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第五高等学校の歴史のエピソードを調べていたところ小林旭の北帰行は旅順高等学校の寮歌であったということが判ったのでそれを調査してみた。
窓は夜露に濡れて
都すでに遠退く
北へ帰る旅人ひとり
涙流れて止まず
夢は虚しく消えて
今日も闇をさすらう
遠き思いはかなき望み
恩愛われを去りぬ
今は黙してゆかん
何をまた語るべき
さらば祖国いとしき人よ
あすはいずこの町か
・・・・・・・
旅順高等学校――――
日本で一番新しく、昭和十五年四月、中国大陸遼東半島の南端に開校、二年後に本校舎と寮が完成した。その名は「向陽学寮」五年の校史、太平洋戦争と運命を共にし日本で最初に姿を消した高等学校であった。大陸雄飛を夢見る学徒が玄界灘の荒波を越えて遣ってきた。北紀行の作者は宇田博・・旅順高を退学になり奉天の実家に帰るために作った歌である。
作詞・作曲:宇田 博、唄:小林 旭
1 窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙流れてやまず
2 夢はむなしく消えて
今日も闇をさすろう
遠き想いはかなき希望(のぞみ)
恩愛我を去りぬ
3 今は黙して行かん
なにをまた語るべき
さらば祖国愛しき人よ
明日はいずこの町か
明日はいずこの町か
原曲(旅順高等学校寮歌)
1 窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人一人
涙流れてやまず
2 建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし
3 富も名誉も恋も
遠きあくがれの日ぞ
淡きのぞみ はかなき心
恩愛我を去りぬ
4 我が身容(い)るるに狭き
国を去らむとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か
5 今は黙して行かむ
何をまた語るべき
さらば祖国 わがふるさとよ
明日は異郷の旅路
明日は異郷の旅路
この歌が誕生したのは、昭和16年(1941)5月のことです。作者は、当時、旧制旅順高等学校の2年生だった宇田博。宇田は鬱勃たる反逆心を抑えきれず、規則を破ることに喜びを感じるようなタイプだったようです。
旧制中学4年次修了後、旧制一高(現東大教養学部)を受験するも失敗、満州・奉天(現在の瀋陽)の親元に帰って、新京(現在の長春)にあった建国大学の予科に入学しましたが、校則違反で放校、親のすすめで、当時、旅順(現在大連市の一部)に設立されたばかりの旅順高校に入学しました。
旧制高校も大学予科も、大学で専門教育を受ける基礎となる教養教育を施す場で、現在の大学一般教育課程に相当します。しかし、その教育レベルは、今の一般教育課程とは比較にならないほど高かったようです。
満州国は、帝国主義日本が中国東北部にでっちあげた傀儡(かいらい)国家であり、建国大学も旅順高校も、当然のことながら、日本の敗戦とともに廃校になりました。旅順高校はたった5年の命で、「最後の旧制高校」となりました。
それはさておき、旅順高校に入っても、宇田の反逆心は収まりません。彼はまもなく、文房具屋の娘のサッチャンという女性と親しくなります。サッチャンは、背は低かったけれども(ハイヒールを履いても150センチぐらいしかなかったそうです)、すばらしい美人でした。
開校記念日で休みだった昭和16年5月5日、宇田はサッチャンと映画を見たあと、いっしょに酒を飲んでしたたかに酔い、終バスで帰るところを、高校の教官に目撃されてしまいます。
当時、旅順高校の生徒は飲酒も異性交遊も禁止されており、宇田の場合は、これに寮の門限破りも加わりました。内地の旧制高校では、かなりおおらかな面がありましたが、旅順高校は新設されたばかりだったためか、校則は厳しく適用されました。翌日、宇田は生徒課に呼ばれ、素行不良により放校の申し渡し。
