254 目次――5
255 2008年~2009年
256 T-Cup掲示板投稿LIST(100~)
257 ドラえもん声優交代のお知らせHP
258 宣傳掲示板に書いた内容
259 『必殺仕事人』
260 『忠臣蔵』
261 『巨人の星』
262 『ドカベン』
263 『ドラえもん』
264 『魔法の天使クリィミーマミ』
265 目次――6
266 Yahoo!Japan、Google、ウィキペディア
267 『ドラえもん』と100人の有名人
268 「鶏が先か、卵が先か」
269 『野球狂の詩』『男どアホウ甲子園』『ドカベン』の日付と曜日
270 四川省地震
271 しばられ地蔵
272 「差別語」の言い換え
273 ものがたりの歴史~フィクションとノンフィクションによる歴史~(主な内容)
274 2016年五輪開催地決定の際の票数
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285 『水戸黄門』東野英治郎版に佐野浅夫出演
286 『暴れん坊将軍』
287 『水戸黄門』第37部再放送
288 江川卓と小林繁」
289 大相撲に必要な原点回帰と改革・補足
290 『天地英雄』、遣唐使が剣客となり、佛舎利を守った?
291 田嶋版同人誌「ドラえもんの最終回」に関する記事
292 『水戸黄門』第42部幻の第21話
293 尾崎豊の歌を今の時代から見ると(聴くと)
294 現実的なタケコプター
295 『江~姫たちの戦国~』における矛盾
296 T-Cup掲示板投稿LIST(197~245)
297 T-Cup掲示板投稿LIST(255~298)
298 巨人×阪神戦で塁審が脇谷の落球を見落として誤審か?
299 『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』
300 キャンディーズのCD
前後一覧
2009年2月
関連語句
目次 目次(投稿順)
参照
353 古代~未来
417 ◇目次――7
255 2008年~2009年
256 T-Cup掲示板投稿LIST(100~)
257 ドラえもん声優交代のお知らせHP
258 宣傳掲示板に書いた内容
259 『必殺仕事人』
260 『忠臣蔵』
261 『巨人の星』
262 『ドカベン』
263 『ドラえもん』
264 『魔法の天使クリィミーマミ』
265 目次――6
266 Yahoo!Japan、Google、ウィキペディア
267 『ドラえもん』と100人の有名人
268 「鶏が先か、卵が先か」
269 『野球狂の詩』『男どアホウ甲子園』『ドカベン』の日付と曜日
270 四川省地震
271 しばられ地蔵
272 「差別語」の言い換え
273 ものがたりの歴史~フィクションとノンフィクションによる歴史~(主な内容)
274 2016年五輪開催地決定の際の票数
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285 『水戸黄門』東野英治郎版に佐野浅夫出演
286 『暴れん坊将軍』
287 『水戸黄門』第37部再放送
288 江川卓と小林繁」
289 大相撲に必要な原点回帰と改革・補足
290 『天地英雄』、遣唐使が剣客となり、佛舎利を守った?
291 田嶋版同人誌「ドラえもんの最終回」に関する記事
292 『水戸黄門』第42部幻の第21話
293 尾崎豊の歌を今の時代から見ると(聴くと)
294 現実的なタケコプター
295 『江~姫たちの戦国~』における矛盾
296 T-Cup掲示板投稿LIST(197~245)
297 T-Cup掲示板投稿LIST(255~298)
298 巨人×阪神戦で塁審が脇谷の落球を見落として誤審か?
