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『魔法の天使クリィミーマミ』

2009-02-15 18:33:00 | 宣傳掲示板に書いた内容
『魔法の天使クリィミーマミ』の主人公・森沢優は小4、10歳、誕生日が10月
10日という設定らしいので1983年春で小4、同年の誕生日10月10日で10歳と假定する。
こうなると森沢優は1973年10月10日生まれで、野球のイチローと同学年である。

森沢優は83年にフェザースターのピノピノから1年限定で魔法をもらい、16歳程度の外見に変身する力を手に入れる。それでクリィミーマミとして歌手デビューした。
したがってマミは83年デビュー組であり、当然、太田貴子もその年にデビューした。もっとも、太田貴子は森沢優より6歳年上で、83年、デビューからおよそ1箇月後に16歳になった。

84年7月1日に1周年記念コンサートが行われる予定だったのが、その前日で魔法が切れるので6月30日に変更になった。
これにより、マミのデビューは83年7月1日である。

アイドルの83年デビュー組は不作と言われているが、それは82年組と84年組の間に挟まれて目立たなかっただけである。また、アイドルの定義にもよるが、飯島真理、尾崎豊、チェッカーズも83年組である。太田貴子も含め、
83年組で有名になった歌手は大方、84年組のように扱われていた。

84年の6月30日、雨の中での最後のコンサートでマミは姿を消し、森沢優は普通の小学生に戻った。当時、5年生に進級していたはず。

森沢優は魔法と出会う前、藝能界デビューなど考えてもいなかったようだが、もし、森沢優が魔法を使わずに歌手デビューしたら、いつ、どういう形がよかったか。

まず、1983年に10歳の小学生歌手としてデビューする手がある。
こうなると、あの紅白に出た最年少歌手に近い位置づけになる。

一方、優より6歳年上の太田貴子と同様、16歳になった年にデビュー(誕生日前ならデビュー時15歳)したとすると、森沢優の場合、1989年で16歳である。

1988年には73年生まれの中山忍が15歳でデビューした。
また、『アイドル伝説えり子』の田村えり子(つまり田村英里子)と『アイドル天使ようこそようこ』の田中ようこ(陽子)は森沢優と同じ73年生まれで、田村は89年デビュー、田中は90年デビューである。
学年では中山忍と田村英里子が早生まれ(72年度末生まれ)で1年先輩であり、森沢優と田中陽子は73年度生まれである。

89年はあの『いかすバンド天国』がスタートし、93年まで「アイドル冬の時代」とされている。
CoCoやribbonなどの乙女塾1期生も73年前後に生まれ、89年からデビューしたが、冬の時代にさらされ、苦戦した。
すると、森沢優が平成の初めに思春期でデビューした場合、マミのようなアイドル歌手としての活動では、やはり1年の短命で終わった可能性がある。

森沢優に近い73年前後生まれの中で、この冬の時代が終わってからデビューした遅咲きの歌手がいる。
72年生まれのglobeのKEIKOは95年にglobeとしてデビュー、73年生まれの中澤裕子は98年にモーニング娘のリーダーとしてデビューした。74年生まれの岡本真夜は95年に「TOMORROW」でデビュー。
森沢優もこの時期にデビューしていれば、ヒット曲に惠まれた可能性がある。

また、安室奈美恵、浜崎あゆみは森沢優より5~6歳年下の77年~78年生まれである。この世代は16歳になったのが93~94年であるが、安室は95年ごろから、あゆは98年から大ヒットを連發している。酒井美紀は78年生まれで93年にデビューした。持田香織は78年生まれで、93年ソロデビュー、96年にETLとして再デビューした。
この世代のうち、歌手ではなかったが、78年生まれの間下このみが84年から子役として活躍し、89年まで続いた。森沢優も魔法なしでデビューしたら、このようなタレントになっていた可能性がある。

『クリィミーマミ』の時代には10歳くらいの小学生にとって、歌手というのが魔法使いと同じくらいの夢の世界だったのだろうが、『ようこそようこ』のころは10歳の子供たちにとって16歳くらいのお姉さん歌手も単なる友達感覚の存在になったのだろう。それで魔法の要素はなくなったのであろう。

