毎日が遺言

震災20年

 20年前の夜明け、私は夢を見ていた 何の夢か忘れたが、その夢が急に地下のシーンに変わり、私は地下鉄がうなりを上げて通過するのを、上の方から見ていた。ゴォーッというその音で、ハッと目が覚めた。北の方角から、まるで貨物列車が高スピードで無理やりカーブを走ってきしむ線路のような、不穏な音が大きく響いた。「何の音だろう?」と思うか思わないかの瞬間、寝室がドン!と揺れた。「アッ!地震か!」と思って起き上がろうとしたとき、ガタガタガタと横揺れが始まった。うまく起き上がれないほどの揺れだった。三面鏡の扉がカタカタ鳴った。タンスが倒れてこないか心配しながらも、起き上がれないまま布団の中で仰向けで肘をついた姿勢で天井を見続けていた。揺れが収まって、別の部屋で寝ていた小さな息子を見に行くと、妻が息子に覆いかぶさって「収まった?大丈夫?」と天井を見ていた。
 初めての大きさの揺れだった。まだ父も祖母も生きていて、家族の無事を確かめた。もし仕事に影響があるといけないので、早めに家を出ようと、着替えていると、また揺れが来た。最初の揺れが、震度4、あとが震度3だった。
 幸い、我が家も周辺にも被害はなかった。しかし、大きな揺れだったので、「これはまず朝の話題になるな~」という程度の気持ちで出勤した。ところが、出勤の車の中で聞いたラジオの緊迫した放送で、「これはただごとではないな」とわかった。職場では、テレビがつけっぱなしにされていて、あちこちで煙の上がる神戸の街の惨状が映し出されていた。次々とわかる災害状況に、その日は、仕事をこなしているものの、皆心ここにあらずのような状態だった。
 神戸には叔母夫婦がいて、連絡がつかなかったが、翌日、連絡がついて無事が分かった。叔母の住むマンションの前の道を隔てて、反対側の建物は被害を受けていた。「家じゅう割れたガラスだらけだけど、二人とも無事だから安心して」と叔母は言っていた。同じ町内に住む義伯父の故郷(石川県)の親戚が灘の造り酒屋に働きに来ていたのだが、その人がつぶれた梁の下敷きになって亡くなったのを知った。いとこは、電車で大阪まで行き、そこから先は交通手段がないので、歩いて神戸まで遺体を引き取りに行った。
 結局、死者6,000人を超す大災害となった。仮設住宅では、次々と人が亡くなった。1年後に神戸に出かけたが、震災の傷跡はまだまだあちこちにあった。更地ばかりの長田区を歩き、それでもあちこちで確かな復興を遂げる町を見た。人の力はすごい!と思った。
 20年後のこの日、あのとき小学校1年生だった息子は、今26歳の社会人となった。父と祖母は亡くなり、母は思うように歩けなくなった。時は経った。しかし、あの時の衝撃は、今も忘れられない。
 震災によって亡くなったすべての人を悼み、東北の震災の、本当の復興を願う。
 合掌。

コメント一覧

mirapapa
http://yaplog.jp/mirapapa/
> <色:#ff0066>mocyukaさん</色>
震度5だと相当強い揺れだったでしょうね。
今がとにかく無事に過ごせているということが、なかなかピンと来ないですが、ホントに幸せなことなんだな、と思います{YES}
災害の跡など、早く分からなくなるといいんですが、やっぱり語り継ぐべきことは語り継がないといけないな、と思います。
mocyuka
http://yaplog.jp/mocyuka/
1月17日は忘れる事が絶対にできない日ですね。
私の住んでいた辺りは震度5強だったと記憶しています。
建物にヒビが入ったり欠けたりという事はありましたが、幸い生死に関わる大きな被害はありませんでした。
私も始めは状況がわからず、電車が止まってるんだ、学校に行けないな~程度に思っていたのですが、時間が経つにつれて分かっていく状況、行方不明者の多さに言葉もありませんでした。
ウチの長女&次女は神戸が好きです。今の神戸は震災があったなんてわからない程復興していますから。
でも、いつだったか、異人館に震災の時のままの場所があったので連れて行って、当時の写真や説明を見せました。
娘たちは小さいながらも衝撃を受けたようでした。
辛い事から目を背けがちですが、やっぱり現実を知って、東北の震災と共に語りついでいって欲しいと思います。
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