299 『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』
300 キャンディーズのCD
前後一覧
2009年2月
関連語句
目次 目次(投稿順)
参照
353 古代~未来
417 ◇目次――7
『魔法の天使クリィミーマミ』の主人公・森沢優は小4、10歳、誕生日が10月
10日という設定らしいので1983年春で小4、同年の誕生日10月10日で10歳と假定する。
こうなると森沢優は1973年10月10日生まれで、野球のイチローと同学年である。
森沢優は83年にフェザースターのピノピノから1年限定で魔法をもらい、16歳程度の外見に変身する力を手に入れる。それでクリィミーマミとして歌手デビューした。
したがってマミは83年デビュー組であり、当然、太田貴子もその年にデビューした。もっとも、太田貴子は森沢優より6歳年上で、83年、デビューからおよそ1箇月後に16歳になった。
84年7月1日に1周年記念コンサートが行われる予定だったのが、その前日で魔法が切れるので6月30日に変更になった。
これにより、マミのデビューは83年7月1日である。
アイドルの83年デビュー組は不作と言われているが、それは82年組と84年組の間に挟まれて目立たなかっただけである。また、アイドルの定義にもよるが、飯島真理、尾崎豊、チェッカーズも83年組である。太田貴子も含め、
83年組で有名になった歌手は大方、84年組のように扱われていた。
84年の6月30日、雨の中での最後のコンサートでマミは姿を消し、森沢優は普通の小学生に戻った。当時、5年生に進級していたはず。
森沢優は魔法と出会う前、藝能界デビューなど考えてもいなかったようだが、もし、森沢優が魔法を使わずに歌手デビューしたら、いつ、どういう形がよかったか。
まず、1983年に10歳の小学生歌手としてデビューする手がある。
こうなると、あの紅白に出た最年少歌手に近い位置づけになる。
一方、優より6歳年上の太田貴子と同様、16歳になった年にデビュー(誕生日前ならデビュー時15歳)したとすると、森沢優の場合、1989年で16歳である。
1988年には73年生まれの中山忍が15歳でデビューした。
また、『アイドル伝説えり子』の田村えり子(つまり田村英里子)と『アイドル天使ようこそようこ』の田中ようこ(陽子)は森沢優と同じ73年生まれで、田村は89年デビュー、田中は90年デビューである。
学年では中山忍と田村英里子が早生まれ(72年度末生まれ)で1年先輩であり、森沢優と田中陽子は73年度生まれである。
89年はあの『いかすバンド天国』がスタートし、93年まで「アイドル冬の時代」とされている。
CoCoやribbonなどの乙女塾1期生も73年前後に生まれ、89年からデビューしたが、冬の時代にさらされ、苦戦した。
すると、森沢優が平成の初めに思春期でデビューした場合、マミのようなアイドル歌手としての活動では、やはり1年の短命で終わった可能性がある。
森沢優に近い73年前後生まれの中で、この冬の時代が終わってからデビューした遅咲きの歌手がいる。
72年生まれのglobeのKEIKOは95年にglobeとしてデビュー、73年生まれの中澤裕子は98年にモーニング娘のリーダーとしてデビューした。74年生まれの岡本真夜は95年に「TOMORROW」でデビュー。
森沢優もこの時期にデビューしていれば、ヒット曲に惠まれた可能性がある。
また、安室奈美恵、浜崎あゆみは森沢優より5~6歳年下の77年~78年生まれである。この世代は16歳になったのが93~94年であるが、安室は95年ごろから、あゆは98年から大ヒットを連發している。酒井美紀は78年生まれで93年にデビューした。持田香織は78年生まれで、93年ソロデビュー、96年にETLとして再デビューした。
この世代のうち、歌手ではなかったが、78年生まれの間下このみが84年から子役として活躍し、89年まで続いた。森沢優も魔法なしでデビューしたら、このようなタレントになっていた可能性がある。
『クリィミーマミ』の時代には10歳くらいの小学生にとって、歌手というのが魔法使いと同じくらいの夢の世界だったのだろうが、『ようこそようこ』のころは10歳の子供たちにとって16歳くらいのお姉さん歌手も単なる友達感覚の存在になったのだろう。それで魔法の要素はなくなったのであろう。