中澤裕子はピンクレディーのファンだったらしく、つんく♂も阿久悠の作ったあの世界から影響を受けたらしい。しかし、モーニング娘の後輩たちは80年代、90年代に生まれ、ピンクレディーを知らない世代として「ペッパー警部」をカバーしている。中澤裕子はモーニング娘とピンクレディー世代をつなぐ最初で最後の世代に当たるだろう。

ちなみに、『ようこそようこ』では第38話で「地球の酸素がなくなる日」として、いち早く、環境問題を取り上げていた。

追加
島崎和歌子も1973年生まれで89年デビューである。

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『魔法の天使クリィミーマミ』

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宣傳掲示板に書いた内容4(『魔法の天使クリィミーマミ』)

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1983年~84年――クリィミーマミ

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『必殺仕事人』
『忠臣蔵』
『巨人の星』
『ドカベン』
『ドラえもん』
『魔法の天使クリィミーマミ』

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『ドラえもん』

2009-02-15 18:27:54 | 宣傳掲示板に書いた内容
野比のび太は8月7日生まれであるが、西暦何年生まれか。
原作でのび太は10歳、小4であり、アニメでは11歳、小5である。

原作第1話「未来の国からはるばると」では1970年1月にドラえもんとセワシが22世紀の世界から野比家を訪れた。
ここでドラえもんとセワシがのび太に見せたアルバムによると、9年後の
1979年にのび太が大学を受けて落第し、浪人となる予定だった。
これから、のび太は70年1月当時9歳で、小3の冬休み。70年の4月で小4に進級し、同年8月7日で10歳になり、成長したあと、79年3月に高校を卒業した世代であることがわかる。
すると、第1話ののび太は1960年8月7日生まれである。アメリカのオバマ次期大統領(1961年生まれ)より1歳年上だ。

一方、てんとう虫コミックス2巻(74年初刊)収録の「ぼくの生まれた日」ではのび太は昭和39年、つまり1964年8月7日生まれとなっている。これだと、
1970年1月当時は、5歳と5箇月で、幼稚園または保育園の時期であった。

のび太の父・のび助と母・玉子は1959年に婚約、その年に結婚したと想われる。両者は些細な誤解で喧嘩となり、ドラえもんが出した「ヒトマネロボット」がのび助に化けて玉子に、玉子に化けてのび助に求婚し、結果、12年後の結婚記念日(1971年か)に二人とも「自分は求婚された側」と認識していた。

さて、1959年は今の天皇・明仁氏(当時は皇太子)と皇后・美智子氏の「ご成婚」の時期である。
皇太子・徳仁親王は1960年生まれ、秋篠宮文仁親王は65年生まれで、初期ののび太はその間に入る。
もっとも、これは初期の設定である。

原作の「ママのダイヤを盗み出せ」では1948年、玉子が少女時代で、『黄金バット』の紙芝居を見ている最中に母(のび太の母方の祖母)の指輪を紛失した。
これが玉子7歳と假定すると玉子は1941年生まれである。

戦時中生まれから団塊の世代にかけて、1940年代生まれは「壊れた家電は叩けば直る」と考えるらしい。
「タイムふろしき」も、70年代にドラえもんとのび太が白黒テレビ(!)を新品にするために使ったのが最初で、玉子はその前に家のテレビを殴って「直した」。今のハイテク機器にそれで対応するととんでもないことになる。

一方、西暦2007年にリメイクされたアニメでは、玉子が7歳だった「過去」が松田聖子のデビュー当時、しかも82年のヒット曲「赤いスイートピー」が出たころであり、玉子は1975年生まれ、初期設定ののび太より10歳以上年下になる。

また、原作の「りっぱなパパになるぞ!」ではのび太が25年後の近未来に向かい、そこでは大人になったのび太と静香、一子・ノビスケ(祖父・のび助と同名なので2代目ノビスケ?)がマンションで生活していた。その時代はノビスケの日記によると2002年。すでに6年前である。
この作品ではのび太の少年時代は1977年であった。
西暦2002年のノビスケが少年・のび太と同じ10歳だったとすると、1992年生まれ。

