「ひざに力入れないで。下半身ばかりに意識をもってかないで」
手塚の両手を引いて、柴崎が滑っていく。後ろ向きだがまるで後頭部に目があるようになんら躊躇せずに。スムーズに。
「そ、それはわかってる」
手塚はへっぴり腰で、一歩一歩、恐る恐る足を踏み出していく。いつもスマートな彼らしからぬ風体。
「いいわよー、上手よー」
励ますように声をかけていた柴崎が、おもむろにそこで手を離した。手塚は支えを失って、バランスを崩す。
「わ、ばか。お前急に、」
「大丈夫、同じように滑ればいいのよ」
「簡単に、言うな、っ。わあっ」
最後はみっともなく悲鳴を上げて、手塚は腕を大きくばたつかせた。そして柴崎の手にすがろうと前のめりになる。そして、結局つんのめった。
柴崎を巻き込む形で。
ずべっ。
「きゃっ」
冷たいリンクの感触が、柴崎の背に当たる。転んだとき思わず目をつぶったが、痛みはない。
そうっと目を開けると、ゆがんだ手塚の顔が至近距離にあった。
「ってえ……」
転ぶ瞬間、柴崎に衝撃が伝わらないよう、彼女の頭を庇った。腕で囲い込むようにして。その代わり、ダメージは全部彼の腕にきた。相当痛い。
「大丈夫?」
間近で声がして身を起こすと、仰向けの柴崎を抱き込む格好で倒れていることに気づく。手塚は慌ててがば、と離れようとした。けれど慣れないスケート靴で、足元が覚束ず、どべっとまた倒れこむ。
「うわ、すまん。度々すまん」
「……あんた、何一人で遊んでるの」
怪訝そうな顔で、柴崎が上体を起こした。自分にのしかかる彼の肩に手を掛け、「ねえ、落ち着いて」と優しく言う。
「こうやって立つのよ。あたしがやるようにして。できるから」
手塚の身体を下から支え、抱き上げるようにして柴崎がやってみせた。おかげでなんとかかんとかリンクに立ち上がる。
「はあああ。どっと汗かいた」
憔悴した様子で、手塚が大きくため息をつく。確かにここ一時間で、へろへろになったようだ。
柴崎は笑って「少し休もうか。コーヒーでも奢って」と手塚の手を把った。ごく自然に。
手塚はどきっとしながらも、「俺が奢るのか」と尋ねる。
「当たり前でしょ。公衆の面前で、あたしを押し倒したんだから、高くつくわよ」
「お、押し倒したって。今のは事故だろ。どう見たって」
「言い訳無用。さ、行くわよ」
手塚の手を引いて、すいと足を踏み出す柴崎。まるで体重がないように器用に滑る彼女に続いて、初心者の彼がよろよろと続く。互いにライバル視するのはやぶさかではない二人だったが、こんなにも両者の力量の差が出るのは、図書館勤務の際はあまりというか、ほとんど見ない珍しい光景だった。
ここは、都内のアイスアリーナ。スケートリンク。一般開放中。
今はリンクサイドの売店で、小休止。ホットコーヒーをすすりながらベンチに腰掛けた手塚はため息をついた。
「お前、うまいな。スケート」
「ん。まあ。北陸育ちだから? あんたはほんとに初心者ねえ」
言った柴崎に手塚が噛み付く。
「だからそう言ったろ! スケートリンクに来るのも、スケート靴を履くのも今日が生まれて初めてだって」
なぜ、今日ここに手塚が来たかというと、甘い要素は全然なく、単に郁の代役だった。
日曜日、知り合いからリンク使用のタダ券をもらったのでスケートでもしようかと女同士出かける約束をしていたのだが、なんと珍しいことに訓練中郁が怪我をした。軽い捻挫だが、足首なのでスケートはできない。
残念だけど延期ねと柴崎が言いかけたとき、郁が「代わりに手塚に行って貰おうよ」と提案した。
当然のように柴崎は難色を示した。
「えー、なんで手塚よ? あいつと二人で出かけたりしたら、あらぬうわさが立つかもしれないじゃない。面倒だわ」
それって本心かなあと思ったが郁は口には出さずに、「だって安心してあんたを任せられるの、手塚の他に思いつかないもん」と返す。
確かにそれはそうかも、と、邪な下心を隠そうともせずアプローチしてくる面々を思い出し、柴崎はうなずく。けれど、手塚と?
