スタジオの天井に括りつけられたキャットウォークの留め金が外れた。作業員が声を上げる。
アルフィンがその真下にいて、俺は戦慄した。落ちる。ぶつかる。周りで悲鳴が上がる。俺は反射で床を蹴り、駆け寄った。
「アルフィン!」
突き飛ばすのと、手を引いて抱き込むのと、どっちが、と迷うのはコンマ数秒だったと思う。押す。と手を伸ばした俺の目の前に、黒い鉄骨が落下してきた。
遅かった。俺は叫んでいたと思う。倒れ込んだアルフィンが見えた。無我夢中で駆け寄る。鉄塊を飛び越えて。
仰向けに倒れている。その頭から額に掛けて血が流れていた。黒のドレス、白い面に、映えるようにーー。ざあっと音を立てて、血の気が引いた。
「アルフィン!」
心臓が冷や水を浴びせられたように一気に凍った。膝が、おかしなくらいがくがくと笑って力が入らなかった。
目が覚めると、そこは病室だった。オフホワイトの天井、白い壁、無機質な、消毒液の匂いがする空間。
そして、あたしを覗き込む顔に見覚えがあった。ーージョウ。
ジョウが枕元のスツールに腰かけ、怖いくらい青ざめて、あたしに見入っていた。眉が寄って、しわが深い。息を詰めている。その右手は、あたしの胸元に置かれていせいで少し、重かった。
ジョウの重み……。ほっとする。
「アルフィン……」
囁くように、彼は声を絞り出した。あたしは首をわずか動かして、ジョウを見やる。それから、
「ジョウ……」
と呼んだ。
その瞬間、彼の目が大きく見開かれ、瞳孔がぐらっと揺らいだ。激しい感情の揺さぶりが、その中で行われているのが見えた。そして泣きそうにくしゃっと顔が歪んだ。
ベッドに、あたしの上掛けに、屈み込む。安堵の余り緊張が切れたのだ。大きく息を吐いたのが、彼の肩の上下でわかった。
はあ、と彼は俯いたまま吐息を漏らした。「よかった。憶えてるんだな、俺のこと」と聞こえた。
「うん?」
「忘れてたらどうしようって思った。--こんな風だったんだな、こんなに怖いものなのか……自分が相手の記憶に残っていないって」
「ジョウ。あたし、どうしたの?」
彼の背に、手を回した。さすってあげていると、壁際であたしたちのことを見守っていたタロスとリッキーが一歩あたしのベッドに近寄った。そして、
「事故に遭ったんだよ。ほら、カレンダー撮影のスタジオでキャットウオークが落ちてきて。憶えてないか」
優しく、促す口調だった。あたしは、あ、とあの時の光景が脳裏にフラッシュバックするのが分かった。リッキーが「直撃は免れたんだけどさ。床に落ちた衝撃で部品が飛んじゃって、それが、かすったったんだよ。意識を失って、救急車でここに運ばれて。ーー傷、まだ痛むかい?」と自分の頭を指し示した。ここだよ、と言うように。
あたしは包帯が頭に巻かれているのにその時気付いた。額までぐるぐる巻きだ。そっと触れてみる。
「痛くはない、みたい。麻酔が効いてるのかしら、大丈夫よ」
そう言うと、二人はほっとした。良かった、と言うように目を見交わし、
「痕は残んねえそうですから心配しないでって、医者が言ってましたよ。まあ、数日は大事取って入院ですがね」
と、タロスは言った。それから、じゃああたしたちは外の廊下で待ってます、と病室を出ていく。あたしとジョウが部屋に取り残された。
いまだあたしの懐に額を寄せて身を起こそうとしないジョウの背を、とんと、とさすって「ジョウ」とあたしは呼んだ。
「……ん」
「泣いてるの?」
「泣いて、ない」
そこでむくっと上体を起こす。目は充血していたけれど、確かに泣いてない。
つい、笑ってしまう。ジョウの反応が幼くて――あまりに、若くて。
そう言ったら気を悪くするだろうなと思い、飲み込んだ。
「あたしの気持ちが分かった? ーーさっきあなたが、言ったこと」
「あーーああ。うん、まあ」
鼻の脇を指で掻いて、口ごもる。
「忘れられたの、ショックだったよ」
すらりと言えた。今だから言えるんだと思った。ジョウは身体のどこかが痛むみたいに、まるで怪我したのが自分みたいに目をすがめた。
「ーーごめん」
ストンとシーツに声を置くように彼は言った。落ちこんでいる。それを見たら、もうあたしに屈託はなかった。もういいや、とからりと思考が晴れるのがわかった。
「悪かった。君のことを忘れて」
自分のせいじゃないのに、ジョウは謝った。彼も、何の屈託もなくそう言っているのがわかった。
その言葉は、ベッドに横たわるあたしの身を満たした。じんわりと。
「……うん。許すわ。だから、もうこの話はなしね」
「え」
「ジョウ、仲直りしよう。ねえ、キスして」
お願い、と言うと、ジョウはあ、ああ……としどろもどろになって、やがて目元に笑みを浮かべた。今まで見た中で、一番優しい顔をしていた。
今までというのは、出会ってからこっち、という意味だ。故郷のピザンで叛乱が起こったのをきっかけに彼と出会い、身ひとつで船に密航した。あの時から見た中で一番、慈しみ深い笑顔を見せてジョウはあたしにまた屈み込む。
そうっと、壊れ物に触れるみたいに、頭の傷に障らないように彼はキスをくれた。
あたしは3日後退院した。