一方、リメイク版「ママのダイヤを~」ののび太が2007年で11歳とすると
1996年生まれであり、初期設定の息子より年下になる。

2005年春声優交代後のアニメ版に絞ると、西暦2006年、のび太と静香は速水もこみちと相武紗季出演の『レガッタ』のロケ現場に遭遇しており、こののび太と静香は1995年度生まれ。相武紗季は85年生まれだからのび太は10歳年下である。

また、2008年、のび太と源静香は浅田真央と会っており、浅田真央は高校の制服を着ていたので放送当時と同じ18歳の高3とすれば、のび太と源静香は97年生まれ、浅田真央より7歳年下である。
このように、のび太の生年は作品ごとにリセットされていると解釋したほうがいい。

2005年以降のアニメでも、「白ゆりのような女の子」では、のび助は大東亜・太平洋戦争の疎開を経験しているという設定が動かず、初期原作と同じ設定、つまり、のび助は1945年で10さいくらい、のび太は1970年ごろで10歳くらい、10年さかのぼればのび助は1935年ごろに生まれ、のび太は1960年ごろに生まれた。

声優交代から3年半。今の声優陣になった2005年度で11歳だったのび太は今やすでに14歳、中学2年生である。

『ドラえもん』のアニメは1973年に日テレで半年間放送されたのが第1作であり、私はそれを幼い頃にリアルタイムで観た世代である。その作中でドラえもんの声は富田耕生から野沢雅子に移り、テレ朝版の大山のぶ代は3代目、水田わさびは4代目である。21世紀になって四半世紀ぶりの声優交代が報じられた時、私は全く驚かなかった。たまたま世代的理由でドラえもんの「変声期」を2度も経験していたお陰である。

むしろ、物心ついたときに「大山ドラ」が放送されていた世代(特に80年代以降に生まれた人たち)のほうが『ドラえもん』の声変わりに対する「免疫」ができていない点で気の毒ではある。

昨年の大晦日、テレ朝版『ドラえもん』で「想い出の名場面」特集の中間發表がおこなわれた。
今年の春でテレ朝版から30周年。小学館の学習雑誌での連載開始(69年
12月發賣、70年1月号)から40年目である。

日テレ版の再放送は無理のようだが、すでに述べたようにドラえもんが富田耕生と野沢雅子であるほかに、のび太が太田淑子、玉子が小原乃梨子、ジャイアンが肝付兼太という、今となっては興味深い布陣である。できれば、
1973年当時のレギュラー声優でもう一度、吹き込んだ『ドラえもん』を視聴したい気がする。

来年の映画の主題歌を歌う柴咲コウは81年生まれ、今のアニメの玉子よりわずか数年だけ年下である。

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野比のび太年齢変遷、年表

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宣傳掲示板に書いた内容2(『ドカベン』『ドラえもん』)
宣傳掲示板に書いた内容6(『ドラえもん』)

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『必殺仕事人』
『忠臣蔵』
『巨人の星』
『ドカベン』
『ドラえもん』
『魔法の天使クリィミーマミ』


『ドカベン』

2009-02-15 18:23:00 | 宣傳掲示板に書いた内容
『ドカベン』の山田太郎が神奈川明訓高校に入学したときは1974年の春であった。
普通に考えると、山田、里中、岩鬼、殿馬は1976年秋に高3の2学期でドラフト指名され、3学期が終わった1977年3月に高校を卒業したはずである。

ところが山田世代高2、山田太郎17歳夏の大会(東京MXの再放送は今晩からこの大会)で明訓が弁慶高校に敗れ、2年先輩の土井垣が19歳で日本ハムに入ったとき、すでに時代は1979年のシーズンになっていた。

さらに『大甲子園』で山田世代高3(山田太郎18歳)夏の甲子園が描かれるが、これは1985年、桑田真澄と清原和博が高3だった時期である。

また、『I Love Baseball』に収録された『ドカベン(番外編)新潟明訓対神奈川明訓』では、山田世代が高3のときに神奈川明訓が新潟県を訪れ、新潟明訓と試合をおこなっている。当時、小林幹英投手も高3で、新潟の予選が7月13日に始まったのだが、この2つの明訓高校の試合はそれより1週間近く前、7月7日のことで、この年、新潟明訓が甲子園に初出場したので、1991年のできごとだ。

