普段、熊本城へ入るには行幸橋を渡らねばならない、この行幸橋の麓に加藤清正の銅像が設置されているが、その右側横にひっそりと昭和三十三年に設立された林市蔵の胸像がある。加藤清正が熊本城を造ってから400年になるので特に清正の像は観光客もすぐ注目するものであるが、その右横にある林市蔵の胸像に気がつく人は少ない。櫨方門からの入城して城内巡りする場合はこの清正像の前付近が集合場所である。特に修学旅行生徒諸君などはこの林市蔵の胸像を発見した時には、このおじさんはどんな人ですかという質問をよく受ける。
ここでは林市蔵についてその略歴等を紹介しよう。林市蔵は慶応三年(一八六七)十一月二十八日熊本市横手(当時は飽田郡横手村高麗門と言った)に細川藩士の子として生まれた。済々黌から五高(当時は第五高等中学と言っていた)一部法科を明治二十六年第二回卒業生として卒業した。(この第二回卒業生には赤星典太もいた。林と赤星は熊本が生んだ傑物といわれた)、明治二十九年東京帝国大学法学部を卒業した。帝大卒業後は内務官僚として広島県・新潟県の内務部長を務め、又三重県・山口県の知事を務めた。大正六年(一九一七)大阪府知事に就任した時は米騒動の最中で、物価高騰は民衆の間に貧富の差を招いた。米価の高騰で明日の飯さえ食えないと言う者が多くあった。林知事は町内の世話を無報酬で行う方面委員の制度を創立して、隣人愛のための方面事業を始めた。所謂現在の民生委員制度の発足である。大阪府知事在任期間二年半の間に公設市場を設けて、民生委員の事業の振興を図った。官僚辞任後は財界へ転じて日本信託銀行頭取、大阪米穀取引所理事長、熊本電気会長などを歴任した。昭和二十七年(一九五二)二月十七日死去。民生委員の父といわれる。熊本県近代文化功労者、雅号は一象 参考文献 熊本大事典から転載する (tH)
ここでは林市蔵についてその略歴等を紹介しよう。林市蔵は慶応三年(一八六七)十一月二十八日熊本市横手(当時は飽田郡横手村高麗門と言った)に細川藩士の子として生まれた。済々黌から五高(当時は第五高等中学と言っていた)一部法科を明治二十六年第二回卒業生として卒業した。(この第二回卒業生には赤星典太もいた。林と赤星は熊本が生んだ傑物といわれた)、明治二十九年東京帝国大学法学部を卒業した。帝大卒業後は内務官僚として広島県・新潟県の内務部長を務め、又三重県・山口県の知事を務めた。大正六年(一九一七)大阪府知事に就任した時は米騒動の最中で、物価高騰は民衆の間に貧富の差を招いた。米価の高騰で明日の飯さえ食えないと言う者が多くあった。林知事は町内の世話を無報酬で行う方面委員の制度を創立して、隣人愛のための方面事業を始めた。所謂現在の民生委員制度の発足である。大阪府知事在任期間二年半の間に公設市場を設けて、民生委員の事業の振興を図った。官僚辞任後は財界へ転じて日本信託銀行頭取、大阪米穀取引所理事長、熊本電気会長などを歴任した。昭和二十七年(一九五二)二月十七日死去。民生委員の父といわれる。熊本県近代文化功労者、雅号は一象 参考文献 熊本大事典から転載する (tH)
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