「保健所の成犬・猫の譲渡を推進する会」から譲渡を受けたチワワのソイは我が家に来て4年半がたちましたが、今だに夫と息子と母に対いて突如激しく吠えたり、時に脛を噛んだりします。
そういう行為をする時は決まってリビングから出ていく時の後ろ姿に対してです。何に対して怒っているのか今もって分かりません。譲渡の時に受けた説明では女性しか見たことがなかったため男の人が恐いという話でしたが、母は女性ですし…ソイの気持ちは読めません。
そんなソイの姿を見ながら、自分の「怒り」について考えました。ふとした時に湧く怒りの感情はどうこからくるのだろうか…と。いつも悪感情を取り去りたいと努力をしていても、何かの拍子で湧いてしまうのはなぜなのだろうと思います。
どうしたら悪感情を払拭できるのだろうか?本当にできるのか?そんな思いも湧いてきます。私にとっての課題だと思います。
そこで”怒りが湧く”ことに関して述べているシルバーバーチの言葉を抜粋したいと思います。(*1)
「あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」 シルバーバーチの霊訓5 P95-96
「怒りが湧く」のは”進歩が足りない、未熟であること”というのは厳しい言葉です。ちょっとショックですが、でも、その通りだと納得もします。
怒りが湧いた時に、自分の感情を省みると分かります。大体において自分が思っている反応でないことに「なんで、そうなるの?違うでしょっ」と思っていたりします。それは相手を自分と同じ考えに変えたいという思いが心の底にあるからですが、そう思うことは、やはり未熟であり進歩が足りていないのです。
変えていかなくてはいけないのは、相手ではなくて自分自身でなければなりません。
私を含め多くの人が、「あの人は○○だ」「なんであんなことをするのか」と人の言動を査定したり否定しますが、地上世界が魂の訓練場で考えの違う人たちの中で学び、魂を鍛える場所である事を思えば、それこそが学びであるはずです。その出来事を自分の教訓にしなくては進歩は望めません。
人を裁くのは簡単ですが、自分を変えるのは至難の業です。私はどこまでも自分が好きなんだな…と悲しく思います。
さて自分を変えるのは至難の業ですが、いったい自分とは何なのかといえば、肉体をまとった霊的存在であるのですから、人間的な怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念はなくても良いのだと理解できます。
むしろ肉体に由来する悪感情をなくしていくのが地上にいる目的であり、そのための訓練場であるのだと思います。それはかなり高度な訓練場なのだということです。のほほんと生きていてはダメなのだいうことです。
「怒りが湧く」のは、なぜかを考えている時に見つけた精神科医のブログには次のように書かれていました。
「自分から見た相手の嫌なところや問題点を見過ごせなくなって生じる感情です。そうした怒りの感情を抱くときは、自分に余裕がなくなっているともいえます。身体が疲れていたり、ストレスがたまって心の余裕なくなっていたりしているときです」
確かに相手の嫌なところが気になりはじめると見過ごせなくなりイライラしたり怒りが湧きますし、心の余裕がないのだと思いますが、それは霊的存在であることからかけ離れているからです。ストレスがたまるのは肉的存在に偏っているからなのだと思いました。つまりは自分の意識の中心をどこに置くのかが重要なのだと思いました。
私は幼いころ母にひどく怒られたことが記憶に残っています。母は父に叱ってもらうと意気込んで話していたのですが(何んで怒られたかは覚えていませんが、”叱る”ではなかったと思います)…父はそれに対して何も言いませんでした。私は怒られることを覚悟していましたが…。
そのとき私は父の寂しそうな後ろ姿を見て「この人を悲しませてはいけない」と思いました。言葉では何も言わずとも父の悲しみが伝わり心に響いてきたからです。
人間には相手の気持ちを汲み取る力があると私は思うのですが、まさに父の言葉にならない思いの波動が霊に響いていたからだと思いました。ですから、むやみに怒ったりせずとも、怒りが湧くような出来事も相手を重んじて寛容心で対処すれば良いのだと体験から感じます。
それにしても地上という物的世界に住んでいる以上、周りは物的なものや物的な考え、価値であふれかえっています。ですから、そうした物的なものや邪悪な要素に引きずられ影響を受けやすくなり「怒り」や「嫉妬」「ねたみ」といった感情が湧いてしまいます。
が、なんと!シルバーバーチはそうした邪悪な感情を追放することができると明記している箇所があるのです。この言葉は、常に葛藤している私にとっては希望の言葉です。以下、抜粋し日々の教訓にしたいと思います。(*1)
「皆さんは、霊的知識から生まれた完璧な信仰を持たなければなりません。皆さんは霊力の証を手にしておられます。万事うまくいくという信念、大霊の摂理と調和して生きればそれ相当の実りを手にすることができるとの信念を持たなければなりません。
人間は”邪悪”と呼ばれるものの影響を受けてしまいます。しかしその邪悪なるものは、心の中から完全に追放することができるのです。なぜなら皆さんは、大霊とその摂理の保護のもとに生き、行動していおられるからです」 シルバーバーチの教え・上巻 P96
シルバーバーチの言葉から思うのは、先にもお話した「本当の自分が霊的存在であり、地上で未熟な部分を取り去るために居ることが目的」であり、そのためにはこうした知識を確信し生きなくてはいけないということです。
中心を肉体の自分ではなく霊的存在である自分に置くことが重要で、それが大霊の摂理に調和していくのです。そして大霊の摂理に調和すれば悪感情を追放でき、寛容で愛溢れる人間という実りが得られるのだと思います。
実際に悪感情を持ったときには、その人も霊的存在で今地上で未熟な部分を取り去るために居ること、その知識がないがゆえの言動であり、それぞれの今の成長度の現れなのだと思えば、意識の中心をその人の霊の部分に当てることが出来ます。
そして知識が得られるように祈りの思いに変換していこうと思います。また貴重な体験をさせてくれる存在として神が私の前に置いてくれているということ、そして神が愛している存在なのだと見れるようになりたいと思います。
さて邪悪なものを心から追放したときの思いはどんなものなのでしょうか。きっと誰もが愛おしいと感じ、みんなの成長を願い、一日が自分のためではなく他者のためになるのではないかと想像しますが、それは神の全存在物への思いそのものです。私たちは誰一人として見落とされず公平に神によって創造され今も愛され続けているのです。(*2)
神という偉大な存在が愛しているその人を、ちっぽけな視野しかもてない私ごときが非難したり批判するのは間違っていると感じます。
高い目標ですがシルバーバーチの言葉を励みに、神の愛に近づけるように努力し価値ある地上人生にしたいと思います。
その中の「コトとシンのうちゅういちたのしいおはなし」 「コトとシンのうちゅういちふじぎなおはなし」には死後の世界のことや人間の構造についてが、 「コトとシンのうちゅういちたいせつなおはなし」 「コトとシンのうちゅういちすてきなおはなし」には神の愛についてが描かれています。 生きる力を育む絵本です。
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