彼は、奉天の親元に帰ることにしましたが、その前の1週間、旅館に泊まって、「敗北と流離の思い」を込めて5聯の歌を書き上げました。それがこの『北帰行』です。宇田は、旅館に親しい友人たちを呼び、その歌を披露しました。友人たちは涙しながら、口伝えでその歌を覚え、歌詞を書き写したといいます。
のちにこの歌の作者捜しが行われたとき、友人の1人がもっていた写しが決め手となり、宇田が作者と判明しました。
宇田は昭和20年3月、旧制一高から東大に進み、卒業後東京放送(TBS)に入社、のちに常務になりました。
この歌にまつわるドラマは、まだ続きます。
小林旭のために新しい歌を探していた辣腕の歌謡曲プロデューサー馬淵玄三は、新宿の歌声喫茶で、ある歌が若者たちに好んで歌われているという話を聞き込みました。昭和36年(1961)のことです。
歌声喫茶に出かけた馬淵は、『北帰行』を聴いて「これはいける」と直感、専門家に採譜・アレンジしてもらい、小林に歌わせたのです。彼の直感は当たり、この年の大ヒットとなりました。
私見をいえば、小林旭の歌はちょっと違うんじゃないか、という感じがします。日活映画「渡り鳥シリーズ」のイメージが強いために、小林旭が歌うと、「流れ者のさすらい歌」のようになってしまい、原曲がもつ「知的無頼を気取る青年の挫折」ようなものが感じられないのです。
しかし、作者の宇田自身は小林旭の歌唱が非常に気に入っていたようで、「おれが死んだら、お経も何もいらない、この歌を流してくれ」と、家族や友人たちにいっていたそうです。
『北帰行』とは関係ありませんが、馬淵玄三は、五木寛之の小説『艶歌』のモデルとされている人物です。小説のなかで、馬淵は「艶歌の竜」と異名をとる凄腕のプロデューサー・高円寺竜三として描かれています。
これを映画化した日活映画『わが命の唄・艶歌』では、芦田伸介が高円寺竜三、その敵役(かたきやく)のプロデューサーを、冷徹な人物を演じたら並ぶ者のない佐藤慶が演じました。私にとっては印象に残る映画の1つです。
上の曲は、原曲に合わせて5番まで歌うようにアレンジしてあります(4番で移調)。
(二木紘三)
窓は夜露に濡れて
都すでに遠退く
北へ帰る旅人ひとり
涙流れて止まず
夢は虚しく消えて
今日も闇をさすらう
遠き思いはかなき望み
恩愛われを去りぬ
今は黙してゆかん
何をまた語るべき
さらば祖国いとしき人よ
あすはいずこの町か
・・・・・・・
旅順高等学校――――
日本で一番新しく、昭和十五年四月、中国大陸遼東半島の南端に開校、二年後に本校舎と寮が完成した。その名は「向陽学寮」五年の校史、太平洋戦争と運命を共にし日本で最初に姿を消した高等学校であった。大陸雄飛を夢見る学徒が玄界灘の荒波を越えて遣ってきた。北紀行の作者は宇田博・・旅順高を退学になり奉天の実家に帰るために作った歌である。
作詞・作曲:宇田 博、唄:小林 旭
1 窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙流れてやまず
2 夢はむなしく消えて
今日も闇をさすろう
遠き想いはかなき希望(のぞみ)
恩愛我を去りぬ
3 今は黙して行かん
なにをまた語るべき
さらば祖国愛しき人よ
明日はいずこの町か
明日はいずこの町か
原曲(旅順高等学校寮歌)
1 窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人一人
涙流れてやまず
2 建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし
3 富も名誉も恋も
遠きあくがれの日ぞ
淡きのぞみ はかなき心
恩愛我を去りぬ
4 我が身容(い)るるに狭き
国を去らむとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か
5 今は黙して行かむ
何をまた語るべき
さらば祖国 わがふるさとよ
明日は異郷の旅路
明日は異郷の旅路