怪我の治癒の経過観察やら、検査やら、病院で出来ることは全部してもらって、お医者様のお墨付きをもらっての退院だった。
そして、あたしはジョウとーー
「あれ、なんかここに、ーーこのあたりに傷があるな。傷っていうか、皮膚が引き攣れてる感じのが」
洗面所、鏡の前、上体裸になって歯磨きをしているジョウがふと気づいたのか、腰をひねって背中を鏡に映している。下はスウェットを身に付けている。
あたしはベッドから降りて、彼の後ろに寄った。
確かに肩甲骨のあいだに火傷のように引き攣れ、皮膚が盛り上がっているところがある。こんな風にまじまじと見るのは久しぶりだ。
「今気づいたの? これはね、あなたが19の時に負ったブラスターの傷痕よ。背中から撃たれて、瀕死の重傷だったのよ。何度も皮膚移植して、大変だったんだから」
「ふうん。そうか」
気のない返事でうがいをし、歯磨きを終える。
「そうかって、あなたね。死ぬところだったのよ、分かってる?」
「分かるよ。俺って、結構九死に一生を得てるよな」
タオルで口元を拭ってから、ジョウはあたしを鏡越しに見た。視線が合う。
「なあに?」
「いや。俺が忘れても、君が憶えてるんならいいやーー君に聞けばと思ってさ」
冗談風でもなく真面目に言うから、あたしはどきっとした。
そうね、ジョウ。
あなたがなくした分の記憶は、あたしが持ってる。
知りたいなら教えて、訊かれたら答えればいい。それがあたしたちのスタンス。
それでいいのよねとあたしは頷く。ジョウの腰に抱きついた。後ろから。
「おっと」
あたしの定位置。あたしはジョウの背中の傷痕に口づけを刻む。そして、
「そう言えばこないだ、エギルさんからお見舞いとお詫びって、わざわざ<ミネルバ>まで贈り物が届いたのよ」
とくっついたままであたしは言った。
「え、知らないぞそれ。贈り物って?」
「ほら、あれってスタジオでの事故だったでしょ。撮影中の怪我だったから、責任者として申し訳なかったって思ったんじゃない? 嬢ちゃん、済まなかったなって、アラミスの病院にいた時も何度も足を運んでくれてたし」
「中身はなんだった?」
ジョウは尋ねた。
「それがねえ。あの撮影の時着ていた黒のドレスだったの。あれは事故で汚れて傷んだから、同じデザインの新品をまた取り寄せたから着てくれって」
ジョウは目を丸くした。
「そんな気の使い方ができるんだ。エギル、すごいな」
あんなに大ざっぱでがさつそうなのに、と。その言われようって……エギルさんてば。
「あのねえ、言ってたわよ。エギルさん。ジョウが、ドレス着たあたしに見とれてたって。ぼーとなってたから、よっぽど気に入ったんだなって。だからお詫びはそれにしたって言ってた」
ばらしちゃった。言おうかどうか迷ったけど、結局言っちゃった。
案の定、ジョウは真っ赤になった。
「あいつ……。余計なことを」
「返送する? お気遣いなくって」
「いや、それはいい」
食い気味に言うから、思わず吹き出してしまった。ジョウったら。
「ーーねえ、あのドレス、着ようか? あなたにもう一回見せたいな」
ジョウは、腰に回したあたしの手に手を重ねた。自分の。
「ぜひ。あのドレスを着た君はとてもきれいだ。見せてほしい」
「……」
「うん? 俺、また『元の俺』っぽくないことを口にしたか?」
気がかりそうに、ジョウが肩越しにあたしを見る。
「した。そういうこと、絶対口にしない人だったわ」
「ふうん、勿体ないな。すげえシャイだったんだな、昔の俺って……」
勿体ないって……そういう捉え方をするんだ。
新しい驚きだった。
「でも俺は言うぜ。俺はどうも、九死に一生を得るタイプみたいだから、いつなんどき、もしものことがあるか分からない。身に沁みてる。だから、伝えられるときに伝える。そう決めたんだ」
たとえそれが、君に引かれることになってもな。俺は言うぜとジョウは鏡の中でウインクをする。
--悩殺。
こっちの彼も、最高に好き。あたしは笑う。元も今もない。あたしはこの人だから好き。ジョウだから愛してる。
「ジョウ、もう一回抱いて。お願い」
あたしがおねだりをすると、ジョウは少し驚いたみたいに目を見開いた。後ろを振り返り、あたしの額にかかる前髪を手で掻き上げる。怪我を負ったところをじっくり検分する。
「傷はすっかり良くなったみたいだけれど……負担にならないか?」
「なるわけない。大丈夫」
平気と笑うと、ジョウは破願した。ひょいっとあたしを抱き上げて、ベッドに向かう。
あたしを忘れた彼とあたしは出会い直し、また恋に落ちた。たまに喧嘩をして必ず仲直りをして、ゆっくりとでも一歩ずつ、一緒に歩いていく。
これからもずっとーー
END
着地しました。迷走……しましたが。
少女漫画の王道みたいなお話を書きたかった、、、みたいです。
最後は、一夜を過ごしたちょっといいシティホテルの一室、と言う設定です。ジョウがスウェット姿ですが。ホテルです。笑
連載は、もう数年に一回波が来るかどうかですので、お読みになった方に少しでも楽しんでいただければ幸いです。
今日は3月9日、レミオロメンの名曲を聴きながら書きました。お付き合い有難うございました。