五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

よみがえる・熊本城

2008-11-03 20:39:37 | 五高の歴史
熊本大学・ホームカミングデーがあった。その中で「よみがえる・熊本城」と言う演題で北野隆名誉教授の講演会が行われたので聴きに行って来た。。観光案内ボランテイアで熊本城を案内しているが、説明もマンネリになってしまうので何か目新しいことはないだろうかと言う期待もあった。先生の方も決まった時間内の講演であるためスライドによる説明が中心であった。以下そのメモを中心として説明を纏めてみたが、私の観光案内と違い大学の専門の先生の説明で少々理解できない箇所もあった。
 熊本城は、昨年築城四百年を迎へ四百年祭を記念して櫓の復原工事が行われた。熊本城の成立は加藤清正が肥後国五十四万石全部を領有とした一六〇〇年以降一六〇七年には完成していた。熊本城には各郭毎に三階櫓から五階櫓が設けられていた。寛永九年〈一六三二〉の細川忠利公の入国後には大規模の改修は行われていないので、殆どの櫓群は加藤時代には存在していたものであろう。
先ず本丸一体は加藤清正の屋敷、小天守が清正の居室、その位置は本丸北郭に,御裏五階櫓、南郭には小広間西三階櫓、月見櫓、本丸東三階櫓が清正の屋敷であった。その西側が加藤平左衛門屋敷で平左衛門丸五階櫓・・・これは宇土櫓と言われているもので、(宇土櫓の名称は江戸中期からこの名前が出て来る)数寄屋丸五階櫓、更にその西側西竹の丸は大塚甚右衛門屋敷で、飯田丸五階櫓、甚右衛門五階櫓が存在していた。熊本城には各郭に数多くの櫓、特に五階櫓が設けられ、御裏五階櫓、平左衛門丸五階櫓、数寄屋丸五階櫓は地下一階を数えて五階櫓であり、西側竹の丸五階櫓は内部三階で外観は五階であった。何れも大天守、小天守を備え、大天守は三層六階に地階,小天守は二層四階と地階から為っていた。その後細川忠利が本丸御殿を一時、整備するがこの時坪井川を隔てた花畑屋敷を以後の国許屋敷に決めた。その後櫨方門が重視され、南向きの熊本城になった。熊本城には大天守、小天守、各郭の櫓と共に本丸御殿、平左衛門丸御殿、西竹の丸御殿があり、大天守、小天守数寄屋丸二階広間などが櫓内が藩主の体面所や住居に使用された。
今回復原した本丸御殿は「大広間」を中心に松の間、吉野の間、耕作の間、南側に落縁、北西側に入側、東側に式台の間床下には東より西に通路を設けることにしたが、建築基準法では文化財の復興と言うことで許可されたが、消防法では喧しく、もしと言うことを想定し、熊本城本丸御殿の特徴である暗がり通路を消防自動車が通れる設計にすること等が厳しく規定され昔のままで復原することに苦心した。
御殿は平面的には二分割され西側から照君の間、若松の間、桐の間、帳合の間、蘇鉄の間,円扇の間が藩主の居間部分で、桜の間、梅の間、雪の間、家老の間、露の間が体面所であり、照君の間が中心で、鉤上段を設け左側に付書院と棚、正面に床と棚、右側に納戸棚、天井には共に狩野源七・外記の装飾画あり、帳合の間は女の髪の毛で編まれた梯子で暗がり通路へ降りられ不開門から城外へ出られた設計であった。照君の間は加藤清正が豊臣家の子飼の武将であり、秀吉の子秀頼をいざと言う時にはこの熊本城に迎え入れるためにこの照君の間を作ったこと。その他照君の間の屏風画作成についての、中国王照君のエピソード等の紹介があった。この復原工事では将来を見通して、全く清正の時代の創建の通りにするため西南戦争での焼け跡を発掘し例えば長押の釘隠し"六葉釘隠し等、総ての調度品材料は創建当時の材料に合わせて復原した。建築木材は総て熊本、宮崎を中心とした九州地方の産のものを使用し、外材等は一切使っていない。復原費用として五十四億円掛かっているが一口城主からの基金始め、地方公共団体、及び国交省からの補助金等で賄われているが、補助金部分は建物使用が喧しく建物を閲覧させるだけではなく利活用することが要望された。そのため復原した本丸御殿二階に五十席を設けて細川時代の殿様御前を供給している。なお配布された資料については追々掲載することにしたい。(t-higashi)