龍南雑誌は二百号まで時の編集者井上縫三郎氏が創刊号以来の小史を纏めておられるがそれから七十年、二百一号から二百五十四号の最終まで纏めてみた(T-higashi)
昭和二年度(二百一号ー二百四号)
委員―北之園寛繁、長屋肇、松井武夫、富成喜馬平、犬養孝、
創作については停滞の傾向にあったようだ短歌の宮島真一氏は後に上田沙丹の龍南物語を再販している。また石坂正蔵氏も詩歌に精を出し戯曲に森本健吉氏の顔も見える、岩下勝太郎氏の詩の新傾向については学校当局によって掲載不能になったと云うことで、理由を調べる必要もあるようだ。
昭和三年度(二百五号ー二百八号)
委員―桑瀬良、坂本浩、佐々木克、永積安明、村岡示申武
論文に目新しいものあり、泉三郎氏「哲学の階級性」山田昌司氏の「文学の社会性につい
て」等は将来の研究家への道を暗示している。小説の応募多く、懸賞応募の作品の為であ
る。昭和四年五月十六日に開催された松岡譲氏の講演「漱石先生の思い出」は二百六号に
掲載され「僕達が小説を読む時にはその小説そのものを読みその中に没入して愉快を成す
のが一般の人には小説の中のことを実際上の事を関係づけて喜んでいる」と結んである。
昭和四年度(二百九号ー二百十二号)
委員―緒方茂夫、田辺猛、鵜殿新一、松村二郎、小林章、
相変わらず小説は多い。これは懸賞作品の応募が行われる為でその練習作であろうか、後の映画監督になった安達伸夫氏が「かもめ」と言う小説を表しその片鱗が覗える。短歌、句は相変わらず盛んで龍南の足元を眺めたものが多い。
昭和五年度(二百十三号ー二百十六号)
委員―上妻斎、水谷啓二、平木恭三郎、福田令人、小林章、
この時代生徒の中には龍南雑誌に投稿してもつまらないと言う風潮が蔓延っていたそうで、そのためさっぱり原稿が集まらない事を編集委員は嘆いている。生徒は小説を書いたり、詩を作ったりするより大学試験に気をとられてしまっている。しかし第二百十五号に新渡戸稲造氏の特別大講演会の記録は今後の龍南会雑誌の発行を占う可能性を秘めた紙数を取っている。
昭和六年度(二百十七号ー二百二十号)
委員―岩永武夫、朽葉幹生、佐々木清亮、桑原謙之、大森弘正、
この時代編集委員の交替が行われているがやはり詩歌・句等の原稿が集まらなく、旧稿か
ら岩永武夫氏の「友の死」を持ってきている。渡邊格司教授の評価では既に小説家として大
成の感がある中井正文氏の戯曲への転向は小説に比べて明るさや朗らかさが失われている
との批評がある。新機軸の出し物として注目されるのは今迄理科生には疎遠であった感の
あった龍南であるため杉野茂及び桑原謙之の両氏の科学関係論文は今後の理科生の発表の
場として期待する。この昭和六年に世界的にスペイン風邪が猛威を振るっている。
昭和七年度(二百二十一号ー二百二十三号)
委員―多田隈卓郎、馬場強、中井正文、岩田武、海域済、
編集委員の交代故からかこの二百二十一号用の原稿は多く集まったそうである。しかし質
の方面で他人の真似事のような作品がありと編集員は困っている。表紙画ならびにカット
の応募が無かったことは残念であったと言う編集委員のコメントも述べられている。この
年の三回の発行が遠い将来への理想に向かって続けられて行くである事を考え、来る年の
新委員によって新しい意気と実力をもって活動してくれることを祈念していると中井編集
委員は感想を述べ新編集委員と交代している。
昭和八年度(二百二十四号ー二百二十六号)
委員―中島五太、中村信一、松井武州、海域済、柴田仁、