この歌が誕生したのは、昭和16年(1941)5月のことです。作者は、当時、旧制旅順高等学校の2年生だった宇田博。宇田は鬱勃たる反逆心を抑えきれず、規則を破ることに喜びを感じるようなタイプだったようです。
旧制中学4年次修了後、旧制一高(現東大教養学部)を受験するも失敗、満州・奉天(現在の瀋陽)の親元に帰って、新京(現在の長春)にあった建国大学の予科に入学しましたが、校則違反で放校、親のすすめで、当時、旅順(現在大連市の一部)に設立されたばかりの旅順高校に入学しました。
旧制高校も大学予科も、大学で専門教育を受ける基礎となる教養教育を施す場で、現在の大学一般教育課程に相当します。しかし、その教育レベルは、今の一般教育課程とは比較にならないほど高かったようです。
満州国は、帝国主義日本が中国東北部にでっちあげた傀儡(かいらい)国家であり、建国大学も旅順高校も、当然のことながら、日本の敗戦とともに廃校になりました。旅順高校はたった5年の命で、「最後の旧制高校」となりました。
それはさておき、旅順高校に入っても、宇田の反逆心は収まりません。彼はまもなく、文房具屋の娘のサッチャンという女性と親しくなります。サッチャンは、背は低かったけれども(ハイヒールを履いても150センチぐらいしかなかったそうです)、すばらしい美人でした。
開校記念日で休みだった昭和16年5月5日、宇田はサッチャンと映画を見たあと、いっしょに酒を飲んでしたたかに酔い、終バスで帰るところを、高校の教官に目撃されてしまいます。
当時、旅順高校の生徒は飲酒も異性交遊も禁止されており、宇田の場合は、これに寮の門限破りも加わりました。内地の旧制高校では、かなりおおらかな面がありましたが、旅順高校は新設されたばかりだったためか、校則は厳しく適用されました。翌日、宇田は生徒課に呼ばれ、素行不良により放校の申し渡し。
彼は、奉天の親元に帰ることにしましたが、その前の1週間、旅館に泊まって、「敗北と流離の思い」を込めて5聯の歌を書き上げました。それがこの『北帰行』です。宇田は、旅館に親しい友人たちを呼び、その歌を披露しました。友人たちは涙しながら、口伝えでその歌を覚え、歌詞を書き写したといいます。
のちにこの歌の作者捜しが行われたとき、友人の1人がもっていた写しが決め手となり、宇田が作者と判明しました。
宇田は昭和20年3月、旧制一高から東大に進み、卒業後東京放送(TBS)に入社、のちに常務になりました。
この歌にまつわるドラマは、まだ続きます。
小林旭のために新しい歌を探していた辣腕の歌謡曲プロデューサー馬淵玄三は、新宿の歌声喫茶で、ある歌が若者たちに好んで歌われているという話を聞き込みました。昭和36年(1961)のことです。
歌声喫茶に出かけた馬淵は、『北帰行』を聴いて「これはいける」と直感、専門家に採譜・アレンジしてもらい、小林に歌わせたのです。彼の直感は当たり、この年の大ヒットとなりました。
私見をいえば、小林旭の歌はちょっと違うんじゃないか、という感じがします。日活映画「渡り鳥シリーズ」のイメージが強いために、小林旭が歌うと、「流れ者のさすらい歌」のようになってしまい、原曲がもつ「知的無頼を気取る青年の挫折」ようなものが感じられないのです。
しかし、作者の宇田自身は小林旭の歌唱が非常に気に入っていたようで、「おれが死んだら、お経も何もいらない、この歌を流してくれ」と、家族や友人たちにいっていたそうです。
『北帰行』とは関係ありませんが、馬淵玄三は、五木寛之の小説『艶歌』のモデルとされている人物です。小説のなかで、馬淵は「艶歌の竜」と異名をとる凄腕のプロデューサー・高円寺竜三として描かれています。
これを映画化した日活映画『わが命の唄・艶歌』では、芦田伸介が高円寺竜三、その敵役(かたきやく)のプロデューサーを、冷徹な人物を演じたら並ぶ者のない佐藤慶が演じました。私にとっては印象に残る映画の1つです。
上の曲は、原曲に合わせて5番まで歌うようにアレンジしてあります(4番で移調)。
(二木紘三)
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