妻が、「私が先に死んだら、脳死の段階で、私の臓器のどこと使ってくれてもいいからね。臓器移植はOKやから。今、意志表示しとくね」と言った。
「でもなぁ」と私は言った。「お前の体を、見ず知らずの連中が奪うようにして切り刻むのは、耐えられんなぁ」
「あれ、そう? 私は、死んでしまったら自分は何も分からへんのやし、人のためになるんやったら全部使ってくれてもええと思ってる」と妻が言う。
「でもな」と私。「いくら死んだと言っても、何もつながりのない連中に、自分の体を切られて、そいつらがほしいところだけを持っていかれるのは、オレはイヤやな。たとえば、オレと、ずっとそんな話をしていて、『オレが死んだらお前がオレの臓器を取り出してくれ』みたいな関係の医者がいたら、オレは臓器提供してもええと思うで」
「母さん(妻のことです)がよくても、母さんの体を赤の他人が切り刻むのは、オレは耐えられん」と言ったら、妻は「なるほどなぁ」と、不思議だけど納得できる、みたいな表情をしていた。
たとえしたいとなって、ただの肉体になったとしても、死んだ瞬間に、その人固有の肉体ではなく、ただのたんぱく質や脂肪の塊になるのではない、という思いが、私にはある。それが臓器提供への決意を阻んでいるのだ。
「私の体をもてあそぶのは、生前から納得できた相手だけが許されて良い」とおもう。それが私の妥協点。いくら社会的に必要であっても、「必要」は万能ではない。非科学的な思い入れもある。それが、日本的な心性であると思うのだ。
でも、妻がそういう限り、私は妻の臓器提供に同意する。私はきっと苦しい気持ちになるに違いないが、妻の意志を100%生かしたいと思う。
妻は私のものではなく、妻自身のものだから。当り前といえば当たり前のことやけど、連れ合いとしてはそれは苦しいこと。でも耐える。大好きな妻の意思は尊重したいと思う。
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