第二百二十四号では経費の関係で創作、詩、歌、句、の数編を割愛したこと。学生間で龍南に対し不平を言うものが多く腹を立てないで龍南を育ててくれと編集者は叫んでいる。その後の異人屋敷の柴田氏、短歌の岩中芳国、中島伍大は龍南誌上では最大ではなかろうか。この時期では梅崎春生の詩が見られ、二百二十七号には歴史主義から溌剌たる若さに乗り換える試みがなされている龍南は全龍南人のものであるということが強調されエッセイに後の美術評論家河北倫明氏の「キリコに関する一考察」は目を引く。
昭和九年度(二百二十七号ー二百二十九号)
委員―松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘、
予算が少なく作品を出す顔触れは同じ者ばかりということで、年に三回の発行になって既
に三年になるが相変わらず作品数は少なく全龍南人の雑誌である筈であるが関心を持つ者
は少なく作品にしても以前に比べて質は墜ちるし、なかなか優れた作品は出て来ないと編
集委員は嘆き、そのため編集委員が紙面を埋めている。ここでは後の小説家梅崎春生が編
集委員になっている。
昭和十年度(二百三十号ー二百三十二号)
委員―伊喜見隆吉、東明雅、楠田郁夫、藤田忠、阿部辰男(四月死亡退学)、
梅崎春生は五高時代から既に詩人としての地位が確立していたようで二百三十三号の編集
後記では卒業が惜しまれていることが述べられている。ここでは二年間六回の編集に携さ
わっているここでは梅崎の最後の編集後記を掲げる。
〈前略〉今より後は我々のよき後続部隊が今にもまして元気で進軍ラッパを吹き続けてく
れることだろう。龍南文芸復興も真近かに違いない。ともあれ、我々はここに最後のピリ
オドを打つ詩、歌、句は今迄にない多数の投稿があった誠に悦ぶべき現象である。〈中略〉
私の意見を概に言えば最後の投稿に限らず何時までもそうであろうが、龍南の詩歌句には
意欲が貧しい小感情の完成を求め逃避、感情の詠うことに志はすれ絶望の中から立ち上が
る強烈な意見を疾風の中にひるまぬ決然たる風貌を歌い出るものは誠に寂々たるものであ
る。あらゆる文芸作品の底にのたうつものは常に反逆の精神となければならぬ、我々はま
だ若いではないかそれ故我々は野心的でなければならぬ白く鮮やかなスタートラインを引
け末梢的な感性を研ぎ澄ますのを止め巨大な鱶の如く牙をむいて大なるものへの感傷の姿
勢を取れ〈後略〉
昭和十一年度(二百三十三号ー二百三十五号)
委員―前田可博、加藤一雄、平戸嘉信(裕人)、長尾寿雄、尾越孝人(尾越は三月退学)、(長尾は四月休学)
五高ルネッスサンスが叫ばれているこの時代雑誌部の編集委員では梅崎春生はこの時代文
才に抜きん出ていたようであり卒業を惜しまれ五高生活を去っている。その他にも長尾澄
雄、尾越孝人。長尾憲雄等々も惜しまれているようであるが、相変わらす龍南に対しての
学生の反応は冷淡である。掲載する作品に対しての編集者は選者として論文・漢詩・に高
森良人教授。随筆を相原相之進教授、創作に丸山教授、詩・俳句・短歌を上田英夫教授に
依頼している。
昭和十二年度(二百三十六号ー二百三十九号)
委員―竹内良知、足立正治、古賀廉造、加冷隆美、長屋憲雄(長尾は五月退学、二百三十八号の編集は平戸裕人が参加)
この時代創作の長尾寿雄の作品が多く自分の病気多分肺結核であろうと思うが、転地療養のため熊本を離れるまで編集に努力するとしている。生活のない形骸ばかりの高校生が多いと云われている時、文学することは広義の意味で生活の探求であり主張でなければならない。二百三十八号は五高五十周年記念号であり巻頭言に雑誌部長八波則吉教授自らの執筆、十時校長の所感が飾り、松浦寅二郎元校長の祝詞、吉岡卿甫元校長の龍南回顧、ハーンの九州学生・・・、近藤真澄元教授の追憶、山田準元教授の三十九年前の回顧、佐々弘雄氏の心の追憶、上林暁氏の耶馬渓の墓等々があり後の左翼運動で活躍した江口渙氏の隋筆〈蟻〉が目に付くか、
