「おかえりなさい」
「ただいま」
玄関まで出て、笑顔でかばんを受け取る。持参したエプロンを身に着けて。
もう何度もそうやって迎えているのに、高科はまだ絵里の出迎えに慣れない様子だった。重いですよ、とかばんを渡すときに絵里に声をかけるのも毎回のことだった。
「大丈夫。今日もお仕事お疲れさまです」
絵里は殊勝に言った。新妻らしい、その言葉を語る自分に一抹の照れくささを感じる。でも、高科をねぎらいたいと思う気持ちはまっすぐ伝えたいので、目を見て言うことにしている。
高科が、「ありがとう」とわずかに目を伏せた。磨きこまれた黒靴を脱いで上がり框に足をかける。
「ご飯、できてますよ。ビールも冷えてます」
絵里が押し付けがましくならないように気をつけながら言う。婚約者といえ、あくまでも自分は高科の不在中に、彼の部屋の台所を使わせてもらったという気持ちを忘れてはダメだと思っていた。
――先ごろ絵里と高科は正式に結納を交わした。
結婚式まであと三ヶ月と迫っている。
仕事を寿退社した絵里は、週末ごとに高科の許へといそいそと出向いては彼の官舎に「お泊り」していた。珍しく高科が「毎週来て欲しい」とわがままを言ったのだ。高科とずっといっしょにいられる日が一日でもあるのなら、新幹線で往復するのなんて苦にもならなかった。絵里は金曜日ごとに新幹線に飛び乗った。足代は全部高科がもってくれた。固辞しても、聞いてくれなかった。
絵里的には、気分はすでに高科の妻だ。でも、おおっぴらにそのように振舞うはなんだか浅ましい気がして自戒していた。
「ほんとだ。いい匂いですね」
メニューは筑前煮かな。そう呟いたのを聞いて目を丸くする。
「すごい、正解。さすがいい鼻してますね」
「俺は猟犬か何かですか。――でも嬉しいな。俺、筑前煮、好物なんですよ」
台所から漏れ流れてくる匂いに高科は目元をほころばせる。鼻を蠢かせているのが、ほんとに犬っぽいしぐさだと思った。
「知ってます。だから作ったんですよ」
「……すぐに食べたいけど。それより先に戴いてもいいですか?」
「え?」
かばんを抱えて、両手が塞がっている絵里に、高科は屈みこんだ。そして、キス。
「――ん」
かばんごと絵里を抱きしめて、高科は彼女の頭を自分の顎の下に挟み込む。
「一週間ぶり、ですね。会いたかったです」
どんな音楽もかなわない、大好きな高科の低音の声が耳元に置かれて、幸せすぎて絵里はそれだけで恍惚となる。胸がいっぱいで、こくこく頷くのがやっとだった。
「絵里、顔を見せて」
「……」
言われるままに高科を見上げると、すぐさま唇を塞がれる。今度は、さっきよりも長く情熱を引きずるキスとなった。
絵里の手から、かばんが滑り落ち、どさ、と足元で音がした。
高科は玄関の框で絵里を抱いた。婚約を交わし、互いの部屋を行き来するようになった二人にとって、それはもう珍しいことではなくなっていた。絵里は、ベッド以外の場所で愛し合うことの刺激と悦びを、高科と付き合うようになってから骨の髄まで知った。
身に着けていたエプロンを剥ぎ取られ、高科にボタンを外されながら絵里はようやく「会いたかった。高科さん」とこみ上げる想いを伝えることが出来た。
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