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「石黒ホーマの歴史」

2016年04月17日 | 釧路
 
 
 石黒ホーマの歴史


 釧路で産声を上げ、北海道や東北地方、関東地方に店舗を構えるまでになったホームセンター「石黒ホーマ (現・DCMホーマック) 」。

 その歴史の一端を紹介します――。

 
 

 石黒金物店

 
 石黒ホーマは、1919(大正8)年創業で、先代の石黒信市郎氏がその基礎を固めた。
 
 信市郎氏は新潟出身で、1913(大正2)年に北海道開拓移民として来道。釧路の金物商・進藤商店に帳場として入り、6年間勤務。

 その後、南大通りに「石黒金物店」を独立開業した。
 
 
        
 
 
 1928 (昭和3)年に北大通(旧・丸三鶴屋の道路を挟んで向かい側付近)に移り、国鉄との取り引きを始めた。

 また、釧路支庁の指定を受け、虹別地区への移住者用物品の配給所を開設。
 
 水車を動力とする工場などを経営したが、戦時中の1933年からは販売する金物類がなくなり、休業を余儀なくされた。
 
 釧路空襲で布伏内に疎開したものの、戦災で倉庫を焼失し、不在地主として土地の7割を失うという大痛手をこうむった。
 
 戦後、商売を再開するにも新円切り換えで資金もなく、東京、新潟などの問屋に頭を下げて回り、仕入れ品の運賃だけ払って送ってもらい、急場をしのいだ。
 
 そして、1951(昭和26)年12月に「石黒商店」を設立し、翌年に株式会社に改組。
 
 しかし、6年後に火災に見舞われ、在庫の全てを失うという悲惨な目に遭い、その復旧に多大な労力を投入しなければならなかった。
 


 靖尋氏入社


 そんな中、1959年に明治大学商学部を卒業した石黒靖尋氏が、故郷である釧路で父親が創業していた石黒商店に入社。
 
 靖尋氏は長男として家業を継ぐ覚悟を決めていたが、高度成長が始まる時期でもあったため、彼は抱いていた夢は大きかった。
 
 発展のきっかけになったのは、靖尋氏の夢を支援した当時の北海道銀行・釧路支店長だった。
 
 
        
 
 
 靖尋氏は、石黒商店の隣にあった道銀釧路支店に経営計画書を持参し、「5年間で年商3億円を目指す」と融資を要請。
 
 すると、当時の支店長は「お兄さん、あんた若いんだから20億円でも30億円でも目指したらいいよ」と叱咤激励したという。
 
 後に、靖尋氏はこの時のことを「勇気と希望のエネルギーになった」と振り返っている。その後、着々と地盤を築き上げ、昭和40年代に入って設備機器の販売、工事部門にも進出。
 
 そして、信市郎氏が1968年に亡くなった翌年、石黒靖尋社長は家庭金物卸業からの脱皮を図ろうと視察のため渡米。
 
 先進国の業界視察を重ね、住宅設備機器へと主力部門の転換を図る方針を固め、市場開拓に乗り出すことになった。
 


 総合店舗構想


 1974年のオイルショックの際には、先き行きの見通しを予測して、長期安定成長時代に向けた総合店舗構想を打ち出した。
 
 そして、総合的な住まい関連商品を扱うホームセンターの経営の戦略を立て、「石黒ホーマ」として釧路市中園町にその一号店をオープンさせたのが1976年4月のこと。  
 
 
        
 
 
 以後、札幌、帯広、幕別、江別、旭川、滝川に出店し、1984年に営業本部を釧路から札幌に移管。
 
 そして、1987年4月に商号を石黒ホーマ株式会社に変更して、一括発注、一括納入システムの物流センターを設立した。
 
 
        
 
 
 1995 (平成7) 年8月には、株式会社メイク及びイシグロジャスコ株式会社と合併し、商号をホーマック株式会社に変更。
 
 2015年5月現在、店舗数は北海道・東北地方・関東地方合わせて221店舗となっている。
 


 発展の原動力

 
 1970年代の北海道には、金物店が至るところにあった。
 
 その多くが個人商店の域を出ないまま現在に至っている中で、ホームセンターへの脱皮をいち早く進め、全国企業へと発展していった原動力。
 
 それは、靖尋氏が描いた夢=構想力と、それに向かって挑戦する精神力、そして少しばかりの野心という調味料がバランス良く配合されていたためだろう。
 
 靖尋氏は、1967 (昭和42) 年から1996 (平成8) 年9月をもって執筆を止めるまでの約30年の間、“社長親言”と題した自らの経営に対する考え方を従業員の給料袋に入れていた。
 
 
        
 
 
 そんな靖尋氏の人生5訓は、「あせるな おこるな いばるな くさるな おこたるな」。



 暮らしの情報も提供


 2011年1月11日に、3月1日付での靖尋氏のホーマック取締役相談役就任を発表。

 しかし、既に末期のすい臓がんだった靖尋氏は、その翌々日の1月13日午後8時57分、多臓器不全のため死去。享年74歳だった。

 2月1日に札幌パークホテルにて執り行われた社葬では、取引先など約2000人が出席する中、ホーマックのユニフォームを着た社員らが社歌を歌い、故人を見送った。
 
 
        
 
 
 「単に物を売るだけでなく暮らしの情報を提供するホームセンター、そして、人間として本当に豊かになるための新しい暮らし方を提案するホームセンターを目指したい」
 
 そんな想いを胸に、ホーマックは今日も営業中――。
 


 

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