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平将門/903-940

2006年11月29日 | 歴史関連



 将門伝説



 平安中期の武将で、桓武平氏の高望王(たかもちおう)の孫である平将門。

 若い頃上京して、藤原忠平に仕えたが帰郷する。その後、父の遺領等を巡る問題から一族内で紛争が起こり、この紛争が将門の乱に発展しました。


                 


 この乱は、続いて起きた藤原純友の乱とともに朝廷の人々に大きな衝撃を与え、東国では将門は、国家の支配に抵抗した英雄として人気となり、後に様々な伝説が生まれました。



 将門の乱



 将門が謀反を起こした頃は平安時代中期で、京都では藤原氏が我が世の春を謳歌していました。

 しかし、地方では国司達が私利私欲に溺れて善政を忘れ、人民から搾取し、洪水や干ばつ等の災害が相次いだため、人民の窮状は言語に絶するほど酷いものでした。


                 


 惨状を見かねた将門は下総国に兵を起こし、平新皇と称して政治革新を図りましたが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受け、馬上陣頭に戦って憤死しました。



将門首塚



 将門の首は京都に送られ、獄門に架けられましたが、3日後に白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。

 大地は鳴動し大地も光を失い、暗夜のようになったといいます。村人は祟りを恐れて、塚を築いて手厚く埋葬しました。これが東京の大手町にある将門首塚です。


            


 当時、朝廷の無策に苦しめられた人々が、将門に寄せた期待と同情は極めて大きかったため、関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社があります。

 将門は歴史上、朝敵と云われながら、実は郷土の勇士だったのです。

 また、将門の乱は武士の台頭の先駆けであるとともに、弱きを助け悪を挫く江戸っ子気風となり、その影響するところは社会的にも極めて大きいといえます。




 編集後記



 高層ビルと高層ビルの間に鎮座する将門首塚のあまりの場違いぶりに、異様さを感じます。

 今から1000年以上も前の人物の墓が、都心の一等地で未だ移築されずに残っているというのは、人智を越えた得体の知れない力が働いているように思えてなりません――。



【記事引用】 「将門の首塚」 「平将門」 「大垣の昔話
【画像引用】 「将門煎餅」 「築土神社

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