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写真は坪井川沿いの長塀を竹の丸側から眺める
16、熊本城天守が多い理由は何か
18、天守が必要な理由は
熊本城の構成について
加藤清正の肥後入国後の天正十九年(1591)建設を始める。佐々成政の居城を改造し茶臼山に計画する。ここの地形は熊本の北部から続く丘陵地の南部で西に井芹川、南に坪井川と白川が合流する地点である。これ等の自然の地形を利用して城は坪井川の北の丘陵地で東が高く西に低くなった地形である。この最も高くなった東に新城を計画し、最も西の低くなった所にあった古城(佐々成政)の居城を御殿とした。
本丸部分は天正末期から文禄期に造られた部分で、本丸は東西通路で北郭と南郭に二郭に別れ、天守・小天守は北郭の西北部に、これ等の東に御裏五階櫓の設置、南郭に小広間、小広間西三階櫓、月見櫓、本丸東三階櫓の各出隅に設置、
創建当初、本丸郭は周辺部に三階から五階櫓が設けられ、中心部は時代が下がるものと想われる。御殿は古城に存在したからである。当初の本丸は天守郭と考えられ東側の東櫓門が正門で、城の北部に当る場所が侍屋敷で北側からの景観が重視され、小天守は大天守と南北に並ぶが西側にずれているのはこの為である。
慶長六年(1601)本丸の西から南にかけて、二の丸増築され北より加藤平左衛門屋敷、数奇屋丸、飯田覚兵衛屋敷、の重臣の屋敷にも五階櫓が設けられた。
平左衛門五階櫓(宇土櫓)、数奇屋丸五階櫓、西竹の丸五階櫓(飯田丸五階櫓)
最も高い東に本丸を順次西に低くなって二の丸、出丸、三の丸、を位置する階郭式
で本来東向きの城であった。城内に於ける清正の居室は小天守であり、天守・小広間、月見櫓で、その後古城の御殿を廃して、本丸内に広間、書院、台所が建築され正式対面所の広間は東向きに建てられた。熊本城完成時には東向きから西向きに変えられ西大手門と頬当御門が改造して作られた。
寛永九年(1632)加藤氏改易、細川氏の入国、坪井川を隔てた花畑屋敷を国許屋敷にに決めた。即ち他の城郭に見られる西の丸が花畑屋敷である。下馬橋が整備されると櫨方門が重視され南向きの熊本城になった。
熊本城の経緯
肥後は15世紀の中頃まで菊池一族と阿蘇一族の二大豪族により支配されていた。菊池の系列の出田秀信によって現在の熊本城が立っている。熊本城の始まりは茶臼山の東端に砦が築かれ、これを千葉城と呼んでいた。出田の滅亡後鹿子木親員が千葉城を継ぎ、拡張、移転する。その後豊後の大友が肥後を支配する。大友に協力した城が三代に渡り居城とする。豊臣秀吉の九州制圧で佐々成政が領主になる。佐々は勝手に検地を行い秀吉の逆鱗にふれ切腹させられる。加藤清正の入城、大改築を行い現在の熊本城になる。
16、熊本城天守が多い理由は何か
18、天守が必要な理由は
熊本城の構成について
加藤清正の肥後入国後の天正十九年(1591)建設を始める。佐々成政の居城を改造し茶臼山に計画する。ここの地形は熊本の北部から続く丘陵地の南部で西に井芹川、南に坪井川と白川が合流する地点である。これ等の自然の地形を利用して城は坪井川の北の丘陵地で東が高く西に低くなった地形である。この最も高くなった東に新城を計画し、最も西の低くなった所にあった古城(佐々成政)の居城を御殿とした。
本丸部分は天正末期から文禄期に造られた部分で、本丸は東西通路で北郭と南郭に二郭に別れ、天守・小天守は北郭の西北部に、これ等の東に御裏五階櫓の設置、南郭に小広間、小広間西三階櫓、月見櫓、本丸東三階櫓の各出隅に設置、
創建当初、本丸郭は周辺部に三階から五階櫓が設けられ、中心部は時代が下がるものと想われる。御殿は古城に存在したからである。当初の本丸は天守郭と考えられ東側の東櫓門が正門で、城の北部に当る場所が侍屋敷で北側からの景観が重視され、小天守は大天守と南北に並ぶが西側にずれているのはこの為である。
慶長六年(1601)本丸の西から南にかけて、二の丸増築され北より加藤平左衛門屋敷、数奇屋丸、飯田覚兵衛屋敷、の重臣の屋敷にも五階櫓が設けられた。
平左衛門五階櫓(宇土櫓)、数奇屋丸五階櫓、西竹の丸五階櫓(飯田丸五階櫓)
最も高い東に本丸を順次西に低くなって二の丸、出丸、三の丸、を位置する階郭式
で本来東向きの城であった。城内に於ける清正の居室は小天守であり、天守・小広間、月見櫓で、その後古城の御殿を廃して、本丸内に広間、書院、台所が建築され正式対面所の広間は東向きに建てられた。熊本城完成時には東向きから西向きに変えられ西大手門と頬当御門が改造して作られた。
寛永九年(1632)加藤氏改易、細川氏の入国、坪井川を隔てた花畑屋敷を国許屋敷にに決めた。即ち他の城郭に見られる西の丸が花畑屋敷である。下馬橋が整備されると櫨方門が重視され南向きの熊本城になった。
熊本城の経緯
肥後は15世紀の中頃まで菊池一族と阿蘇一族の二大豪族により支配されていた。菊池の系列の出田秀信によって現在の熊本城が立っている。熊本城の始まりは茶臼山の東端に砦が築かれ、これを千葉城と呼んでいた。出田の滅亡後鹿子木親員が千葉城を継ぎ、拡張、移転する。その後豊後の大友が肥後を支配する。大友に協力した城が三代に渡り居城とする。豊臣秀吉の九州制圧で佐々成政が領主になる。佐々は勝手に検地を行い秀吉の逆鱗にふれ切腹させられる。加藤清正の入城、大改築を行い現在の熊本城になる。
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