夏。
猛暑。海開き。夏休み。花火大会。せみの声。
青い空と白い雲。
そんな言葉を耳にするだけで、そわそわと心落ち着かない季節がやってきた。
体中の血液が滾るような、暑い夏。
今日も快晴。そして地元の町おこしの海祭り。スタッフとして掛水と多紀は休日出勤。
掛水が汗みずくになって海辺でテントを張っていると、浴衣にたすきがけをした多紀が現れた。息を切らせて浜辺に駆けつけ、
「遅くなりましたっ。すみません。準備に手間取りました」
ぺこりと頭を下げる。掛水は軍手で額の汗を拭い、目を細めた。
「かわいいにゃあ多紀ちゃん。浴衣似合うちゅうで」
年かさの同僚が笑う。他のスタッフも手を止めて口々に褒めた。
「ほんまに。自前なが? 支給もんやないでね」
「はい。私のがです。でも自分では着られんき、着付け、お母さんにやってもらいました」
照れくさそうに笑う。前髪を海風がなぶり、額が覗いてあどけない女の子みたいだった。
足元は下駄ではなくビーチサンダル。砂に足を取られないようにとの配慮だろう。
「すぐに手伝います。私は何をしたらえいですか」
「じゃあその長机の上布巾で拭きよってくれる? 砂払わんと」
「はい」
元気に返事をして踵を返す。
水道のところで屈む多紀の傍にさりげなく寄って掛水が耳打ちした。
「それ、罰金もんにゃあ」
「掛水さん」
背後から声を掛けられ、多紀が振り向いた。わずかに表情が曇っている。
「ごめんなさい。支度、手間取って」
「罰金は遅刻やない。それよ」
「え?」
「浴衣姿。可愛すぎ」
言い残し、片目を閉じて持ち場に戻る。
多紀が真っ赤になった。
袂で口を覆い、他の者に顔を見られないようにする。
どきどきが喉許までせりあがってきそうだった。
――掛水さんこそ罰金です。
こんなところで、昼間っからそんな甘いこと囁かんでください。
仕事に支障が出ますき。
でも、その一言が聞きたくて、ずっと前から浴衣の準備をしていた。似合うかんざしを選んだり、新しい帯を探したり。
掛水さんに、見てもらいたくて。
うなじに浮いた汗がじりりと焼かれる。多紀は照りつける日差しを仰ぐ振りで彼を探した。
男の人たちと一緒にテントの支柱を立ち上げる掛水の姿が向こうに見える。海の青に、白いTシャツがくっきりと映えている。
何か軽口を叩かれたのか、笑みを浮かべた。滴る汗を、Tシャツの裾でざっくりと拭う。
肌が一瞬だけ露出して胸元が見え、多紀の心臓が鳴る。健康的だけど、ひどく艶かしく映り慌てて目を逸らした。
今日も暑い一日になりそうだった。
「このクソ暑い中、休日返上で仕事とは、公務員はえらいにゃあ」
聞きなれた声が背後からして、振り返った掛水は、「わ」と目を眇めた。
「なんだよ。その反応」
腕組みして憮然としているのは、やはり吉門。いつもの彼らしくなく、黒のタンクトップにカーキのカーゴパンツ、足元は素足にクロックスというひどくラフな出で立ちだった。
もっともここは海なので、そういう格好でないと逆におかしいといえばおかしいが。
「何ちゃあないです。ただ、急に出てきたき、びっくりして」
「俺はお化けかなんかか」
襷を巻いて腕を見せ、ビニールプールに水風船を何個も浮かべていた多紀が笑顔を見せる。
「こんにちは。吉門さん」
「こんにちは多紀ちゃん。浴衣、よう似合うちゅうで」
さらりと褒めて、視線で掛水を掬う。
含みを感じて掛水は居心地悪さを覚えた。
なんで。その、意味深な目つきは。
まるで下心を見透かされたようで、気に入らない。
「ありがとうございます。あっちのテントで焼きそば配りよりますき、後で来てくださいね。おとりおき、しちょきます」
多紀はそんな男同士のやりとりなど全く気づかない様子で無邪気に言った。
「サンキュー。でも、こういう町単位の海祭りのサポートもやるがや。県庁って」
「今日のがはボランティアみたいなもんです。知り合いがこっちのスタッフで」
