彼女に右手を伸ばしかけたが、結局それもかなわなかった。
二人は言葉も交わさず、黙って駅構内を歩いた。
「何も言ってくれないんだね」
ややあって、望がぽつんと言ったのは、駅のホームで電車待ちしているときだった。
え? と振り向いた夏木に、平坦な声で望は続けた。
「浴衣……着てるのに、何もなし?」
「あ、ああ」
夏木は気を飲まれたみたいに言葉に迷う。
なんて言えば? 痴漢に遭って派出所で取調べを受けて、すっかり疲弊してうな垂れている恋人に、今更なんて声を掛ければいいんだ? 浴衣、似合うななんて間の抜けた台詞はとうてい口にはできない。
そもそも、今日自分が望との約束をキャンセルしないで、予定通り一緒に出かけていれば、こんな事態にはならなかったはずなのだ。今頃は楽しいひと時を迎えていられたに違いない。
そう思うだに自責の念に駆られる。
言葉に窮している夏木に、望は言った。
「夏木さんのためのおしゃれだったの」
あなたに見せるための、浴衣だったのよ。涙声で望が漏らす。
「お風呂に入って髪を結い上げて、聡子さんから浴衣を着付けてもらって。団扇まで借りて……ばかみたい」
あたしだけ、楽しみにしてた。
何ヶ月も前から。今日の花火大会デートを。
そこで、堪えかねたように望の頬を大粒の涙が滑り落ちた。
夏木は慌てた。
「ごめん。ほんとごめんな」
いまさら許してくれなんて虫が良すぎるけど。
それでも、
「俺のせいだ。ごめん」
平謝り。
望は「痴漢は夏木さんのせいじゃない」と冷静に返す。
「そうかもしれないけど、でも、そんな卑劣なやつに好きにさせたのは俺のせいだ。俺が一緒にいなかったから」
「好きになんかさせない。あたしを、誰だと思ってるの」
これでも自衛官のはしくれよ、と言葉にプライドを覗かせる。
「悔しいのはあいつを取り逃がしたことよ。ひどいの。電車に乗ってた人たち、痴漢です、逃がさないでってあたしが叫んだのに、全然無視っていうか、我関せずって感じで」
そのときの事を思い出したか、俄かに語尾がぶれた。
感情が高ぶる。望の傷が、見えた気がした。
痴漢被害にももちろんショックを受けているが、それ以上に彼女が傷ついているのは周りの反応だ、きっと。
正義感の強い望なだけに、車内の無関心はさぞかし堪えたことだろう。夏木はかえすがえす自分がその場で彼女を守ってやれなかったことを悔いた。
「許してほしい。望、俺が悪かった。お前が許してくれるなら、これからでも今日お前のしたかったこと、全部かなえるから」
だから、泣かないで。
不器用な夏木が、言葉を選び選び謝罪する。
そのたどたどしさが、却って望の涙腺を緩くした。
「もう花火大会、終わっちゃいましたよ」
「知ってる。すまん」
「今夜の夏木さん、謝ってばっかり」
「……申し訳ない」
「ほら」
くすりと笑みをこぼして指摘すると、夏木はばつがわるそうに望を掬い見た。
「だってだな」
「全部してくれるの、今夜」
ふと声音が変った。夏木が顔を上げる。
まっすぐに望が自分を見ている。それは、今夜初めてのことだった。
やっと俺を見た。夏木はほっとした。だから頷いた。
「ああ、望みどおり」
そう言って、望という名前と被っていると気づき、夏木は困った顔を見せた。
それがおかしくてくすくす望は笑った。
「一緒に花火を見たかった。ナイアガラとかうんと派手なやつ。それから屋台でアイスとか買って交換して食べたり、団扇の陰で隠れて夏木さんとキスとかしたかったの」
言っているうちに、感極まってきたのか、また声がぶれる。今日は感情曲線がおおきく波打って定まらないらしい。無理もない。
「いいよ」
隠れてしなくても、ここでしよう。
そう言って夏木は少しかがんで望の唇を掠めた。
ホームに電車が滑り込んでくる。乗り込む客に紛れて、夏木は望にくちづけ。
望は身を硬くした。夏木も彼女も公衆の面前でキスするのは生まれて初めてだった。
望は目を閉じることもできなかった。あんまり驚いて。駅員の独特の言い回しのアナウンスが流れるが、ずうっと遠くに聞こえる。
夏木がゆっくりと唇を離すと、音が、世界が戻ってきた。
呼吸ができるようになる。胸のどきどきは、まだ耳の真裏からする。
「……びっくり、した」
電車に乗ってから、望が呟いた。
一緒のドアから乗った客が、自分たちのことをじろじろ見ている気がした。今更のように照れくささが襲ってくる。
「俺も。こんなことするなんて自分でも信じられん」
自失呆然とした口調。本当に夏木が自分で自分の行為を驚いている風だったので、思わず望は笑った。
「夏木さんたら」
「すまん。我慢できなかった」
夏木はそう言ってぎゅっと両手で望の手を握った。割と加減せずそうしたので、痛いくらいだった。
でも望は手を引かなかった。痛みが、夏木の想いが嬉しかった。
「……うん」
「ほんとごめん。今日一人にして。嫌な思いを、させた」
「……」
夏木さんのせいじゃない。そう言おうとして、口を開くとまた泣いてしまいそうだったので、望はただ頷いた。
「痴漢とかに遭わせてごめん。警察から電話、もらったとき、心臓、止まるかと思った」
「……ん」
「俺だけだ。お前に触っていいの。他のやつには二度とさせない」
夏木は誓うように言って、望の身体を抱き寄せた。ぎゅっと。
満員電車でもないのに、こんなことしたらまた悪目立ちしてしまう。胸に顔を押し当てられ、夏木の心臓の鼓動をポロシャツ越しに聞きながら、それでも望は幸福だった。
夏木の鼓動は早鐘のようだ。人前でこうすることで緊張しているというより、まだ動揺しているのだと分かった。警察からの連絡がよっぽどこたえたのだ。痴漢に遭ったことを、まだ引きずっているのだ。
きっと、あたし以上に。
そう思うと、不意に愛しさがこみ上げた。
望はあごを持ち上げ、夏木さんと呼んだ。間近で目と目が出会う。自然と唇が重なり合う。
夏木は情熱的に望をむさぼり、望もそれに応える。
二人は長い長いくちづけを交わした。
夜の電車内、乗客の好奇と非難の目を浴びながら、バカップルモード全開で、公開キスを繰り広げた。
ええい、見るなら見ろ。常識知らずと嗤わば嗤え。
こんな風にしか今日は彼女の傷を癒せない。こうすることでしか、望を守れないんだ。
望は夏木の背中のシャツをきゅっと握り締めた。まるで何かをこらえるかのように。
その皺さえも切なく夏木を揺さぶる。たっぷり舌まで使って激しく求めながら、夏木はくたりとくず折れそうになる望の身体を支え、いつまでもキスを引き伸ばした。
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