中澤裕子はピンクレディーのファンだったらしく、つんく♂も阿久悠の作ったあの世界から影響を受けたらしい。しかし、モーニング娘の後輩たちは80年代、90年代に生まれ、ピンクレディーを知らない世代として「ペッパー警部」をカバーしている。中澤裕子はモーニング娘とピンクレディー世代をつなぐ最初で最後の世代に当たるだろう。
ちなみに、『ようこそようこ』では第38話で「地球の酸素がなくなる日」として、いち早く、環境問題を取り上げていた。
追加
島崎和歌子も1973年生まれで89年デビューである。
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『魔法の天使クリィミーマミ』
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宣傳掲示板に書いた内容4(『魔法の天使クリィミーマミ』)
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キャラクター年齢変遷
1983年~84年――クリィミーマミ
宣傳掲示板に書いた内容
『必殺仕事人』
『忠臣蔵』
『巨人の星』
『ドカベン』
『ドラえもん』
『魔法の天使クリィミーマミ』
tweet
10日という設定らしいので1983年春で小4、同年の誕生日10月10日で10歳と假定する。
こうなると森沢優は1973年10月10日生まれで、野球のイチローと同学年である。
森沢優は83年にフェザースターのピノピノから1年限定で魔法をもらい、16歳程度の外見に変身する力を手に入れる。それでクリィミーマミとして歌手デビューした。
したがってマミは83年デビュー組であり、当然、太田貴子もその年にデビューした。もっとも、太田貴子は森沢優より6歳年上で、83年、デビューからおよそ1箇月後に16歳になった。
84年7月1日に1周年記念コンサートが行われる予定だったのが、その前日で魔法が切れるので6月30日に変更になった。
これにより、マミのデビューは83年7月1日である。
アイドルの83年デビュー組は不作と言われているが、それは82年組と84年組の間に挟まれて目立たなかっただけである。また、アイドルの定義にもよるが、飯島真理、尾崎豊、チェッカーズも83年組である。太田貴子も含め、
83年組で有名になった歌手は大方、84年組のように扱われていた。
84年の6月30日、雨の中での最後のコンサートでマミは姿を消し、森沢優は普通の小学生に戻った。当時、5年生に進級していたはず。
森沢優は魔法と出会う前、藝能界デビューなど考えてもいなかったようだが、もし、森沢優が魔法を使わずに歌手デビューしたら、いつ、どういう形がよかったか。
まず、1983年に10歳の小学生歌手としてデビューする手がある。
こうなると、あの紅白に出た最年少歌手に近い位置づけになる。
一方、優より6歳年上の太田貴子と同様、16歳になった年にデビュー(誕生日前ならデビュー時15歳)したとすると、森沢優の場合、1989年で16歳である。
1988年には73年生まれの中山忍が15歳でデビューした。
また、『アイドル伝説えり子』の田村えり子(つまり田村英里子)と『アイドル天使ようこそようこ』の田中ようこ(陽子)は森沢優と同じ73年生まれで、田村は89年デビュー、田中は90年デビューである。
学年では中山忍と田村英里子が早生まれ(72年度末生まれ)で1年先輩であり、森沢優と田中陽子は73年度生まれである。
89年はあの『いかすバンド天国』がスタートし、93年まで「アイドル冬の時代」とされている。
CoCoやribbonなどの乙女塾1期生も73年前後に生まれ、89年からデビューしたが、冬の時代にさらされ、苦戦した。
すると、森沢優が平成の初めに思春期でデビューした場合、マミのようなアイドル歌手としての活動では、やはり1年の短命で終わった可能性がある。
森沢優に近い73年前後生まれの中で、この冬の時代が終わってからデビューした遅咲きの歌手がいる。
72年生まれのglobeのKEIKOは95年にglobeとしてデビュー、73年生まれの中澤裕子は98年にモーニング娘のリーダーとしてデビューした。74年生まれの岡本真夜は95年に「TOMORROW」でデビュー。
森沢優もこの時期にデビューしていれば、ヒット曲に惠まれた可能性がある。
また、安室奈美恵、浜崎あゆみは森沢優より5~6歳年下の77年~78年生まれである。この世代は16歳になったのが93~94年であるが、安室は95年ごろから、あゆは98年から大ヒットを連發している。酒井美紀は78年生まれで93年にデビューした。持田香織は78年生まれで、93年ソロデビュー、96年にETLとして再デビューした。