昭和十三年度(二百四十号―四十二号)
委員―竹内良知、古賀廉造、中原淳吉、
この時代の龍南に対する学生の態度は冷淡で懸賞号にさえ作品の応募は少なくたとえば上
野裕人の編集後記を見れば、二年間の病床生活で、その時期に短歌、詩等に興味を持った
ことが述べられている。応募作品が少ないことで編集委員の作品で同人化のではないかと
思える冊子になっているが決してそんなことではない。目新しいものでは言語学上の論文
と中国語の文芸翻訳の戯曲が見られる。一年生の作品「恋」は部長の意見で「姉妹」は紙面の都合で割愛したことが述べられているが、割愛された「さんびか」は次の号で搭載されてきていることは作品の提出が少なかったことの証左ではあるまいか。
昭和十四年度(二百四十三号ー二百四十五号 )
委員―上野裕人、後藤伝一郎(狷士)、
先ごろから五高生の龍南であるが、何か一部の者の同人誌的ないなっているとの批判も多
いが、そのためここでは事変下の現在の五高生の教養の程度を世間に知らしめる為提出さ
れた作品の大半を載せている、読み、考え、論じ、書く、ことが何よりも大切である事を
強調、要するに五高生の文化運動に対する熱意の欠如を嘆いている。「龍南」は龍南人の全
部から応募してもらい我々五高生の血ではぐくみ育て行きたいものである。しかし何回も
云うように編集者自ら応募せざるを得ない、特に理科生の文化運動に無関心さには余りに
も情けなく感じる。
昭和十五年度(二百四十六号ー二百四十七号)
委員―大関徳道、後藤伝一郎(狷士)、
昭和十五年に入ると二月十一日には龍南会より阿蘇道場の寄贈があり、教官が龍南雑誌に関心を向けることも儘ならず、しかしこの時代には後の熊大教授になっているその五高時代の姿が見られることは何を意味するのだろうか?二百四十六号には詩・断草で堀一雄氏、二百四十七号では小説(Die,kuh)で鹿子木敏範氏、また詩に金子正信氏が見られる。
昭和十六年度(二百四十八号ー二百四十九号)
部長―池田長三郎
委員―今泉素行、宇野太郎、
新体制になり第二百四十八号の巻頭言には添野信校長の報国団予算発表時の訓示の要旨が飾っている。皇国二千六百年記念作文の募集が行われ、目に付くのは後の評論家谷川雁氏が「蒔く人・刈る人」を出している。それに竹原教授の中国紀行「北支の印象」が目に付く
昭和十七年度(二百五十号ー二百五十二号)
委員―徳澄正、百合本順太郎、松井、谷川巌、
戦乱は愈々急を告げ皇国、皇国と言う言葉がやたらに目を引く、記事中で目を引いたものには内田健三氏の「新しき倫理」と言うものがある。これも時局を考察したもの、詩歌、短歌にも世界観について書いたものばかりが目に付く。二百五十号では二千六百年敬頌、楠軒学人(高森教授)が北京から寄せ、特に後の評論家谷川雁氏が五高生を取巻く社会との関係を直接に衝くと言った作品が見当たらなかったこと、芸術は魂の卿愁なのか、その創造はまた魂の回帰と言おうか、芸術は内なる声の語る神話か、吾らは真実の玉を胸中深く之を執り出さねばならぬ、ともあれ風をはらんだ帆は巳に甚の船脚を早めている。「龍南」という又五高人の否定であらねばならない。船は港を後にした想うべき港は彼方にあって目前にはない。と編集後記が述べられ、編集の学生も少なくなり二百五十二号では編集後記にも雑誌部長自らの筆になっている。
昭和十八年度(二百五十三号)
委員―徳澄正、百合本順太郎、
