五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高同窓会が解散されて一年過ぎた。

2008-11-23 08:02:26 | 五高の歴史
 全国五高同窓会解散から早くも一年過ぎた。全国から同窓生・関係者約七百名を集めて五高同窓会は平成十九年十月十日五高開校百二十年の式典を行い解散された。五高卒業生は最も若い人で齢八十歳になろうとする高齢世代であり、旧制高校の最後の卒業生が昭和二十五年卒業で同時に五高も閉校になったため、下級生がいない同窓会の解散は止む終えないと言うところであろうか。
 さてその五高同窓会の成立は何時だったのかを調べてみると、開校して四十年目、昭和五年のことであった。このときまでの卒業生は約八千名、既に日本社会の柱石となり日本の指導者たる立場になったものが数多く見られ、当時の溝渕校長の挨拶の中に、設立の理由として卒業生の間で連絡機関がなかった為に席を同じにしても、互いに五高卒業生であることを知らなかったりすることが起こりがちだったということであり、先輩が後進を引き立て、後進の者が先輩の指導を受けることも充分に行うことも出来なかったのでこれを設立するということが語られてある。
同窓会の成立と共に同窓会報(昭和五年十一月二十五日)が発行され昭和十八年九月二十日の第十六号まで発行されている。

秋はふみ吾に天下の志           漱石
この句は同窓会報第一号の目次の巻頭に載っている句である。
同窓会が第五高等学校開校から四十年を経た昭和五年創設されたことは当時の溝渕校長の挨拶が掲載されている。其の主旨は卒業生の間で連絡機関がなかった為、席を同じくしながらも、お互いに五高卒業生であることを知らなかったりすることが多々起こりがちであった。それで情宣の上からも利害の点からもこれは遺憾千万なことであるので五高同窓会を設立する主旨が述べられている。五高同窓会の創設とともに同窓会報が発行されている。  
同窓会報第一号の掲載記事で興味を引くのは高田保馬の熊本時代の思い出として『千反畑の家』がある。京大教授時代の研究室で書かれたもので、この千反畑の家にはかっては夏目漱石も下宿(熊本で最後に暮らした家)していた。当時は独逸語教官ウエンクステルン教官が住んでいたが三畳の間に保馬も下宿していたと言う。ところで無断で下宿を留守にしたのでウエンクステルンから退去を強制されたという。
そして栗野事件(明治39年)のあらましが記述されている。この事件については高田保馬は穏健派という立場であったので、この思い出でそれを確認することが出来る。『私共は・・・・・・・・・・・・転学事件以外は一歩も進まぬように、必ず食い止めるから、此事件だけで進みたいと強く説いた。・・・とうとう私は十人の委員の先頭に立って、校長の官舎にあまりおとなしくない事を述べに行った。・・・・・各級委員会で極力学校に対する反抗運動に反対した。・・・後は私の思うとおりの決議が出来た。それで安心して当時流感にかかっていた滝正雄を介抱して二日間欠席している間に急進派の先鋒であった大川周明一派の教頭排斥にまで進んでしまった』と云うことが述べられている。