この世代のうち、歌手ではなかったが、78年生まれの間下このみが84年から子役として活躍し、89年まで続いた。森沢優も魔法なしでデビューしたら、このようなタレントになっていた可能性がある。
『クリィミーマミ』の時代には10歳くらいの小学生にとって、歌手というのが魔法使いと同じくらいの夢の世界だったのだろうが、『ようこそようこ』のころは10歳の子供たちにとって16歳くらいのお姉さん歌手も単なる友達感覚の存在になったのだろう。それで魔法の要素はなくなったのであろう。
中澤裕子はピンクレディーのファンだったらしく、つんく♂も阿久悠の作ったあの世界から影響を受けたらしい。しかし、モーニング娘の後輩たちは80年代、90年代に生まれ、ピンクレディーを知らない世代として「ペッパー警部」をカバーしている。中澤裕子はモーニング娘とピンクレディー世代をつなぐ最初で最後の世代に当たるだろう。
ちなみに、『ようこそようこ』では第38話で「地球の酸素がなくなる日」として、いち早く、環境問題を取り上げていた。
追加
島崎和歌子も1973年生まれで89年デビューである。
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『魔法の天使クリィミーマミ』
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宣傳掲示板に書いた内容4(『魔法の天使クリィミーマミ』)
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1983年~84年――クリィミーマミ
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『必殺仕事人』
『忠臣蔵』
『巨人の星』
『ドカベン』
『ドラえもん』
『魔法の天使クリィミーマミ』
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野比のび太は8月7日生まれであるが、西暦何年生まれか。
原作でのび太は10歳、小4であり、アニメでは11歳、小5である。
原作第1話「未来の国からはるばると」では1970年1月にドラえもんとセワシが22世紀の世界から野比家を訪れた。
ここでドラえもんとセワシがのび太に見せたアルバムによると、9年後の
1979年にのび太が大学を受けて落第し、浪人となる予定だった。
これから、のび太は70年1月当時9歳で、小3の冬休み。70年の4月で小4に進級し、同年8月7日で10歳になり、成長したあと、79年3月に高校を卒業した世代であることがわかる。
すると、第1話ののび太は1960年8月7日生まれである。アメリカのオバマ次期大統領(1961年生まれ)より1歳年上だ。
一方、てんとう虫コミックス2巻(74年初刊)収録の「ぼくの生まれた日」ではのび太は昭和39年、つまり1964年8月7日生まれとなっている。これだと、
1970年1月当時は、5歳と5箇月で、幼稚園または保育園の時期であった。
のび太の父・のび助と母・玉子は1959年に婚約、その年に結婚したと想われる。両者は些細な誤解で喧嘩となり、ドラえもんが出した「ヒトマネロボット」がのび助に化けて玉子に、玉子に化けてのび助に求婚し、結果、12年後の結婚記念日(1971年か)に二人とも「自分は求婚された側」と認識していた。
さて、1959年は今の天皇・明仁氏(当時は皇太子)と皇后・美智子氏の「ご成婚」の時期である。
皇太子・徳仁親王は1960年生まれ、秋篠宮文仁親王は65年生まれで、初期ののび太はその間に入る。
もっとも、これは初期の設定である。
原作の「ママのダイヤを盗み出せ」では1948年、玉子が少女時代で、『黄金バット』の紙芝居を見ている最中に母(のび太の母方の祖母)の指輪を紛失した。
これが玉子7歳と假定すると玉子は1941年生まれである。
戦時中生まれから団塊の世代にかけて、1940年代生まれは「壊れた家電は叩けば直る」と考えるらしい。
「タイムふろしき」も、70年代にドラえもんとのび太が白黒テレビ(!)を新品にするために使ったのが最初で、玉子はその前に家のテレビを殴って「直した」。今のハイテク機器にそれで対応するととんでもないことになる。
一方、西暦2007年にリメイクされたアニメでは、玉子が7歳だった「過去」が松田聖子のデビュー当時、しかも82年のヒット曲「赤いスイートピー」が出たころであり、玉子は1975年生まれ、初期設定ののび太より10歳以上年下になる。