そう答えると、ああ、と納得したように吉門は頷いた。
「今日は、佐和さんは?」
民宿だろうか。そう思いつつ掛水は訊いた。吉門ひとりで海にくり出すとはとても思えなかった。この男は小説家という職種のせいか、都会の街のイメージが強い。朝がすこぶる弱そうで、夜行性。つまり、今日のように青空の広がる真昼の海辺には全く似つかわしくない風情なのだ。
だからきっと夫婦で来ているんだろう。その読みは当たった。
「あいつ? あいつはあっち」
吉門は親指を立てて海を指す。ぐいと。なぜかぞんざいに。
「あっち?」
二人は紺碧の海に目を向けた。
吉門の示す先、遊泳区域のずっと奥には、ジェットスキーを巧みに操る白いビキニの女性の姿があった。
「あれは……」
掛水は手をかざして日を遮り、目を凝らした。プロ級の腕前だ。いるかが波間を飛び跳ねるようにスキーを自在に駆っている。そして乗り手は驚くほどスタイルもいい。
遠かったが、それは紛れもなく佐和だった。掛水と多紀は目を瞠った。
(中略)
いっぽうこちらは祭りのあとの海。
もう日暮れも近い。祭り客で賑わっていた海辺も、今はもう撤収しようかと機材類を片し始めたジェットスキーヤーたちの姿しかない。
レンタルのスキーを返却してきた佐和に向かって吉門が言う。むっつりと。
「満足か?」
「うん。久しぶりにこんなに遊んだ。父さんに感謝せんと」
一日、二人でゆっくりして来い。民宿のほうは助っ人呼んだき、心配せんでえい。そう言って今日、朝から休みをくれた。
誕生日のプレゼントみたいと佐和は喜んだ。海に行こう海、と誘った。マリンスポーツを一切やらない吉門だったが、他でもない佐和のおねだりには逆らえない。うんと言うしかなかった。
もちろん、海は好きだ。海で遊ぶ佐和を見ているのも好きだ。
だが、水着姿を惜しげもなく晒して海辺の男たちの視線を集める佐和を見守るのは、正直夫として複雑なところだっだ。
「お前、さっき掛水にやらしい目で見られよったぞ」
「ふうん?」
佐和は遊び疲れたのか、吉門の声音にまで気が回らない。
「気にならんが」
「別に。見たけりゃ見ればええし。減るもんでなし」
海で水着は普通やき。そうしてタオルで濡れた髪を拭き取る。
確かにご説ごもっともだが、吉門としてはその一言で片付けられてしまってはなんだか面白くない。昔から佐和は自分の美貌に無頓着というかあまり構わないところがあった。それが彼女の長所でもあるのだが、妹ではなく一人の女として見るようになってからはときとして吉角の不安要素にもなっていた。
無防備すぎる。
沈黙を違った意味に解釈したのか、佐和が振り向いた。
「なに、喬。掛水にも嫉妬しゆうが?」
意外そうに目を見開く。
図星ではないがあながち外れてもいなかったので、
「悪いかや」
と返す。
「悪いゆうわけやないがやけど……」
「なんで」
含み笑いをしている佐和。
「ううん。なんや、子供みたいやなぁ、喬」
昔は全然あたしのことなんか眼中にもないっちゅう顔しちょった。なのに、
「今のほうが子供っぽい。あたしはもうとうに喬兄の奥さんやに」
くすっと横顔で笑う。それは幸せそうに。
「どうせ」
面白くなさそうに砂を雑に払って吉門は立ち上がる。
佐和の手を掴んで海の家のほうに歩き出す。
「喬?」
「ちょっと来いや。これからシャワー浴びるがやろ?」
「そうやけど……。何」
けげんそうに訊いた佐和に、
「子供っぽい旦那の仕返しや。甘んじて受けるや」
一日じゅう、海で指咥えておあずけを食らわされたぶんは、お返しさせてもらうき。そう答える吉門の足取りは性急だった。
(このつづきは今夏発売予定のオフ本「蜜月」にて)
購入のご希望のある方は、下から一押しくださると嬉しいです。
web拍手を送る
猛暑。海開き。夏休み。花火大会。せみの声。
青い空と白い雲。
