【中編】へ
翌日。就業時間が明けても、柴崎はなかなか思うように手塚を捕まえられないでいた。
先に帰って寮で待っていようかと思ったが、どうしてもその気になれず、行方を捜していると、やつならグランドを走ってる筈だとタスクフォースのメンバーが教えてくれた。
訓練の後に、まだ走ってるの。と、その体育会系ぶりを内心呆れないでもなかったが、黙々と人気のないトラックを走る手塚を見つけたら、彼がなぜそんな風に身体を酷使しているのか分かった気がした。居たたまれない気持ちになる。
柴崎はなるべく足音を立てないように、グランドの敷地に入っていった。
走っている最中、近づく自分に気がついたはずなのに、手塚は柴崎を無視してペースを全く落とさなかった。
そのことに、不思議なくらい傷つく。
手塚のものと思しきタオルやジャージの上が無造作に置かれている、バックネットの芝のところまで来て、柴崎は立ち止まった。
15分ほどして走るのを切り上げ、汗みずくの手塚がトラックから離れてこちらに歩いてきた。
肩で息をしている。
声をかけるタイミングを逸する。
口の中、舌が膨張して、上手く言葉を発せられない。
手塚は相変わらず柴崎が見えていないかのような、見事な無視っぷりだ。
芝の上にどかりと腰を下ろし、タオルで汗を拭く。
スポーツ飲料のボトルを傾け、ごくごくと水分を補給した。
「手塚、」
自分を完全に拒絶している肩に、思い切って声をかける。
でもそのラインは微塵も揺るがず。自分に目もくれようとしない。
挫けそうだ。でも、あたしは謝らなきゃならない、この男に。
だって、昨日は酷いこと言った。最低最悪の台詞で傷つけた。
「昨日は悪かったわ。――ごめん」
柴崎は彼女にしては珍しいことだが、ストレートに謝罪する。
頭を下げた。
でもそれ以上言い募らない。弁解もしない。
ただ、謝罪の気持ちが伝わって欲しい。それだけを願った。
――ねえ。手塚のキスマークってさ、こんなのじゃなかった?
昨夜、郁がパジャマの袷を開いて柴崎に鎖骨の辺りを見せた。すると、そこには数時間前電車で目撃したものと殆ど同じ形状、色のアザが刻まれているではないか。
柴崎が目を剥く。まさか、笠原まで、と。
郁は違う違うって! と柴崎の顔に浮かんだ疑惑を目の前で手を振り払って、
これってキスマークじゃないよ。組み手のときついた痣だって。と説明した。
なんでも、昨日訓練でひさびさに柔道をやったらしい。そこで、郁は手塚とペアを組んだのだそうだ。
あいつってばあれだけ体格差があるのに、まともにあたしを投げにきてさあ。あたしもアッタマきてやつの襟獲って締め上げてやったのよ。こう、両手でぎりぎりとね。
そのときについたんだよ、多分。柔道のとき、結構首周りに痣ができるんだ。訓練ていっても、それだけ真剣勝負ってことなんだけどね。
だからきっとそれ、キスマークじゃないよ。
大体、手塚だよ? そんな色っぽいしるし、つけたまま堂々と歩くだけの度胸ないでしょ。
郁はそう言ってけらけらと笑い飛ばした。
昼間っから引きずりまくりの、柴崎の憤懣も、疑惑も、みんな。何もかも。
郁のことを案外大人だな、と思うのは、その後キスマークに拘っていた自分をからかわないことだ。
もしかしたら、この友人は何かを勘付いているのかも知れないと思う。
自分と手塚の間の、微妙な空気に。だからわざと茶々を入れるのを控えてくれているのではないか。
身近な友人に、そんな配慮をさせるだけ、バレバレな自分だったら情報部候補生として終わってる。
忸怩たる思いが心の底にわだかまったが、今はそっちよりも優先すべきことがあった。
本当は、昨夜のうちに謝りたかった。郁に誤解を解いてもらったときから、できれば電話して呼び出して、ごめんと伝えたかった。
でも、――呼び出す勇気が、どうしても出なかった。
結局、日にちを、跨いだ。
手塚はそこで初めて柴崎を見た。
座った位置から仰がれ、柴崎はうろたえる。あまりこうしてこの男に見上げられるのに慣れていない。
いつも、上から見守られていたのだと気づく。決して押し付けがましくないまなざしで。
手塚は口を動かし、何かを言おうとして、思いとどまった。
そして別の言葉を用意したように、
「頼むよ、俺で遊ぶな」
とだけ言った。疲れたようにため息をつく。
遊ばれていると認識しているのか、と気づかされ、嘘みたいだが柴崎が傷つく。