いよいよ用紙の補給もままなくなり寮誌との合併問題が起こっている、しかし応募作品は多かったとか、池田長三郎教授はここでは「皇国の道」を表し一人で龍南の灯を消すまいと努力されている。其の他論文では後の大分県知事平松守彦氏の「現代的世界感序論」を纏めている。龍南に対する生徒の関心は高かったのか。詩、短歌、俳句、短編の創作も多い。
昭和十九年度(二百五十四号)
委員―総務委員が編集、
世情は編集委員を担当する学生もいなくなり総務委員が龍南の編集を兼任することになった。この号では学徒出陣に関するもの多く、特に「学徒出陣の記」は学徒出陣壮行会における龍南健児の心意気を示した。代表桟熊獅氏の答辞は出陣する学生の心情を想い涙を誘う。論文は島崎藤村について白砂喜悦郎が纏めている、詩歌は何れもが出陣に関するものが取り上げられ其の他寮報でも七田博の「戦塵」も出陣に関することである。編集後記には龍南を発行する用紙さえままならなくなったので暫くの休刊するという挨拶が述べられている。
第二百五十五号
である筈であるが実際は二百五十三号と記載されている
雑誌部長編集委員・・・・・・総務部
久し振りの『龍南』の発行であるが原稿の応募は少ない。社会思想に関する労う文は全然なく、校長の寄稿もなかったが高森教授の下記に記した概要の今後を占う龍南に寄せてと言う挨拶が掲載されている
戦後になり思想・言論の自由は認められても,印行の路はいよいよ狭く、青年の思想,感情を卒直に表現する機会は依然として乏しく創立六十周年を記念して久方ぶりに龍南が刊行されるのも先輩諸氏の援助の賜物である。五高も学制改革により何れは総合大学に昇格するであろうから施設、其の他充実すべき物については曾ての価値あるものばかりなく「今継ぐべき善きもの」を取捨選択する必要がある一高の向陵の篭城、五高の剛毅朴訥の標榜は其の例である。と編集後記に於いても六十年を迎える校友誌の喜びが語られている
昭和二年度(二百一号ー二百四号)
委員―北之園寛繁、長屋肇、松井武夫、富成喜馬平、犬養孝、
創作については停滞の傾向にあったようだ短歌の宮島真一氏は後に上田沙丹の龍南物語を再販している。また石坂正蔵氏も詩歌に精を出し戯曲に森本健吉氏の顔も見える、岩下勝太郎氏の詩の新傾向については学校当局によって掲載不能になったと云うことで、理由を調べる必要もあるようだ。
昭和三年度(二百五号ー二百八号)
委員―桑瀬良、坂本浩、佐々木克、永積安明、村岡示申武
論文に目新しいものあり、泉三郎氏「哲学の階級性」山田昌司氏の「文学の社会性につい
て」等は将来の研究家への道を暗示している。小説の応募多く、懸賞応募の作品の為であ
る。昭和四年五月十六日に開催された松岡譲氏の講演「漱石先生の思い出」は二百六号に
掲載され「僕達が小説を読む時にはその小説そのものを読みその中に没入して愉快を成す
のが一般の人には小説の中のことを実際上の事を関係づけて喜んでいる」と結んである。
昭和四年度(二百九号ー二百十二号)
委員―緒方茂夫、田辺猛、鵜殿新一、松村二郎、小林章、
相変わらず小説は多い。これは懸賞作品の応募が行われる為でその練習作であろうか、後の映画監督になった安達伸夫氏が「かもめ」と言う小説を表しその片鱗が覗える。短歌、句は相変わらず盛んで龍南の足元を眺めたものが多い。
昭和五年度(二百十三号ー二百十六号)
委員―上妻斎、水谷啓二、平木恭三郎、福田令人、小林章、
この時代生徒の中には龍南雑誌に投稿してもつまらないと言う風潮が蔓延っていたそうで、そのためさっぱり原稿が集まらない事を編集委員は嘆いている。生徒は小説を書いたり、詩を作ったりするより大学試験に気をとられてしまっている。しかし第二百十五号に新渡戸稲造氏の特別大講演会の記録は今後の龍南会雑誌の発行を占う可能性を秘めた紙数を取っている。