そんな言葉を耳にするだけで、そわそわと心落ち着かない季節がやってきた。
体中の血液が滾るような、暑い夏。
今日も快晴。そして地元の町おこしの海祭り。スタッフとして掛水と多紀は休日出勤。
掛水が汗みずくになって海辺でテントを張っていると、浴衣にたすきがけをした多紀が現れた。息を切らせて浜辺に駆けつけ、
「遅くなりましたっ。すみません。準備に手間取りました」
ぺこりと頭を下げる。掛水は軍手で額の汗を拭い、目を細めた。
「かわいいにゃあ多紀ちゃん。浴衣似合うちゅうで」
年かさの同僚が笑う。他のスタッフも手を止めて口々に褒めた。
「ほんまに。自前なが? 支給もんやないでね」
「はい。私のがです。でも自分では着られんき、着付け、お母さんにやってもらいました」
照れくさそうに笑う。前髪を海風がなぶり、額が覗いてあどけない女の子みたいだった。
足元は下駄ではなくビーチサンダル。砂に足を取られないようにとの配慮だろう。
「すぐに手伝います。私は何をしたらえいですか」
「じゃあその長机の上布巾で拭きよってくれる? 砂払わんと」
「はい」
元気に返事をして踵を返す。
水道のところで屈む多紀の傍にさりげなく寄って掛水が耳打ちした。
「それ、罰金もんにゃあ」
「掛水さん」
背後から声を掛けられ、多紀が振り向いた。わずかに表情が曇っている。
「ごめんなさい。支度、手間取って」
「罰金は遅刻やない。それよ」
「え?」
「浴衣姿。可愛すぎ」
言い残し、片目を閉じて持ち場に戻る。
多紀が真っ赤になった。
袂で口を覆い、他の者に顔を見られないようにする。
どきどきが喉許までせりあがってきそうだった。
――掛水さんこそ罰金です。
こんなところで、昼間っからそんな甘いこと囁かんでください。
仕事に支障が出ますき。
でも、その一言が聞きたくて、ずっと前から浴衣の準備をしていた。似合うかんざしを選んだり、新しい帯を探したり。
掛水さんに、見てもらいたくて。
うなじに浮いた汗がじりりと焼かれる。多紀は照りつける日差しを仰ぐ振りで彼を探した。
男の人たちと一緒にテントの支柱を立ち上げる掛水の姿が向こうに見える。海の青に、白いTシャツがくっきりと映えている。
何か軽口を叩かれたのか、笑みを浮かべた。滴る汗を、Tシャツの裾でざっくりと拭う。
肌が一瞬だけ露出して胸元が見え、多紀の心臓が鳴る。健康的だけど、ひどく艶かしく映り慌てて目を逸らした。
今日も暑い一日になりそうだった。
「このクソ暑い中、休日返上で仕事とは、公務員はえらいにゃあ」
聞きなれた声が背後からして、振り返った掛水は、「わ」と目を眇めた。
「なんだよ。その反応」
腕組みして憮然としているのは、やはり吉門。いつもの彼らしくなく、黒のタンクトップにカーキのカーゴパンツ、足元は素足にクロックスというひどくラフな出で立ちだった。
もっともここは海なので、そういう格好でないと逆におかしいといえばおかしいが。
「何ちゃあないです。ただ、急に出てきたき、びっくりして」
「俺はお化けかなんかか」
襷を巻いて腕を見せ、ビニールプールに水風船を何個も浮かべていた多紀が笑顔を見せる。
「こんにちは。吉門さん」
「こんにちは多紀ちゃん。浴衣、よう似合うちゅうで」
さらりと褒めて、視線で掛水を掬う。
含みを感じて掛水は居心地悪さを覚えた。
なんで。その、意味深な目つきは。
まるで下心を見透かされたようで、気に入らない。
「ありがとうございます。あっちのテントで焼きそば配りよりますき、後で来てくださいね。おとりおき、しちょきます」
多紀はそんな男同士のやりとりなど全く気づかない様子で無邪気に言った。
「サンキュー。でも、こういう町単位の海祭りのサポートもやるがや。県庁って」
「今日のがはボランティアみたいなもんです。知り合いがこっちのスタッフで」
そう答えると、ああ、と納得したように吉門は頷いた。
