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修学旅行の面々
修学旅行の宿題のため改めて熊本城について平成4年に行われた放送講座のテキスト「熊本城を科学する」や平成13年作成された案内ボランテイアの「熊本城マニアル」を参考にして回答を作って見たものを掲載してきたが今朝でこの項を終わりにしたい。ここでは熊本城について検討したものであるが五高と熊本城の関係は五高はこの古城一帯で誕生したし、また終戦直後医学部関係は昭和40年までの約20年間ここ熊本城の二の丸一帯に間借りし生活したものである。熊本城と大学況や五高とは関係深いので掲げたものである。
4、なぜ石垣の積み方が色々あるのか
熊本城の石垣は城の西の方の花岡山、金峰山、独鈷山から切りだされた。石の切り出しは石工が石の目を見ながら切り出した。そのため正確な四辺形を切るのは難しかったので形が不揃いの石を積み上げその隙間に小石を埋める方法が行なわれている。奥行きの長い石を使って奥で重なり合うようにしている。石積みの方法は、野面積み、乱れ積み、と呼ばれより整然と石を切って積む方法が打ち込み接ぎが、更にはより精密な石積み技法の切り込み接ぎが発達した
20、唐破風と千鳥破風とは
日本の建築で屋根の切妻についている合掌形の装飾板、それのついているところ
南北の唐破風と四方の千鳥破風は室町時代の桃山式の城郭建築の特徴、
14、熊本城の天守は復元天守である。
昭和35年に熊本市の篤志家の寄付金を基に復元された
15、炎上したときの本当の理由
22、天守閣焼失の火災原因は果たして本当か今一番有力な説は
熊本城炎上については諸説があるが、薩軍の総攻撃が始まる3日前の明治10年(1877)2月19日午前11時頃熊本鎮台の司令長官谷千城の命により兵に篭城を覚悟させるため参謀児玉源太郎に火をつけさせたという説が有力になっている。
19.どこが復原した部分か
平成の大普請というべき、清正時代に返るという大規模な再建計画が実施され、本丸御殿大広間を始めとして、御裏五階櫓、南大手門、西大手門、戌亥櫓、元太鼓櫓、未申櫓、数奇屋丸五階櫓、百聞櫓、飯田丸五階櫓等々が復原されている。
13、復原の理由は
肥後の歴史を忘れないように、文化振興の観光資源として
24、小天守は豊臣秀頼を迎えるための用意というのは本当か
本丸御殿が秀頼を迎えるためといわれている。御殿は平面的には二分割され西側から照君の間、若松の間、桐の間、帳合の間、蘇鉄の間,円扇の間が藩主の居間部分で、桜の間、梅の間、雪の間、家老の間、露の間が体面所であり、照君の間が中心で、鉤上段を設け左側に付書院と棚、正面に床と棚、右側に納戸棚、天井には共に狩野源七・外記の装飾画あり、帳合の間は女の髪の毛で編まれた梯子で暗がり通路へ降りられ不開門から城外へ出られた設計であった。照君の間は加藤清正が豊臣家の子飼の武将であり、秀吉の子秀頼をいざと言う時にはこの熊本城に迎え入れるためにこの照君の間を作ったと云われている。
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