昭和六年度(二百十七号ー二百二十号)
委員―岩永武夫、朽葉幹生、佐々木清亮、桑原謙之、大森弘正、
この時代編集委員の交替が行われているがやはり詩歌・句等の原稿が集まらなく、旧稿か
ら岩永武夫氏の「友の死」を持ってきている。渡邊格司教授の評価では既に小説家として大
成の感がある中井正文氏の戯曲への転向は小説に比べて明るさや朗らかさが失われている
との批評がある。新機軸の出し物として注目されるのは今迄理科生には疎遠であった感の
あった龍南であるため杉野茂及び桑原謙之の両氏の科学関係論文は今後の理科生の発表の
場として期待する。この昭和六年に世界的にスペイン風邪が猛威を振るっている。
昭和七年度(二百二十一号ー二百二十三号)
委員―多田隈卓郎、馬場強、中井正文、岩田武、海域済、
編集委員の交代故からかこの二百二十一号用の原稿は多く集まったそうである。しかし質
の方面で他人の真似事のような作品がありと編集員は困っている。表紙画ならびにカット
の応募が無かったことは残念であったと言う編集委員のコメントも述べられている。この
年の三回の発行が遠い将来への理想に向かって続けられて行くである事を考え、来る年の
新委員によって新しい意気と実力をもって活動してくれることを祈念していると中井編集
委員は感想を述べ新編集委員と交代している。
昭和八年度(二百二十四号ー二百二十六号)
委員―中島五太、中村信一、松井武州、海域済、柴田仁、
第二百二十四号では経費の関係で創作、詩、歌、句、の数編を割愛したこと。学生間で龍南に対し不平を言うものが多く腹を立てないで龍南を育ててくれと編集者は叫んでいる。その後の異人屋敷の柴田氏、短歌の岩中芳国、中島伍大は龍南誌上では最大ではなかろうか。この時期では梅崎春生の詩が見られ、二百二十七号には歴史主義から溌剌たる若さに乗り換える試みがなされている龍南は全龍南人のものであるということが強調されエッセイに後の美術評論家河北倫明氏の「キリコに関する一考察」は目を引く。
昭和九年度(二百二十七号ー二百二十九号)
委員―松本文雄、北野裕一郎、梅崎春生、柴田四郎、島田家弘、
予算が少なく作品を出す顔触れは同じ者ばかりということで、年に三回の発行になって既
に三年になるが相変わらず作品数は少なく全龍南人の雑誌である筈であるが関心を持つ者
は少なく作品にしても以前に比べて質は墜ちるし、なかなか優れた作品は出て来ないと編
集委員は嘆き、そのため編集委員が紙面を埋めている。ここでは後の小説家梅崎春生が編
集委員になっている。
昭和十年度(二百三十号ー二百三十二号)
委員―伊喜見隆吉、東明雅、楠田郁夫、藤田忠、阿部辰男(四月死亡退学)、
梅崎春生は五高時代から既に詩人としての地位が確立していたようで二百三十三号の編集
後記では卒業が惜しまれていることが述べられている。ここでは二年間六回の編集に携さ
わっているここでは梅崎の最後の編集後記を掲げる。
〈前略〉今より後は我々のよき後続部隊が今にもまして元気で進軍ラッパを吹き続けてく
れることだろう。龍南文芸復興も真近かに違いない。ともあれ、我々はここに最後のピリ
オドを打つ詩、歌、句は今迄にない多数の投稿があった誠に悦ぶべき現象である。〈中略〉
私の意見を概に言えば最後の投稿に限らず何時までもそうであろうが、龍南の詩歌句には
意欲が貧しい小感情の完成を求め逃避、感情の詠うことに志はすれ絶望の中から立ち上が
る強烈な意見を疾風の中にひるまぬ決然たる風貌を歌い出るものは誠に寂々たるものであ