「今日は、佐和さんは?」
民宿だろうか。そう思いつつ掛水は訊いた。吉門ひとりで海にくり出すとはとても思えなかった。この男は小説家という職種のせいか、都会の街のイメージが強い。朝がすこぶる弱そうで、夜行性。つまり、今日のように青空の広がる真昼の海辺には全く似つかわしくない風情なのだ。
だからきっと夫婦で来ているんだろう。その読みは当たった。
「あいつ? あいつはあっち」
吉門は親指を立てて海を指す。ぐいと。なぜかぞんざいに。
「あっち?」
二人は紺碧の海に目を向けた。
吉門の示す先、遊泳区域のずっと奥には、ジェットスキーを巧みに操る白いビキニの女性の姿があった。
「あれは……」
掛水は手をかざして日を遮り、目を凝らした。プロ級の腕前だ。いるかが波間を飛び跳ねるようにスキーを自在に駆っている。そして乗り手は驚くほどスタイルもいい。
遠かったが、それは紛れもなく佐和だった。掛水と多紀は目を瞠った。
(中略)
いっぽうこちらは祭りのあとの海。
もう日暮れも近い。祭り客で賑わっていた海辺も、今はもう撤収しようかと機材類を片し始めたジェットスキーヤーたちの姿しかない。
レンタルのスキーを返却してきた佐和に向かって吉門が言う。むっつりと。
「満足か?」
「うん。久しぶりにこんなに遊んだ。父さんに感謝せんと」
一日、二人でゆっくりして来い。民宿のほうは助っ人呼んだき、心配せんでえい。そう言って今日、朝から休みをくれた。
誕生日のプレゼントみたいと佐和は喜んだ。海に行こう海、と誘った。マリンスポーツを一切やらない吉門だったが、他でもない佐和のおねだりには逆らえない。うんと言うしかなかった。
もちろん、海は好きだ。海で遊ぶ佐和を見ているのも好きだ。
だが、水着姿を惜しげもなく晒して海辺の男たちの視線を集める佐和を見守るのは、正直夫として複雑なところだっだ。
「お前、さっき掛水にやらしい目で見られよったぞ」
「ふうん?」
佐和は遊び疲れたのか、吉門の声音にまで気が回らない。
「気にならんが」
「別に。見たけりゃ見ればええし。減るもんでなし」
海で水着は普通やき。そうしてタオルで濡れた髪を拭き取る。
確かにご説ごもっともだが、吉門としてはその一言で片付けられてしまってはなんだか面白くない。昔から佐和は自分の美貌に無頓着というかあまり構わないところがあった。それが彼女の長所でもあるのだが、妹ではなく一人の女として見るようになってからはときとして吉角の不安要素にもなっていた。
無防備すぎる。
沈黙を違った意味に解釈したのか、佐和が振り向いた。
「なに、喬。掛水にも嫉妬しゆうが?」
意外そうに目を見開く。
図星ではないがあながち外れてもいなかったので、
「悪いかや」
と返す。
「悪いゆうわけやないがやけど……」
「なんで」
含み笑いをしている佐和。
「ううん。なんや、子供みたいやなぁ、喬」
昔は全然あたしのことなんか眼中にもないっちゅう顔しちょった。なのに、
「今のほうが子供っぽい。あたしはもうとうに喬兄の奥さんやに」
くすっと横顔で笑う。それは幸せそうに。
「どうせ」
面白くなさそうに砂を雑に払って吉門は立ち上がる。
佐和の手を掴んで海の家のほうに歩き出す。
「喬?」
「ちょっと来いや。これからシャワー浴びるがやろ?」
「そうやけど……。何」
けげんそうに訊いた佐和に、
「子供っぽい旦那の仕返しや。甘んじて受けるや」
一日じゅう、海で指咥えておあずけを食らわされたぶんは、お返しさせてもらうき。そう答える吉門の足取りは性急だった。
(このつづきは今夏発売予定のオフ本「蜜月」にて)
購入のご希望のある方は、下から一押しくださると嬉しいです。
web拍手を送る
開始日を楽しみにしています(^w^)
少しでも誰かが喜んでくださるなら、作ろうと思いました。用意が整いましたらよろしくお願いいたします。