【2】へ
砂をきゅっと鳴らして、小牧が一歩毬江に近づいた。
「可愛い。とっても似合ってる」
「ありがとう。笠原さんと柴崎さんが見立ててくれたの」
水着の裾をちょっとだけ直しながら、毬江が照れたように笑う。その耳元を風がさらう。髪がふわりと浮かび上がり、無防備な耳をさらけ出した。
少しだけ驚いた風に小牧は眉を上げた。
「補聴器、外したの?」
ゆっくりと、発音してあげる。
「うん。いちおう、水がかかるといけないと思って」
毬江はそっと髪を押さえた。
「人が多いから、気をつけて。疲れたり困ったことがあったら遠慮なく言って。車で休んだっていいんだからね」
「うん」
毬江が小牧の手を優しく取る。
毬江は微笑んだ。
「誘ってくれて、嬉しかった。海で泳ぐなんて、子どものとき以来で久しぶり」
自然と小牧の顔が柔らかくなる。微笑を返しながら、
「俺も。毬江ちゃんと来られて嬉しい」
というよりも、海で伸びやかに笑う君が見られて嬉しい。小牧は思う。
でも言い直しはせずに、
「泳ごうか」
と促した。
「うん。あたし、結構上手なのよ。泳ぐの」
「知ってるよ、昔、夏休みになると、近所のプールに通い詰めだったもんね。男の子みたいに真っ黒になって」
とたんに真っ赤になる毬江。
「もう、幹久さんの意地悪。そういうことは思い出さなくていいの」
「そう? ごめんごめん」
毬江の手を引いて、混み合う人にぶつからないよう海に足を入れていく。
まるでお姫様を舞踏会にエスコートするかのように、慎重かつ優雅に。
先に海に漬かった二組のカップルを目で追って、手塚が柴崎に訊いた。
「お前はどうする? 入るか」
「んー、遠慮しとく。さすがにこの混みようだとキツイ」
柴崎はあっさり言った。
「だよな」
「あんたは行って来なさいよ。あたしは荷物番してるから」
「お前を一人置いていけるかよ」
「あら、なんで?」
わずかに小首をかしげて尋ねる。その肩から胸にかけて長い黒髪がさらりと落ちかかる。
一瞬詰まって、それでも手塚はきっぱり言った。
「ナンパとか絶対すごそうだろ。ほうっておいたら虫つきまくりだ」
言って真っ赤になる。見られなくないのか、どかりと敷いたビニールシートの上に腰を下ろした。
手塚を見下ろす格好で、柴崎はウエストに手を当てた。
「あら、あたし虫なんて平気よ。あしらうの、慣れてるもの」
「そうだろうけどな。……こういうときぐらい、彼氏ヅラさせてくれ」
そう言ってむすっと胡坐をかく。
柴崎はその大きなくるぶしと素足を見て、ああ、男だなあと場違いなことを思った。
それから、
「じゃあお言葉に甘えて」
と手塚の隣にすとん腰を下ろした。
隣といっても、同期スペースをとっくに割った、「恋人接近」の範囲だった。
手塚は驚いたように一瞬目を瞠ったが、黙って視線を前方に戻した。柴崎の髪が、風になぶられて手塚の腕に当たっていた。
潮騒が、心臓の鼓動と重なって二人を満たした。
「それにしても、どうして急に海になったんです?」
仕事明け、毬江と待ち合わせをしてそれぞれ新しい水着の買い物を終えて、デパート内のカフェで一休みというところ。
毬江がジンジャエールのストローから口を離して切り出した。
郁と柴崎が目を見交わす。
ん、と話を引き取ったのが郁で。
「せっかく夏だし。みんなでぱあっと楽しいことやるのもいいかなって話が出てね。
もしかして、迷惑だった? 誘って」
実は、毬江には柴崎のストーカーの件については話してはいない。あえて毬江の耳に入れることもなかろうという小牧の配慮によって。
訊くと、慌てて毬江は顔の前でちいさく手を振った。
「違うんです。嬉しいです。でも、幹久さんは、あんまり乗り気じゃないみたいだけど」
「小牧一正が? なんでだろ、人ごみとか確かに苦手そうではあるけど」
「……なんか、ナンパが多そうだから、とか言ってました」
かぼそく、そう説明する毬江の表情が本当に嬉しそうで、郁はがばっと毬江に抱きついた。
「かわいい~。どうすればそんなに可愛くなれんの? ねえお願いだから教えて」
「か、笠原さん」
「あんたは、人のこと百合だなんだって言っておいて、公衆の面前で抱きつくとかするな」
呆れて柴崎が口を挟む。しかし、郁は毬江を抱く腕を緩めない。
「だって激烈可愛いんだもん。ナンパの心配か~。いいな~。あたしも篤さんにされてみたいっ」
「ナンパなんて、一瞬で蹴散らす戦闘職種のくせに」
「ふん、どーせね」
「柴崎さんとかも、大変そうですね。海だと」
毬江がふと気がかりそうに眉を寄せる。でも郁が横から割り込んだ。
「ああ、それは大丈夫。そういう手合いなら手塚がいるから、ね?」
「ああ、そうですね」
毬江も頷く。
柴崎は、「蹴散らしてくれるかしら?」とグラスの氷をストローで掻き回した。アイスコーヒーに柴崎はガムシロップを入れない。クリームのみだ。
「蹴散らすに決まってるでしょ。秒殺だよ、きっと」
力説する郁に、柴崎はとろけそうな笑みを向けた。
「ナンパはいやだけど、それはちょっと見てみたいかも」
「ほんとだね」
郁も柴崎も笑った。
早く海に出かける日がくるといい。
手塚とのデート以外に、柴崎がそんなふうに何かを心待ちに思うのは、本当に久しぶりのことで、自分自身で、ちょっと驚いた。
「あのこと」があってからこっち、外に出かけたり、行きつけない場所に出かけるのを億劫に感じるのが常のことになっていたのだと改めて気がつく。
約束事を前向きに楽しむことを、忘れそうになってた。
柴崎は郁に向かって言った。
「ありがとね、笠原。当日、晴れるといいね」
「どういたしまして。飛び切りおしゃれしていこうね。毬江ちゃんも」
「はい」
女三人で密約を交わすように頭を寄せ合って。
色合いの違う口紅が、それぞれのストローの端にうっすらと刻まれているのを、柴崎は幸福な気分で眺めた。
【4】へ
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きっと目からビームが出るんですよね。そんな手塚を物陰から見たいです!!
威嚇しまくりなのかな、と思います。
でも手塚が隣にいるのに、柴崎に声をかけるノーテンキやろうもいないかも…笑
レス遅くなってごめんなさいです。