そして、『ドカベン・プロ野球編』では1994年度が山田世代高3の時期になっている。

そうなると、山田太郎は1974年から94年まで、20年も高校生をしていたことになり、ドラフトで10球団から指名されたとき、公称18歳だったが、実は36歳。
『マカロニほうれん荘』のトシちゃん25歳、きんどーさん40歳に匹敵する高齢高校生である。

この異常さを異常でなくすには、それぞれの基準で山田世代が別の人たちであると解釋したほうがいい。

作中で明訓に入学したときの山田世代は74年度入学で、弁慶高校に負けた高2夏は75年、76年度で高3、77年3月に卒業し、その年にプロ1年目スタート。

弁慶高校に敗れたときの山田世代は78年度入学で、79年度で高2、80年度で高3、81年3月卒。その81年がプロ1年目。

『大甲子園』の山田世代は83年度入学で、84年度で高2、85年度で高3、86年3月に卒業し、おそらくプロ1年目スタート。

新潟明訓と戦った山田世代は89年度入学で、90年度で高2、91年度で高3、92年の3月に卒業し、おそらくプロ1年目は92年。

『プロ野球編』の山田世代は92年度入学で、93年度で高2、94年度で高3、95年3月に卒業し、プロ1年目はその95年。『ドカベン・スーパースターズ編』に至る山田世代はこの設定である。

土井垣が日ハムに入ったとき、犬飼小次郎も南海ホークスに入ったのだが、『プロ野球編』ではダイエー時代のホークスに入団したことになっている。

したがって、今の山田世代は1976年度(学年の年度では76年4/2~77年4/1)生まれで、山田太郎は76年5/5生まれ、岩鬼正美は77年4/1生まれ。
しかし、初期の明訓編スタート時、山田と岩鬼はその1976年の春に明訓高校の3年生になっていたはずである。

初期の山田世代と今の山田世代は年齢が18歳違っている。

さて、1998年のオールスターで、この年から広島カープに入団した小林幹英が当時、ダイエーの岩鬼、オリックスの殿馬、西武の山田と対戦した(少チャンコミックス『ドカベン・プロ野球編』22巻)。

前の対戦は高3の夏、2度目の対戦は山田太郎プロ入り4年目の夏であり、それから考えると4年ぶりの対戦のはずである。
しかし、対応する西暦で考えると、高校時代の明訓対決は1991年夏、プロ入り後の再度の対戦は1998年夏だから7年ぶりである。

高校時代、山田世代は新潟明訓3年と同輩であって、初対面でも呼び捨て、タメクチの間柄であった。それがプロで対戦すると山田と殿馬は小林幹英を「小林さん」、岩鬼は「小林はん」と呼び、先輩あつかいしていた。

新潟明訓が1991年に甲子園に初出場した当時、小林幹英は高校3年だったが、『プロ野球編』の山田世代はまだ中学3年生であった。

西暦2004年に西武ライオンズから東京スーパースターズに移籍した『プロ野球編』以降の山田太郎は、1992年の4月に神奈川明訓に入学したのであり、その直前、92年の3月に小林幹英は新潟明訓から卒業したはずで、完全に入れ替わりであり、同じ年に高校生だったことはありえなくなっている。

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宣傳掲示板に書いた内容2(『ドカベン』『ドラえもん』)

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『必殺仕事人』
『忠臣蔵』
『巨人の星』
『ドカベン』
『ドラえもん』
『魔法の天使クリィミーマミ』

『巨人の星』

2009-02-15 18:01:00 | 宣傳掲示板に書いた内容
私にとって『巨人の星』とは、あくまで王貞治が現役だった時代、梶原一騎が健在だったころの作品である。

つい最近、東京MXテレビで再放送していた『巨人の星』の花形満は「中学生で車を運轉していた」と言われる。
しかし、その後の展開を考えると、花形の初登場時は小学生になってしまう。