「天国と地獄を行ったりきたりさせるな。一日のうちで。いい匂いさせてくっついてきたかと思ったら、いきなり不機嫌になって怒ったり。……参る」
「……」
ごめん。もう一度言おうとして、どうしても言葉にならない。
口を開いたら、別のものがあふれ出てしまいそうだった。
手塚はそれを察したのだろう、ふいと目を逸らした。
「お前はずるい。女の武器をここで使うな」
「……使ってない」
「使おうとしてる」
「絶対使わない」
「じゃあ堪えろよ」
泣くなと暗に言われて、柴崎が口を引き結ぶ。
手塚は首にタオルを引っ掛けておもむろに立ち上がった。あのな、と向き直る。
「お前は俺のことたった三回キスした男ぐらいにしか思ってないんだろうけどな、俺にとっちゃお前は三回【も】キスした女だ。忘れるなよ」
怒ったように早口で捲くしたてる。
柴崎の瞳が揺らぐ。
――たったって、何よ。
ばか。あんたって、ほんっと馬鹿。
あたしにだってあの三回は、特別な回数よ。決して【たった】で片付けられるもんじゃないわ。
何よ、あんたなんて、何もあたしのこと分かっちゃいないくせに。
そう言おうとして、どうしても言葉にならない。
ややあって、黙って正面に立っていた手塚が、……これであいこな、と呟いて、柴崎の背中に腕を回した。
夕闇が迫る薄紫のグラウンドの片隅で。
芝の柔らかい感触を靴の下に感じながら。
柴崎はそうっと手塚に抱き締められた。
「……」
驚いて息を呑む。
と、手塚が更に手に力を込めて、「汗臭いだろ、俺」と言う。いっそすがすがしいほどの声で。
「昨日のお返しだ。においは少し我慢しろ」
言われてみれば、確かに湿ったTシャツからはうっすら汗の匂いがする。でも全く気にならない。
全然嫌じゃないわ、手塚。
腕の中に柴崎を閉じ込めたまま、彼は訊いた。
「お前、俺に何を言おうとしたんだ、あのとき。何か言いかけただろ」
……そうだ。
あたしは、あんたに電車の中で何を言おうとしてたんだっけ――
衆人の前で、白昼構わず抱きついて。あたしがあんたに伝えたかったのは、何?
「……言っても怒らない?」
恐る恐る訊くと、Tシャツ越しに伝わる手塚の鼓動がわずかに速まった気がした。
「たぶん。――もう十分怒った」
「実は、忘れちゃったの。昨日のいざこざで」
手塚は思わず身を離す。疑いの目で掬い上げるように見た。
「嘘つけ」
「嘘じゃないって。ほんとよ。すかっと抜けちゃった」
「お前なぁ……」
返す言葉もない、とでも言うように手塚は空を仰いだ。柴崎の肩に手は置いたまま。
そして何を思ったか、また引き寄せて柴崎の白い首筋に歯を立てた。
「きゃっ!?」
反射で身を竦める。甘噛み程度の強さだったが、柴崎を混乱させるには十分で。
手塚は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「な、な、なにすんのよ……ッ」
頭が沸騰する。耳まで真っ赤になって柴崎が首を押さえる。それを面白そうに横目で眺めながら手塚が足元のジャージやスポーツバッグを拾い上げた。
「おかえしだ。――それでも大分加減したんだぞ。俺なんかな、くっきり歯型ついて、隠すので大変だったんだからな、一日」
そう言われては柴崎は後ろめたくて黙るしかない。業腹なのに、何も言い返せない。ぐぐぐ、と柴崎は喉の奥で低く唸った。
「さ、行こうぜ」
肩にジャージの上着を引っ掛けて、まとわりついた草を払いつつ手塚は歩き出す。
「え、どこへ?」
「決まってるだろ。呑みにいくんだよ。いっぱい走ったから冷えたビールがいい」
今夜はお前持ちな。そう言ってすたすたと先を行く。
待ってよ、と柴崎が後を追う。
「あたし持ちって、今回ばかりは異論はないけど、それでも10-0はないんじゃないの?」
「じゃあ、8-2で」
「7-3は?」
「乗った」
肩越しに手塚は笑みを見せる。
その歩調が、いつもの柴崎のペースに合わせる速さに戻り、そのことに彼女はほっとした。
薄暮の西の空を背負い、二人は並んで歩いていく。久しぶりの喧嘩と仲直りの後の足取りは、夢の中を行くように甘く。
柴崎が手塚の横顔を見上げ、手をつなぎたいな、とふと思ったのは、このときが初めてだった。
実際に二人が手をつないで出かける関係になるのは、もう少し、いやかなり先のことになる。
fin.