尻込みする柴崎に、「まずは予定を聞いてみようよ。手塚の」と郁は携帯を取り出し、手塚に電話をした。
手短に事情を説明して、代役を受けてくれないかと頼むと、傍で聞いていても色よい返事ではない様子。なんで手塚とと自分で言っておきながら、柴崎は断られると傷つく自分を知る。
郁は困ったように「ちょっと待って」と言って柴崎を見やった。
「手塚、なんて?」
探りを入れると、言いづらそうに郁は小声になった。
「ん、無理って言ってる」
「無理」
それはあたしとデートするのが無理ということか。かっと頭に血が上りそうになって、それより先に悲しい気持ちに襲われる。
柴崎の顔に、珍しく気落ちした表情がダイレクトに現れているのを見て、郁は、うわあ、珍しい。柴崎がポーカーフェイス崩してると内心どきどきしたが、
「なんかさ、……手塚、滑れないんだって。スケート。一度もやったことないって」
と言葉を継いだ。
きらーん。
聞いたとたん、沈んでいた柴崎の表情に、生気が挿す。瞳が生き生きと輝いた。
郁の手から携帯をひったくるようにして、自分の耳に押し当てる。そして有無を言わさぬ口調でこう言った。
「手塚、行きましょ。スケート。明日絶対行くのよあたしと、いい?」
それは、明らかに彼の新たな弱点を掴んだ勝者の声だった。
「お前、俺が初心者だとわかっててごりごり引っ張り出すんだもんな。鬼だぜ」
手塚はぼやく。運動神経は抜群だが、なんせ生まれて初めてスケート靴に足を通すのだ。いきなりすいすいアメンボみたいに滑れるはずもない。
おかげでリンクに乗った途端みっともない姿ばかり晒している。
柴崎は愉快そうに笑った。優雅にコーヒーを飲みながら、
「じゃあ断ればよかったのよ。なんで来たの」
「それは……」
……俺が断ったら、他の男に代役のお鉢が回るんじゃないかって心配したからとは、口が裂けてもいえない。この女には。
口ごもる手塚に、「まあいいわ。あんたが四苦八苦するところなんて滅多に拝めないからね。レアだし」と言う。
「いっつも見てるだろ。兄貴とのときとか。昇級試験の読み聞かせのときとか。お前が一番多く見てるよ、俺の無様なところは」
情けないことに、と付け加えようとすると、
「いじけないの。それに無様なんかじゃないわ。あたしがそんな風に思ってるとは、あんただって思ってないくせに。だから、そんな風に言わないの」
たしなめられて、言葉を飲み込む。
「……」
手塚はうつむいてコーヒーを啜った。
柴崎に見透かされているのが悔しくて恥ずかしかった。つい愚痴ったのも、全くもって男らしくないと。
あーあ。うまくいかないな。
恋って、こんなに厄介なものだったか。
そう思い至って、ふと赤くなる。
俺、今、恋って言ったか。いや言ってないが、自分で思ったか。
いったい、何だってこう、初心な高校生みたいになっちまってるんだ? 俺は。
いい年して、それなりに経験もあるってのに。畜生。
隣に腰掛ける柴崎の横顔をそっと見やる。冷凍庫のようにきりきりに冷やされたリンクサイド。ホットを飲んでいても、寒いものは寒い。うっすらと鼻先が赤く染まっている。
それが少女のようにあどけなくて、いつもよりかわいらしく見えた。デニムのミニスカートも黒のスパッツも、ざっくりしたレッグウォーマーも何もかも可愛い。
へっぴり腰の俺に手を貸す、その手には手袋が嵌められていないことも。
「あったかいね」
ほっぺたに紙コップを押し当てて笑う柴崎。うん、と頷いて手塚は着ていたダウンジャケットのボアにあごをうずめる。気持ちを押し隠すように。
「あったかい」
こうしてお前といると。
並んで座る二人の腕と腕が、上着越しに触れ合っていた。
【後編へ続く】
web拍手を送る
手塚の両手を引いて、柴崎が滑っていく。後ろ向きだがまるで後頭部に目があるようになんら躊躇せずに。スムーズに。