また、原作の「りっぱなパパになるぞ!」ではのび太が25年後の近未来に向かい、そこでは大人になったのび太と静香、一子・ノビスケ(祖父・のび助と同名なので2代目ノビスケ?)がマンションで生活していた。その時代はノビスケの日記によると2002年。すでに6年前である。
この作品ではのび太の少年時代は1977年であった。
西暦2002年のノビスケが少年・のび太と同じ10歳だったとすると、1992年生まれ。
一方、リメイク版「ママのダイヤを~」ののび太が2007年で11歳とすると
1996年生まれであり、初期設定の息子より年下になる。
2005年春声優交代後のアニメ版に絞ると、西暦2006年、のび太と静香は速水もこみちと相武紗季出演の『レガッタ』のロケ現場に遭遇しており、こののび太と静香は1995年度生まれ。相武紗季は85年生まれだからのび太は10歳年下である。
また、2008年、のび太と源静香は浅田真央と会っており、浅田真央は高校の制服を着ていたので放送当時と同じ18歳の高3とすれば、のび太と源静香は97年生まれ、浅田真央より7歳年下である。
このように、のび太の生年は作品ごとにリセットされていると解釋したほうがいい。
2005年以降のアニメでも、「白ゆりのような女の子」では、のび助は大東亜・太平洋戦争の疎開を経験しているという設定が動かず、初期原作と同じ設定、つまり、のび助は1945年で10さいくらい、のび太は1970年ごろで10歳くらい、10年さかのぼればのび助は1935年ごろに生まれ、のび太は1960年ごろに生まれた。
声優交代から3年半。今の声優陣になった2005年度で11歳だったのび太は今やすでに14歳、中学2年生である。
『ドラえもん』のアニメは1973年に日テレで半年間放送されたのが第1作であり、私はそれを幼い頃にリアルタイムで観た世代である。その作中でドラえもんの声は富田耕生から野沢雅子に移り、テレ朝版の大山のぶ代は3代目、水田わさびは4代目である。21世紀になって四半世紀ぶりの声優交代が報じられた時、私は全く驚かなかった。たまたま世代的理由でドラえもんの「変声期」を2度も経験していたお陰である。
むしろ、物心ついたときに「大山ドラ」が放送されていた世代(特に80年代以降に生まれた人たち)のほうが『ドラえもん』の声変わりに対する「免疫」ができていない点で気の毒ではある。
昨年の大晦日、テレ朝版『ドラえもん』で「想い出の名場面」特集の中間發表がおこなわれた。
今年の春でテレ朝版から30周年。小学館の学習雑誌での連載開始(69年
12月發賣、70年1月号)から40年目である。
日テレ版の再放送は無理のようだが、すでに述べたようにドラえもんが富田耕生と野沢雅子であるほかに、のび太が太田淑子、玉子が小原乃梨子、ジャイアンが肝付兼太という、今となっては興味深い布陣である。できれば、
1973年当時のレギュラー声優でもう一度、吹き込んだ『ドラえもん』を視聴したい気がする。
来年の映画の主題歌を歌う柴咲コウは81年生まれ、今のアニメの玉子よりわずか数年だけ年下である。
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野比のび太年齢変遷、年表
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宣傳掲示板に書いた内容2(『ドカベン』『ドラえもん』)
宣傳掲示板に書いた内容6(『ドラえもん』)
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キャラクター年齢変遷
宣傳掲示板に書いた内容
『必殺仕事人』
『忠臣蔵』
『巨人の星』
『ドカベン』
『ドラえもん』
『魔法の天使クリィミーマミ』
原作でのび太は10歳、小4であり、アニメでは11歳、小5である。
原作第1話「未来の国からはるばると」では1970年1月にドラえもんとセワシが22世紀の世界から野比家を訪れた。
ここでドラえもんとセワシがのび太に見せたアルバムによると、9年後の
1979年にのび太が大学を受けて落第し、浪人となる予定だった。
これから、のび太は70年1月当時9歳で、小3の冬休み。70年の4月で小4に進級し、同年8月7日で10歳になり、成長したあと、79年3月に高校を卒業した世代であることがわかる。
すると、第1話ののび太は1960年8月7日生まれである。アメリカのオバマ次期大統領(1961年生まれ)より1歳年上だ。
一方、てんとう虫コミックス2巻(74年初刊)収録の「ぼくの生まれた日」ではのび太は昭和39年、つまり1964年8月7日生まれとなっている。これだと、