る。あらゆる文芸作品の底にのたうつものは常に反逆の精神となければならぬ、我々はま
だ若いではないかそれ故我々は野心的でなければならぬ白く鮮やかなスタートラインを引
け末梢的な感性を研ぎ澄ますのを止め巨大な鱶の如く牙をむいて大なるものへの感傷の姿
勢を取れ〈後略〉
昭和十一年度(二百三十三号ー二百三十五号)
委員―前田可博、加藤一雄、平戸嘉信(裕人)、長尾寿雄、尾越孝人(尾越は三月退学)、(長尾は四月休学)
五高ルネッスサンスが叫ばれているこの時代雑誌部の編集委員では梅崎春生はこの時代文
才に抜きん出ていたようであり卒業を惜しまれ五高生活を去っている。その他にも長尾澄
雄、尾越孝人。長尾憲雄等々も惜しまれているようであるが、相変わらす龍南に対しての
学生の反応は冷淡である。掲載する作品に対しての編集者は選者として論文・漢詩・に高
森良人教授。随筆を相原相之進教授、創作に丸山教授、詩・俳句・短歌を上田英夫教授に
依頼している。
昭和十二年度(二百三十六号ー二百三十九号)
委員―竹内良知、足立正治、古賀廉造、加冷隆美、長屋憲雄(長尾は五月退学、二百三十八号の編集は平戸裕人が参加)
この時代創作の長尾寿雄の作品が多く自分の病気多分肺結核であろうと思うが、転地療養のため熊本を離れるまで編集に努力するとしている。生活のない形骸ばかりの高校生が多いと云われている時、文学することは広義の意味で生活の探求であり主張でなければならない。二百三十八号は五高五十周年記念号であり巻頭言に雑誌部長八波則吉教授自らの執筆、十時校長の所感が飾り、松浦寅二郎元校長の祝詞、吉岡卿甫元校長の龍南回顧、ハーンの九州学生・・・、近藤真澄元教授の追憶、山田準元教授の三十九年前の回顧、佐々弘雄氏の心の追憶、上林暁氏の耶馬渓の墓等々があり後の左翼運動で活躍した江口渙氏の隋筆〈蟻〉が目に付くか、
昭和十三年度(二百四十号―四十二号)
委員―竹内良知、古賀廉造、中原淳吉、
この時代の龍南に対する学生の態度は冷淡で懸賞号にさえ作品の応募は少なくたとえば上
野裕人の編集後記を見れば、二年間の病床生活で、その時期に短歌、詩等に興味を持った
ことが述べられている。応募作品が少ないことで編集委員の作品で同人化のではないかと
思える冊子になっているが決してそんなことではない。目新しいものでは言語学上の論文
と中国語の文芸翻訳の戯曲が見られる。一年生の作品「恋」は部長の意見で「姉妹」は紙面の都合で割愛したことが述べられているが、割愛された「さんびか」は次の号で搭載されてきていることは作品の提出が少なかったことの証左ではあるまいか。
昭和十四年度(二百四十三号ー二百四十五号 )
委員―上野裕人、後藤伝一郎(狷士)、
先ごろから五高生の龍南であるが、何か一部の者の同人誌的ないなっているとの批判も多
いが、そのためここでは事変下の現在の五高生の教養の程度を世間に知らしめる為提出さ
れた作品の大半を載せている、読み、考え、論じ、書く、ことが何よりも大切である事を
強調、要するに五高生の文化運動に対する熱意の欠如を嘆いている。「龍南」は龍南人の全
部から応募してもらい我々五高生の血ではぐくみ育て行きたいものである。しかし何回も
云うように編集者自ら応募せざるを得ない、特に理科生の文化運動に無関心さには余りに
も情けなく感じる。
昭和十五年度(二百四十六号ー二百四十七号)
委員―大関徳道、後藤伝一郎(狷士)、
昭和十五年に入ると二月十一日には龍南会より阿蘇道場の寄贈があり、教官が龍南雑誌に関心を向けることも儘ならず、しかしこの時代には後の熊大教授になっているその五高時代の姿が見られることは何を意味するのだろうか?二百四十六号には詩・断草で堀一雄氏、二百四十七号では小説(Die,kuh)で鹿子木敏範氏、また詩に金子正信氏が見られる。