「そ、それはわかってる」
手塚はへっぴり腰で、一歩一歩、恐る恐る足を踏み出していく。いつもスマートな彼らしからぬ風体。
「いいわよー、上手よー」
励ますように声をかけていた柴崎が、おもむろにそこで手を離した。手塚は支えを失って、バランスを崩す。
「わ、ばか。お前急に、」
「大丈夫、同じように滑ればいいのよ」
「簡単に、言うな、っ。わあっ」
最後はみっともなく悲鳴を上げて、手塚は腕を大きくばたつかせた。そして柴崎の手にすがろうと前のめりになる。そして、結局つんのめった。
柴崎を巻き込む形で。
ずべっ。
「きゃっ」
冷たいリンクの感触が、柴崎の背に当たる。転んだとき思わず目をつぶったが、痛みはない。
そうっと目を開けると、ゆがんだ手塚の顔が至近距離にあった。
「ってえ……」
転ぶ瞬間、柴崎に衝撃が伝わらないよう、彼女の頭を庇った。腕で囲い込むようにして。その代わり、ダメージは全部彼の腕にきた。相当痛い。
「大丈夫?」
間近で声がして身を起こすと、仰向けの柴崎を抱き込む格好で倒れていることに気づく。手塚は慌ててがば、と離れようとした。けれど慣れないスケート靴で、足元が覚束ず、どべっとまた倒れこむ。
「うわ、すまん。度々すまん」
「……あんた、何一人で遊んでるの」
怪訝そうな顔で、柴崎が上体を起こした。自分にのしかかる彼の肩に手を掛け、「ねえ、落ち着いて」と優しく言う。
「こうやって立つのよ。あたしがやるようにして。できるから」
手塚の身体を下から支え、抱き上げるようにして柴崎がやってみせた。おかげでなんとかかんとかリンクに立ち上がる。
「はあああ。どっと汗かいた」
憔悴した様子で、手塚が大きくため息をつく。確かにここ一時間で、へろへろになったようだ。
柴崎は笑って「少し休もうか。コーヒーでも奢って」と手塚の手を把った。ごく自然に。
手塚はどきっとしながらも、「俺が奢るのか」と尋ねる。
「当たり前でしょ。公衆の面前で、あたしを押し倒したんだから、高くつくわよ」
「お、押し倒したって。今のは事故だろ。どう見たって」
「言い訳無用。さ、行くわよ」
手塚の手を引いて、すいと足を踏み出す柴崎。まるで体重がないように器用に滑る彼女に続いて、初心者の彼がよろよろと続く。互いにライバル視するのはやぶさかではない二人だったが、こんなにも両者の力量の差が出るのは、図書館勤務の際はあまりというか、ほとんど見ない珍しい光景だった。
ここは、都内のアイスアリーナ。スケートリンク。一般開放中。
今はリンクサイドの売店で、小休止。ホットコーヒーをすすりながらベンチに腰掛けた手塚はため息をついた。
「お前、うまいな。スケート」
「ん。まあ。北陸育ちだから? あんたはほんとに初心者ねえ」
言った柴崎に手塚が噛み付く。
「だからそう言ったろ! スケートリンクに来るのも、スケート靴を履くのも今日が生まれて初めてだって」
なぜ、今日ここに手塚が来たかというと、甘い要素は全然なく、単に郁の代役だった。
日曜日、知り合いからリンク使用のタダ券をもらったのでスケートでもしようかと女同士出かける約束をしていたのだが、なんと珍しいことに訓練中郁が怪我をした。軽い捻挫だが、足首なのでスケートはできない。
残念だけど延期ねと柴崎が言いかけたとき、郁が「代わりに手塚に行って貰おうよ」と提案した。
当然のように柴崎は難色を示した。
「えー、なんで手塚よ? あいつと二人で出かけたりしたら、あらぬうわさが立つかもしれないじゃない。面倒だわ」
それって本心かなあと思ったが郁は口には出さずに、「だって安心してあんたを任せられるの、手塚の他に思いつかないもん」と返す。
確かにそれはそうかも、と、邪な下心を隠そうともせずアプローチしてくる面々を思い出し、柴崎はうなずく。けれど、手塚と?