1970年1月当時は、5歳と5箇月で、幼稚園または保育園の時期であった。
のび太の父・のび助と母・玉子は1959年に婚約、その年に結婚したと想われる。両者は些細な誤解で喧嘩となり、ドラえもんが出した「ヒトマネロボット」がのび助に化けて玉子に、玉子に化けてのび助に求婚し、結果、12年後の結婚記念日(1971年か)に二人とも「自分は求婚された側」と認識していた。
さて、1959年は今の天皇・明仁氏(当時は皇太子)と皇后・美智子氏の「ご成婚」の時期である。
皇太子・徳仁親王は1960年生まれ、秋篠宮文仁親王は65年生まれで、初期ののび太はその間に入る。
もっとも、これは初期の設定である。
原作の「ママのダイヤを盗み出せ」では1948年、玉子が少女時代で、『黄金バット』の紙芝居を見ている最中に母(のび太の母方の祖母)の指輪を紛失した。
これが玉子7歳と假定すると玉子は1941年生まれである。
戦時中生まれから団塊の世代にかけて、1940年代生まれは「壊れた家電は叩けば直る」と考えるらしい。
「タイムふろしき」も、70年代にドラえもんとのび太が白黒テレビ(!)を新品にするために使ったのが最初で、玉子はその前に家のテレビを殴って「直した」。今のハイテク機器にそれで対応するととんでもないことになる。
一方、西暦2007年にリメイクされたアニメでは、玉子が7歳だった「過去」が松田聖子のデビュー当時、しかも82年のヒット曲「赤いスイートピー」が出たころであり、玉子は1975年生まれ、初期設定ののび太より10歳以上年下になる。
また、原作の「りっぱなパパになるぞ!」ではのび太が25年後の近未来に向かい、そこでは大人になったのび太と静香、一子・ノビスケ(祖父・のび助と同名なので2代目ノビスケ?)がマンションで生活していた。その時代はノビスケの日記によると2002年。すでに6年前である。
この作品ではのび太の少年時代は1977年であった。
西暦2002年のノビスケが少年・のび太と同じ10歳だったとすると、1992年生まれ。
一方、リメイク版「ママのダイヤを~」ののび太が2007年で11歳とすると
1996年生まれであり、初期設定の息子より年下になる。
2005年春声優交代後のアニメ版に絞ると、西暦2006年、のび太と静香は速水もこみちと相武紗季出演の『レガッタ』のロケ現場に遭遇しており、こののび太と静香は1995年度生まれ。相武紗季は85年生まれだからのび太は10歳年下である。
また、2008年、のび太と源静香は浅田真央と会っており、浅田真央は高校の制服を着ていたので放送当時と同じ18歳の高3とすれば、のび太と源静香は97年生まれ、浅田真央より7歳年下である。
このように、のび太の生年は作品ごとにリセットされていると解釋したほうがいい。
2005年以降のアニメでも、「白ゆりのような女の子」では、のび助は大東亜・太平洋戦争の疎開を経験しているという設定が動かず、初期原作と同じ設定、つまり、のび助は1945年で10さいくらい、のび太は1970年ごろで10歳くらい、10年さかのぼればのび助は1935年ごろに生まれ、のび太は1960年ごろに生まれた。
声優交代から3年半。今の声優陣になった2005年度で11歳だったのび太は今やすでに14歳、中学2年生である。
『ドラえもん』のアニメは1973年に日テレで半年間放送されたのが第1作であり、私はそれを幼い頃にリアルタイムで観た世代である。その作中でドラえもんの声は富田耕生から野沢雅子に移り、テレ朝版の大山のぶ代は3代目、水田わさびは4代目である。21世紀になって四半世紀ぶりの声優交代が報じられた時、私は全く驚かなかった。たまたま世代的理由でドラえもんの「変声期」を2度も経験していたお陰である。
むしろ、物心ついたときに「大山ドラ」が放送されていた世代(特に80年代以降に生まれた人たち)のほうが『ドラえもん』の声変わりに対する「免疫」ができていない点で気の毒ではある。
昨年の大晦日、テレ朝版『ドラえもん』で「想い出の名場面」特集の中間發表がおこなわれた。
今年の春でテレ朝版から30周年。小学館の学習雑誌での連載開始(69年
12月發賣、70年1月号)から40年目である。
日テレ版の再放送は無理のようだが、すでに述べたようにドラえもんが富田耕生と野沢雅子であるほかに、のび太が太田淑子、玉子が小原乃梨子、ジャイアンが肝付兼太という、今となっては興味深い布陣である。できれば、
1973年当時のレギュラー声優でもう一度、吹き込んだ『ドラえもん』を視聴したい気がする。