昭和十六年度(二百四十八号ー二百四十九号)
部長―池田長三郎
委員―今泉素行、宇野太郎、
新体制になり第二百四十八号の巻頭言には添野信校長の報国団予算発表時の訓示の要旨が飾っている。皇国二千六百年記念作文の募集が行われ、目に付くのは後の評論家谷川雁氏が「蒔く人・刈る人」を出している。それに竹原教授の中国紀行「北支の印象」が目に付く
昭和十七年度(二百五十号ー二百五十二号)
委員―徳澄正、百合本順太郎、松井、谷川巌、
戦乱は愈々急を告げ皇国、皇国と言う言葉がやたらに目を引く、記事中で目を引いたものには内田健三氏の「新しき倫理」と言うものがある。これも時局を考察したもの、詩歌、短歌にも世界観について書いたものばかりが目に付く。二百五十号では二千六百年敬頌、楠軒学人(高森教授)が北京から寄せ、特に後の評論家谷川雁氏が五高生を取巻く社会との関係を直接に衝くと言った作品が見当たらなかったこと、芸術は魂の卿愁なのか、その創造はまた魂の回帰と言おうか、芸術は内なる声の語る神話か、吾らは真実の玉を胸中深く之を執り出さねばならぬ、ともあれ風をはらんだ帆は巳に甚の船脚を早めている。「龍南」という又五高人の否定であらねばならない。船は港を後にした想うべき港は彼方にあって目前にはない。と編集後記が述べられ、編集の学生も少なくなり二百五十二号では編集後記にも雑誌部長自らの筆になっている。
昭和十八年度(二百五十三号)
委員―徳澄正、百合本順太郎、
いよいよ用紙の補給もままなくなり寮誌との合併問題が起こっている、しかし応募作品は多かったとか、池田長三郎教授はここでは「皇国の道」を表し一人で龍南の灯を消すまいと努力されている。其の他論文では後の大分県知事平松守彦氏の「現代的世界感序論」を纏めている。龍南に対する生徒の関心は高かったのか。詩、短歌、俳句、短編の創作も多い。
昭和十九年度(二百五十四号)
委員―総務委員が編集、
世情は編集委員を担当する学生もいなくなり総務委員が龍南の編集を兼任することになった。この号では学徒出陣に関するもの多く、特に「学徒出陣の記」は学徒出陣壮行会における龍南健児の心意気を示した。代表桟熊獅氏の答辞は出陣する学生の心情を想い涙を誘う。論文は島崎藤村について白砂喜悦郎が纏めている、詩歌は何れもが出陣に関するものが取り上げられ其の他寮報でも七田博の「戦塵」も出陣に関することである。編集後記には龍南を発行する用紙さえままならなくなったので暫くの休刊するという挨拶が述べられている。
第二百五十五号
である筈であるが実際は二百五十三号と記載されている
雑誌部長編集委員・・・・・・総務部
久し振りの『龍南』の発行であるが原稿の応募は少ない。社会思想に関する労う文は全然なく、校長の寄稿もなかったが高森教授の下記に記した概要の今後を占う龍南に寄せてと言う挨拶が掲載されている
戦後になり思想・言論の自由は認められても,印行の路はいよいよ狭く、青年の思想,感情を卒直に表現する機会は依然として乏しく創立六十周年を記念して久方ぶりに龍南が刊行されるのも先輩諸氏の援助の賜物である。五高も学制改革により何れは総合大学に昇格するであろうから施設、其の他充実すべき物については曾ての価値あるものばかりなく「今継ぐべき善きもの」を取捨選択する必要がある一高の向陵の篭城、五高の剛毅朴訥の標榜は其の例である。と編集後記に於いても六十年を迎える校友誌の喜びが語られている
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