星飛雄馬が高校1年で夏の甲子園に出場し、高3の花形に敗れ、高1の2学期で青雲高校を中退、後半戦のシーズン中に巨人にテスト入団したとき、巨人はV3を達成し、年明けは1968年で飛雄馬は台湾キャンプに参加。

すると、飛雄馬は1967年度で高1(16歳)、花形は2年先輩で、1967年度で高2(17歳)。
したがって、飛雄馬は1951年生まれ、花形は1949年生まれ。両者とも早生まれ(年度の遅生まれ)でないことは作品からわかる。

そこから冒頭に戻ると、星飛雄馬が巨人入団直後の長嶋茂雄に魔送球を投げつけ、花形満と出会い、早稲田実業3年当時の王選手と対戦したのは半世紀前の1958年。
飛雄馬は7歳(小1)、花形は9歳(小3)になってしまう。

しかし、世間で言われているように、初登場時、ブラック=シャドーズを率いていた花形はどう観ても小学3年には見えない。当時、飛雄馬の小学校にいた6年生の赤川より花形は年上として描かれていた。
そうなると、初登場時の花形は紅洋高校に入る前だから最高で15歳。
また、当時、作中の川上哲治は飛雄馬を「10歳くらい」としていた。

さらに、飛雄馬が青雲高校に入ったのは昭和41年(1966年)の春だった。

そこで、『巨人の星』を飛雄馬の少年時代、青雲高校時代、プロ野球時代に分けて、この3つの時期の飛雄馬を別人と解釋すると問題が解決する。

少年野球時代の飛雄馬は1948年生まれ、花形は1943年生まれで、1958年当時にはそれぞれ飛雄馬10歳、花形15歳であった。「花形は中学生で車を乗り回していた」はこのイメーヂに基づく。

高校野球編の飛雄馬は1950年生まれ、花形は1948年生まれで、1966年の春でそれぞれ飛雄馬16歳、花形18歳。

そして、プロ野球編の飛雄馬は1951年生まれ、花形は1949年生まれで、
1967年の秋でそれぞれ飛雄馬16歳、花形18歳。

河崎実『「巨人の星」の謎』、柳田理科雄『空想科学読本5』、豊福きこう『水原勇気0勝3敗11S』(のちに『~1勝3敗12S「超」完全版』として改訂)では「飛雄馬1951年生まれ説」を採用している。

もっとも、河崎実は星占いから飛雄馬の誕生日を1951年の「2月」としており、この推定では早生まれになってしまうので、結局「1966年春、高校入学」になる。
星飛雄馬が大リーグボール3号で左腕を破壊した1970年当時は19歳、76年に右投手として巨人に復帰したのは25歳、蜃気楼の魔球を開發した78年当時は27歳で、翌79年に巨人の二軍コーチになったのが28歳という風に、プロ入りから『新巨人の星』『巨人のサムライ炎』に至る飛雄馬のキャリアはこのプロ編基準で解釋できるだろう。
『巨人のサムライ炎』の作中で飛雄馬の年齢設定がどうなっているかは、まだ、確認前なので、いずれ観てみたい。

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星飛雄馬年齢変遷、年表

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宣傳掲示板に書いた内容7(『巨人の星』)

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『忠臣蔵』

2009-02-15 17:59:00 | 宣傳掲示板に書いた内容
毎年12月になると『忠臣蔵』の時代劇が放送される。
一般的に浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と大石内蔵助(おほいしくらのすけ)が善玉で、吉良上野介(きらかうづけのすけ)が悪玉と解釋され、一般にこれは敵(かたき)討ちと見なされているが、これはまことに奇妙な現象である。

まず、「忠臣蔵事件」の發端は江戸城の殿中松の廊下で浅野が吉良に刀で斬りつけたことから始まる。
当時の法にしたがい、浅野は切腹処分。これを不服とした浅野の家臣・大石ら47名の赤穗浪士(あかほらうし>あこうろうし)が夜間から明け方にかけて吉良邸に押し入り、住民を殺傷し、吉良の首を切断し逃走した。これが『忠臣蔵』の顛末である。

