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『仕掛人・藤枝梅安 梅安荒梅雨』で描かれた半世紀

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2009/6/16(火) 午後 4:02
『仕掛人・藤枝梅安 梅安荒梅雨』で描かれた半世紀

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なぜ吉宗は家重を後継者に指名したか 

『コミック乱Twins』2005年7月号掲載、劇画版『仕掛人藤枝梅安』(原作:池波正太郎、脚色:北鏡太、作画:さいとう・たかを)の「仕掛之四十七・梅安荒梅雨」で徳川吉宗が将軍の座を家重に譲ってからの53年間が述べられている。

小杉十五郎が木之内左衛門と名乗り、松平定信(1759~1829)の守役になったのが1798年6月。
そこで定信が半世紀余りの歴史を十五郎に語っている。要約すると以下のようになる。

吉宗の次男・宗武(むねたけ)を家祖とするのが田安家。
吉宗の四男・宗尹(むねただ)を家祖とするのが一橋家。

家重には執政能力がなく、宗武と宗尹は将軍の座をめぐって対立。

吉宗が家重に将軍の座を譲った。
6年後、吉宗が没すると、政治の実権は家重の側用人・大岡忠光に握られた。

家重の長男・家治が10歳で将軍になると、小姓上がりの田沼意次が側用人から老中になった。
一橋家の2代目当主・治済(はるさだ)と田沼は手を結び、治済の子・豊千代を将軍にしようと考え、陸奥(みちのく)白河の松平越中守定邦に後継ぎがいないことをいいことに、将軍後継者争いのライバルとなる田安家の定信をその養子にすることで、奥州白河に飛ばそうと考えた。

1774年(安永3年)定信は17歳で心ならずも松平定邦の養子になった。田安家では定信の兄・治察(はるあき)が2代目を継いでいた。

5年後、家治の世子だった家基(いへもと)が急病で死去。
代わって一橋家の長男・豊千代が8歳で世子に。豊千代はのちの家斉(1773~1841)である。

その後、田沼意次の息子で若年寄だった意知(おきとも)が新番士の佐野善左衛門によって私怨を理由に斬られた。
事件から2年後、1786年(天明6年)に家治が没し、田沼意次は失脚。
翌年、御三家の推挙で定信が老中首座になった。そして豊千代が11代将軍・家斉となった。

ここで幕府の財政は破綻同然。
大奥の美女を罷免する政策は、吉宗がやったらしいが、この劇画では定信もやったことになっている。

家斉は父・治済に「大御所」の尊号を送ろうとしたが、定信は治済が将軍経験者ではないということで、これに反対。
1793年(寛政5年)、定信は志半ばにして老中を罷免された。

それから5年後に小杉十五郎が定信の守役になった。これが「梅安荒梅雨」で描写された家重ら家斉までの歴史である。
定信は参勤交代で江戸へ向かった。定信の駕篭(=駕籠、かご)の警護には小杉十五郎も加わっていた。
「仕掛之四十七」の最終コマ、定信の一行が両国の陸奥(福岡県南部)の白川(ここでは白河でなく白川という表記)にさしかかったのは1798年の7月に入ったころ。

2013年09月16日(月)
劇画版「仕掛人・藤枝梅安」で梅安の仲間・小杉十五郎が松平定信の護衛係になったのは1798年で、火付盗賊改方長官だった長谷川平蔵(1745~1795)が没してから3年経った時代であった。
posted at 22:14:02

延享2年(西暦1745年)から寛政10年(西暦1798年)まで53年間。
200年ずらすと昭和20年(西暦1945年)から平成10年(西暦1998年)まで53年間。
5:54 - 2019年(令和元年、寛政231年)5月18日 

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仕掛人 梅安 
藤枝梅安 梅安 2006(twilog)

参照
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徳川光圀と吉宗の年齢変遷
『仕掛人藤枝梅安・梅安荒梅雨』
大黒屋光太夫が歩んだ歴史I
『仕掛人藤枝梅安』【作品】

T-CupBlog
【時代劇の時代設定】必殺仕掛人   

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