来年の映画の主題歌を歌う柴咲コウは81年生まれ、今のアニメの玉子よりわずか数年だけ年下である。
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宣傳掲示板に書いた内容2(『ドカベン』『ドラえもん』)
宣傳掲示板に書いた内容6(『ドラえもん』)
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『必殺仕事人』
『忠臣蔵』
『巨人の星』
『ドカベン』
『ドラえもん』
『魔法の天使クリィミーマミ』
『ドカベン』の山田太郎が神奈川明訓高校に入学したときは1974年の春であった。
普通に考えると、山田、里中、岩鬼、殿馬は1976年秋に高3の2学期でドラフト指名され、3学期が終わった1977年3月に高校を卒業したはずである。
ところが山田世代高2、山田太郎17歳夏の大会(東京MXの再放送は今晩からこの大会)で明訓が弁慶高校に敗れ、2年先輩の土井垣が19歳で日本ハムに入ったとき、すでに時代は1979年のシーズンになっていた。
さらに『大甲子園』で山田世代高3(山田太郎18歳)夏の甲子園が描かれるが、これは1985年、桑田真澄と清原和博が高3だった時期である。
また、『I Love Baseball』に収録された『ドカベン(番外編)新潟明訓対神奈川明訓』では、山田世代が高3のときに神奈川明訓が新潟県を訪れ、新潟明訓と試合をおこなっている。当時、小林幹英投手も高3で、新潟の予選が7月13日に始まったのだが、この2つの明訓高校の試合はそれより1週間近く前、7月7日のことで、この年、新潟明訓が甲子園に初出場したので、1991年のできごとだ。
そして、『ドカベン・プロ野球編』では1994年度が山田世代高3の時期になっている。
そうなると、山田太郎は1974年から94年まで、20年も高校生をしていたことになり、ドラフトで10球団から指名されたとき、公称18歳だったが、実は36歳。
『マカロニほうれん荘』のトシちゃん25歳、きんどーさん40歳に匹敵する高齢高校生である。
この異常さを異常でなくすには、それぞれの基準で山田世代が別の人たちであると解釋したほうがいい。
作中で明訓に入学したときの山田世代は74年度入学で、弁慶高校に負けた高2夏は75年、76年度で高3、77年3月に卒業し、その年にプロ1年目スタート。
弁慶高校に敗れたときの山田世代は78年度入学で、79年度で高2、80年度で高3、81年3月卒。その81年がプロ1年目。
『大甲子園』の山田世代は83年度入学で、84年度で高2、85年度で高3、86年3月に卒業し、おそらくプロ1年目スタート。
新潟明訓と戦った山田世代は89年度入学で、90年度で高2、91年度で高3、92年の3月に卒業し、おそらくプロ1年目は92年。
『プロ野球編』の山田世代は92年度入学で、93年度で高2、94年度で高3、95年3月に卒業し、プロ1年目はその95年。『ドカベン・スーパースターズ編』に至る山田世代はこの設定である。
土井垣が日ハムに入ったとき、犬飼小次郎も南海ホークスに入ったのだが、『プロ野球編』ではダイエー時代のホークスに入団したことになっている。
したがって、今の山田世代は1976年度(学年の年度では76年4/2~77年4/1)生まれで、山田太郎は76年5/5生まれ、岩鬼正美は77年4/1生まれ。
しかし、初期の明訓編スタート時、山田と岩鬼はその1976年の春に明訓高校の3年生になっていたはずである。
初期の山田世代と今の山田世代は年齢が18歳違っている。
さて、1998年のオールスターで、この年から広島カープに入団した小林幹英が当時、ダイエーの岩鬼、オリックスの殿馬、西武の山田と対戦した(少チャンコミックス『ドカベン・プロ野球編』22巻)。
前の対戦は高3の夏、2度目の対戦は山田太郎プロ入り4年目の夏であり、それから考えると4年ぶりの対戦のはずである。
しかし、対応する西暦で考えると、高校時代の明訓対決は1991年夏、プロ入り後の再度の対戦は1998年夏だから7年ぶりである。
高校時代、山田世代は新潟明訓3年と同輩であって、初対面でも呼び捨て、タメクチの間柄であった。それがプロで対戦すると山田と殿馬は小林幹英を「小林さん」、岩鬼は「小林はん」と呼び、先輩あつかいしていた。
新潟明訓が1991年に甲子園に初出場した当時、小林幹英は高校3年だったが、『プロ野球編』の山田世代はまだ中学3年生であった。
