初めての大きさの揺れだった。まだ父も祖母も生きていて、家族の無事を確かめた。もし仕事に影響があるといけないので、早めに家を出ようと、着替えていると、また揺れが来た。最初の揺れが、震度4、あとが震度3だった。
幸い、我が家も周辺にも被害はなかった。しかし、大きな揺れだったので、「これはまず朝の話題になるな~」という程度の気持ちで出勤した。ところが、出勤の車の中で聞いたラジオの緊迫した放送で、「これはただごとではないな」とわかった。職場では、テレビがつけっぱなしにされていて、あちこちで煙の上がる神戸の街の惨状が映し出されていた。次々とわかる災害状況に、その日は、仕事をこなしているものの、皆心ここにあらずのような状態だった。
神戸には叔母夫婦がいて、連絡がつかなかったが、翌日、連絡がついて無事が分かった。叔母の住むマンションの前の道を隔てて、反対側の建物は被害を受けていた。「家じゅう割れたガラスだらけだけど、二人とも無事だから安心して」と叔母は言っていた。同じ町内に住む義伯父の故郷(石川県)の親戚が灘の造り酒屋に働きに来ていたのだが、その人がつぶれた梁の下敷きになって亡くなったのを知った。いとこは、電車で大阪まで行き、そこから先は交通手段がないので、歩いて神戸まで遺体を引き取りに行った。
結局、死者6,000人を超す大災害となった。仮設住宅では、次々と人が亡くなった。1年後に神戸に出かけたが、震災の傷跡はまだまだあちこちにあった。更地ばかりの長田区を歩き、それでもあちこちで確かな復興を遂げる町を見た。人の力はすごい!と思った。
20年後のこの日、あのとき小学校1年生だった息子は、今26歳の社会人となった。父と祖母は亡くなり、母は思うように歩けなくなった。時は経った。しかし、あの時の衝撃は、今も忘れられない。
震災によって亡くなったすべての人を悼み、東北の震災の、本当の復興を願う。
合掌。
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