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旧制第五高等学校の建造物と保管されている史料について以下の文書が学芸員講座に参加して自主調査レポートとして提出するように40字の30行、12ポジで2000字程度で纏めるようと希望してある,以下の概要は俺のレポートのまとめの主旨である。
五高記念館を明治文化の発信地にする希望を持って、熊本市国際観光案内ボランテイアガイドに参加している。国立大学の独立行政法人化に伴い記念館は熊本の文化・歴史の発信地になった。
平成22年(2010)12月には博物館相当施設として指定された。国立大学の独立行政法人化以降はユニバーシティ・ミュージアムの核として歴史観光の情報発信基地として充実している。
五高記念館は第五高等中学校の教室として、一年半の工期を要して明治22年(1889)8月に完成した赤レンガの建物でイギリスのクイーン・アン様式に習った言われ明治期の熊本を代表的建物である。本館(284坪 940㎡)は煉瓦と自然石(安山岩)を積み上げた組積造で、現代の鉄筋コンクリート建築と違い、煉瓦の厚い壁が建物を支え屋根は日本瓦が使用され左右対称の形で、階段の手摺りや窓などに明治の西洋風の特徴がある。
記録よれば土台の石材には石神山の島崎石が使用され、煉瓦は細川家菩提寺泰勝寺の東側に煉瓦製造所を設置して焼いたもので、更に基礎は深さ9尺(約3m)に及ぶ白川から揚げた栗石が敷きつけられたとある。
建物の天井は高く館内にはもちろん冷暖房装置は設置されていない、しかし見学者は一端入れば館内には柱がないこと、冬期は外気より1~2度は高く暖かく反対に夏季は1~2度は低く涼しく感ぜられ、その上湿気、乾燥も殆ど感ぜられないことに驚かれる。それはあたかも古代の校倉造を連想させる。
館内には五高の60余年に亙る関係史料が大量に保管されている。これを紐解いて見るだけでも明治以来の世情がうかがわれ読んで行くだけでも面白い。建造物ともども後世に残していきたい一級の史料であろうと考える。
明治22年7月28日の地震では民家等の倒壊により圧死者、負傷者が多数あったが、本館には些かの被害もなかったのでこの建造物の評判が高まり、そのため観光コースにも入っていたという。
高い天井を支えている分厚い壁は五高の建造物の特徴であるし見る人を圧倒する。明治期では九州における最高学府として熊本県の誇りでもあった。
この学舎から後の日本の柱石になった多数の優れた人材を輩出していることは出入口の磨り減った石段や欅の階段が歴史の重みやその長さを無言のうちに物語っている、
この地域一帯に存在する優れた地域資源、細川家菩提寺泰勝寺始め三代が眠る小峯墓地・リデル・ライト記念館、神風連の遺品のある桜山神社等々の掘り起こしを行い、これらの遺跡等を引き込んで五高記念館を中心とした熊本市内東部地区の歴史観光資源として、文化歴史発信地として何時までも後生に伝えて行きたい地域である。
参考文献としては五高五〇年史、七〇年史が中心である
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