尻込みする柴崎に、「まずは予定を聞いてみようよ。手塚の」と郁は携帯を取り出し、手塚に電話をした。
手短に事情を説明して、代役を受けてくれないかと頼むと、傍で聞いていても色よい返事ではない様子。なんで手塚とと自分で言っておきながら、柴崎は断られると傷つく自分を知る。
郁は困ったように「ちょっと待って」と言って柴崎を見やった。
「手塚、なんて?」
探りを入れると、言いづらそうに郁は小声になった。
「ん、無理って言ってる」
「無理」
それはあたしとデートするのが無理ということか。かっと頭に血が上りそうになって、それより先に悲しい気持ちに襲われる。
柴崎の顔に、珍しく気落ちした表情がダイレクトに現れているのを見て、郁は、うわあ、珍しい。柴崎がポーカーフェイス崩してると内心どきどきしたが、
「なんかさ、……手塚、滑れないんだって。スケート。一度もやったことないって」
と言葉を継いだ。
きらーん。
聞いたとたん、沈んでいた柴崎の表情に、生気が挿す。瞳が生き生きと輝いた。
郁の手から携帯をひったくるようにして、自分の耳に押し当てる。そして有無を言わさぬ口調でこう言った。
「手塚、行きましょ。スケート。明日絶対行くのよあたしと、いい?」
それは、明らかに彼の新たな弱点を掴んだ勝者の声だった。
「お前、俺が初心者だとわかっててごりごり引っ張り出すんだもんな。鬼だぜ」
手塚はぼやく。運動神経は抜群だが、なんせ生まれて初めてスケート靴に足を通すのだ。いきなりすいすいアメンボみたいに滑れるはずもない。
おかげでリンクに乗った途端みっともない姿ばかり晒している。
柴崎は愉快そうに笑った。優雅にコーヒーを飲みながら、
「じゃあ断ればよかったのよ。なんで来たの」
「それは……」
……俺が断ったら、他の男に代役のお鉢が回るんじゃないかって心配したからとは、口が裂けてもいえない。この女には。
口ごもる手塚に、「まあいいわ。あんたが四苦八苦するところなんて滅多に拝めないからね。レアだし」と言う。
「いっつも見てるだろ。兄貴とのときとか。昇級試験の読み聞かせのときとか。お前が一番多く見てるよ、俺の無様なところは」
情けないことに、と付け加えようとすると、
「いじけないの。それに無様なんかじゃないわ。あたしがそんな風に思ってるとは、あんただって思ってないくせに。だから、そんな風に言わないの」
たしなめられて、言葉を飲み込む。
「……」
手塚はうつむいてコーヒーを啜った。
柴崎に見透かされているのが悔しくて恥ずかしかった。つい愚痴ったのも、全くもって男らしくないと。
あーあ。うまくいかないな。
恋って、こんなに厄介なものだったか。
そう思い至って、ふと赤くなる。
俺、今、恋って言ったか。いや言ってないが、自分で思ったか。
いったい、何だってこう、初心な高校生みたいになっちまってるんだ? 俺は。
いい年して、それなりに経験もあるってのに。畜生。
隣に腰掛ける柴崎の横顔をそっと見やる。冷凍庫のようにきりきりに冷やされたリンクサイド。ホットを飲んでいても、寒いものは寒い。うっすらと鼻先が赤く染まっている。
それが少女のようにあどけなくて、いつもよりかわいらしく見えた。デニムのミニスカートも黒のスパッツも、ざっくりしたレッグウォーマーも何もかも可愛い。
へっぴり腰の俺に手を貸す、その手には手袋が嵌められていないことも。
「あったかいね」
ほっぺたに紙コップを押し当てて笑う柴崎。うん、と頷いて手塚は着ていたダウンジャケットのボアにあごをうずめる。気持ちを押し隠すように。
「あったかい」
こうしてお前といると。
並んで座る二人の腕と腕が、上着越しに触れ合っていた。
【後編へ続く】
web拍手を送る