西暦2004年に西武ライオンズから東京スーパースターズに移籍した『プロ野球編』以降の山田太郎は、1992年の4月に神奈川明訓に入学したのであり、その直前、92年の3月に小林幹英は新潟明訓から卒業したはずで、完全に入れ替わりであり、同じ年に高校生だったことはありえなくなっている。
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普通に考えると、山田、里中、岩鬼、殿馬は1976年秋に高3の2学期でドラフト指名され、3学期が終わった1977年3月に高校を卒業したはずである。
ところが山田世代高2、山田太郎17歳夏の大会(東京MXの再放送は今晩からこの大会)で明訓が弁慶高校に敗れ、2年先輩の土井垣が19歳で日本ハムに入ったとき、すでに時代は1979年のシーズンになっていた。
さらに『大甲子園』で山田世代高3(山田太郎18歳)夏の甲子園が描かれるが、これは1985年、桑田真澄と清原和博が高3だった時期である。
また、『I Love Baseball』に収録された『ドカベン(番外編)新潟明訓対神奈川明訓』では、山田世代が高3のときに神奈川明訓が新潟県を訪れ、新潟明訓と試合をおこなっている。当時、小林幹英投手も高3で、新潟の予選が7月13日に始まったのだが、この2つの明訓高校の試合はそれより1週間近く前、7月7日のことで、この年、新潟明訓が甲子園に初出場したので、1991年のできごとだ。
そして、『ドカベン・プロ野球編』では1994年度が山田世代高3の時期になっている。
そうなると、山田太郎は1974年から94年まで、20年も高校生をしていたことになり、ドラフトで10球団から指名されたとき、公称18歳だったが、実は36歳。
『マカロニほうれん荘』のトシちゃん25歳、きんどーさん40歳に匹敵する高齢高校生である。
この異常さを異常でなくすには、それぞれの基準で山田世代が別の人たちであると解釋したほうがいい。
作中で明訓に入学したときの山田世代は74年度入学で、弁慶高校に負けた高2夏は75年、76年度で高3、77年3月に卒業し、その年にプロ1年目スタート。
弁慶高校に敗れたときの山田世代は78年度入学で、79年度で高2、80年度で高3、81年3月卒。その81年がプロ1年目。
『大甲子園』の山田世代は83年度入学で、84年度で高2、85年度で高3、86年3月に卒業し、おそらくプロ1年目スタート。
新潟明訓と戦った山田世代は89年度入学で、90年度で高2、91年度で高3、92年の3月に卒業し、おそらくプロ1年目は92年。
『プロ野球編』の山田世代は92年度入学で、93年度で高2、94年度で高3、95年3月に卒業し、プロ1年目はその95年。『ドカベン・スーパースターズ編』に至る山田世代はこの設定である。
土井垣が日ハムに入ったとき、犬飼小次郎も南海ホークスに入ったのだが、『プロ野球編』ではダイエー時代のホークスに入団したことになっている。
したがって、今の山田世代は1976年度(学年の年度では76年4/2~77年4/1)生まれで、山田太郎は76年5/5生まれ、岩鬼正美は77年4/1生まれ。
しかし、初期の明訓編スタート時、山田と岩鬼はその1976年の春に明訓高校の3年生になっていたはずである。
初期の山田世代と今の山田世代は年齢が18歳違っている。
さて、1998年のオールスターで、この年から広島カープに入団した小林幹英が当時、ダイエーの岩鬼、オリックスの殿馬、西武の山田と対戦した(少チャンコミックス『ドカベン・プロ野球編』22巻)。
前の対戦は高3の夏、2度目の対戦は山田太郎プロ入り4年目の夏であり、それから考えると4年ぶりの対戦のはずである。
しかし、対応する西暦で考えると、高校時代の明訓対決は1991年夏、プロ入り後の再度の対戦は1998年夏だから7年ぶりである。
高校時代、山田世代は新潟明訓3年と同輩であって、初対面でも呼び捨て、タメクチの間柄であった。それがプロで対戦すると山田と殿馬は小林幹英を「小林さん」、岩鬼は「小林はん」と呼び、先輩あつかいしていた。
新潟明訓が1991年に甲子園に初出場した当時、小林幹英は高校3年だったが、『プロ野球編』の山田世代はまだ中学3年生であった。
西暦2004年に西武ライオンズから東京スーパースターズに移籍した『プロ野球編』以降の山田太郎は、1992年の4月に神奈川明訓に入学したのであり、その直前、92年の3月に小林幹英は新潟明訓から卒業したはずで、完全に入れ替わりであり、同じ年に高校生だったことはありえなくなっている。
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