(あとがき)
ヤキモチ焼く柴崎が見たい。
お返しと言って、ちゃっかりしかえしするいけずな手塚も。
という観点から書いた話です。いつも甘くてすいません。
こういうことしあってるのに、それでもなお「付き合ってはいない」というバランス感覚。ある意味すごいと思います。
↓もしもこの話を気に入ってくださったなら、ひと押しくださるとこの上ない喜びです。
web拍手を送る
彼らにとってはそれが「つきあっている」にならないとこがすごいです。
背中を向けられるって、すごい怖いことだと思いますが、そこからここだと、ひざ、笑いそうでしょうね。
楽しい呑み会に、乾杯です。
上質なお話をありがとうございました
この手塚と柴崎は、エロも含めて、私の子育ての癒しです。
このお話を読むと、手塚が柴崎を待ってたのは、ヘタレなんじゃなくて、海のような包容力だったのかーと思います。
もうもう、色っぽいし!
手塚の汗は良い匂いのような気がするのは私だけでしょうか?
隊長あたりは酸味が強そうですが。
そして嫉妬に戸惑ったり、ドキドキしてる柴崎も可愛いですねー。
いやほんと、ご馳走様でした。美味しかった。
いつもいっつも拍手やコメント、ありがとうございます~ううう、どうやっても感謝のキモチに追いつかないわ。涙
抱き合ってかみ合ってるのに、まだ「同期」以上にならないって、いったい…な うちの二人ですが、どうか今後も生暖かく見守ってくださると嬉しいです。
>ケロママさん
はじめまして。安達と言います。
読破してくださるなんて、光栄ですv
駄文ばっか置いてあって、とてもお恥ずかしいのですが、少しでも癒しになると仰ってくれて嬉しいです。今後ともよしなに。
>utenaさん
手塚かっこいいですか! かっこよくかけてますか!よかったです!
しかし、もうちょいヘタレ要素欲しくないですか???ファンとしては!
汗とか噛みあととか、てすりを掴む腕とか、あれこれ伏線で男っぽさを盛り込んだので、きっと色気が伝わったのでは…嬉です。
そして、隊長うんぬんのツッコミに大笑いさせていただきました! うちの二人をいつも見守ってくださってありがとうございます。感謝。
とっても素敵ですっ
柴崎も手塚も大好きなので、とっても楽しめました。
きゅんきゅんしましたっ
応援してますっこれからもたくさん書いてくださいっ
もうもう、何でこういう呼吸困難におちいってしまいそうな、作品を!!
強いお酒をちょうだい!どころじゃなくて
壜ごとちょうだい! いいえ! 樽ごとよ!!
ってなります。
コメントは他の方もごらんになりますので
どうぞ感情の赴くまま書き残すのはおやめください。
はじめましてのご挨拶をとまでは申しませんが、何らかの前置きをいただければ管理人も当惑せずに済みますので。。。。
改めまして、はじめまして。お越しいただきありがとうございました。