火曜日は例の如く週一回の五高記念館への出勤した。30分ほど早く出て赤煉瓦校舎はじめ日曜日に購入したデジカメで構内を写して回った。しかし冷たく寒く自分の気に入る物が出来ることは何時のことや期待できない感じであった。事務室では常に外国へ行かれる彼女はお休みであった。俺は資料室で何か目新しい資料はないかと探してみたが、戦後の学制改革で五高に女性の入学が認められた最初の女子生徒永畑道子氏の白蓮と晶子・・・・大正の女と現代の女性たち 永畑道子S24文修・・・に出会った。この文章はかって全国五高会報に投稿されたもののようであった。以下にその冒頭部分を掲げ、来週、再来週、しばらく五高記念館へ出て来てこれを転載することにしたい。
白蓮と晶子 ・・・・大正の女と現代の女性たち 永畑道子S24文 修
最初に「現代の女性』について私の卒直な感じをお話したいと思いますが、今の女たちは昔の女に比べると大変変貌いたしております。私は明治の女性史を書いたときにそう思ったのですが、男に養われることを期待せず自らが生活者、そういう強い生き方で地を這うように働いた女性たちの印象でとらえました。
当時頻発した飢饉や天災のとき、男は真っ先に家や子供を棄てて蒸発、踏み留まっていたのは殆ど女性で老人を養い子供を背負って働いた。それを私は「野の友」と呼びますがこれはもちろん大衆の女です。上流階級の女は正妻の座をいつ妾に奪われるかわからず非常に弱い生き方をしています。これに対し大正の女を、私は「炎の女」と呼びます。恋愛にしても生き方にしても炎のように燃えたという感じがします。
その大正から昭和の戦中、さらに戦後十年くらいは女たちは男に劣らず頑張っていたと思います。
白蓮と晶子 ・・・・大正の女と現代の女性たち 永畑道子S24文 修
最初に「現代の女性』について私の卒直な感じをお話したいと思いますが、今の女たちは昔の女に比べると大変変貌いたしております。私は明治の女性史を書いたときにそう思ったのですが、男に養われることを期待せず自らが生活者、そういう強い生き方で地を這うように働いた女性たちの印象でとらえました。
当時頻発した飢饉や天災のとき、男は真っ先に家や子供を棄てて蒸発、踏み留まっていたのは殆ど女性で老人を養い子供を背負って働いた。それを私は「野の友」と呼びますがこれはもちろん大衆の女です。上流階級の女は正妻の座をいつ妾に奪われるかわからず非常に弱い生き方をしています。これに対し大正の女を、私は「炎の女」と呼びます。恋愛にしても生き方にしても炎のように燃えたという感じがします。
その大正から昭和の戦中、さらに戦後十年くらいは女たちは男に劣らず頑張っていたと思います。
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