大石ら47名のしたことは、昨今の厚生事務次官連続襲撃事件に匹敵する反社会的犯罪行為である。

江戸時代には敵(かたき)討ちが合法とされていたが、赤穗浪士による吉良邸討ち入りは敵(かたき)討ちではない。
敵(かたき)討ちは「殺人事件の被害者の身内が仇討ちの免状(許可証)を得て、加害者に報復する」ことであるが、『忠臣蔵』は「殺人未遂事件の加害者の身内が被害者を殺した二重犯罪」である。
まず、吉良上野介は浅野内匠頭を殺していない。

もし、浅野を被害者、吉良を加害者とするなら、松の廊下の刃傷の前に浅野が吉良から受けたとされる虐め、浅野の言う「遺恨」である。
つまり、浅野と大石は「浅野が受けた虐め」への報復として吉良を殺そうとした、または殺したのである。これを日本中がもてはやすのであれば、感情的で理不尽な殺人事件が後を絶たないのも日本人の国民性によるものということになる。

赤穗浪士は亡君・浅野への忠義を示し、浅野を仇(あだ)を討とうとしたという擁護論もあるだろう。
しかし、浅野は徳川綱吉の判断で切腹処分になったのである。したがって、大石らが浅野の仇を討つのであれば、綱吉を討ってこそ敵(かたき)討ちとして成立する。

加害者・浅野内匠頭の家臣である大石内蔵助らが吉良への逆恨みで吉良邸への討ち入りをしようとしても、仇討ちの免状などもらえなかったのは当然。

つまり、赤穗浪士による吉良邸への討ち入りは47名の男が人家に押し入り、住民を刃物で斬りまくり、老人を引きずり出して殺害した狂気のテロ行為である。
日本では首相が交代するたびに「先の大戦は侵略であったか否か」が問われ、踏み絵のように首相の歴史観が検閲され、幕僚長が一民間企業に出した作文がそれに合わないだけで首が飛ぶという言論統制状態である。それでは、赤穗浪士が戦でもないのに行なったこの狂気の犯罪行為についての歴史認識を国民全体で検証しなおすべきであろう。

『水戸黄門』の主人公・徳川光圀は、時代劇で日本各地の政治、経済の不正を正して回った。しかし、「史実」では最大遠征先が鎌倉で、関東地方内部を移動しただけのようだ。

時代劇の光圀は「先の副将軍」であるから「内閣の前副總理」または「自民党の前副總裁」のようなもの。今で言えば山崎拓・元副總裁に近く、渡部恒三や塩川正十郎ではないところに注目。

水戸黄門の漫遊は、喩えて言えば山崎拓が非公式に日本全国を廻って各地の地方政治に干渉したり、外国に渡ったりする二重行政もどきのパフォーマンスに近い。
実際、光圀は行く先々で正体を明かしても「わしは忍び」と言い、悪人に対して「藩主に仔細を申し上げるので、厳しい沙汰があると覚悟せよ」(趣旨)という間接的な叱責をすることが多い。要するに権限が確定しない越権行為である。

しかも、光圀一行は何十回も全国行脚を繰り返しており、逆に言えば、光圀が何度全国を回っても効果が長続きしないということだ。
これについては、前鳥取県知事・片山善博氏が『中央公論』2007年4月号で「改革派知事への期待は水戸黄門幻想だ」という趣旨で述べていたので、図書館で一読することをお勧めする。

『暴れん坊将軍』と『大岡越前』では徳川吉宗と大岡忠相が偽名を名乗って自ら街を探索していた。これは享保時代の幕府や奉行所にろくな人材がいなかったことを示している。

また、天保の改革の時代を描いた『遠山の金さん』では北町奉行・遠山影元(とほやまかげもと)こと金四郎が遊び人となって町を出歩いていた。この遠山奉行の場合、裁判官が捜査官と目撃者を兼ねていたわけで、そういう状況でないと事件の犯人を裁けないわけで、与力、同心以下、役立たず揃いだったことになる。

時代劇でもてはやされる話がもし、史実だったら、それは社会が破綻していたことを意味する。

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中央公論、「超」リタイア術、SAPIO、朝日新聞
『忠臣蔵』は赤穗浪士による犯罪

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『巨人の星』
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忠臣 吉良邸 赤穗