2019/5/23 9:58
Y!Blog
2011/8/19(金) 午後 11:58
江戸時代の歴代水戸藩主と松平・徳川家のお忍び
『西郷どん』では慶喜が「ひー様」と名乗って、町人姿で、外出していた。そこで西郷吉之助と何度か会っていた。
2011/8/19(金) 午後 11:58
江戸時代の歴代水戸藩主と松平・徳川家のお忍び
江戸時代全体で「水戸黄門の印籠」が通用したかどうかを検証
「水戸黄門」とは「水戸中納言」のことである。
「水戸黄門」とは「水戸中納言」のことである。
姫将軍、徳川家光、梓右近、松平長七郎が城の外で「世直し」をしており、水戸藩主の出番はなかったと思われる。家光の忍び旅は1634年の話で、大阪夏の陣から19年。旧豊臣軍の老兵が残っていたり、豊臣の生き残りを担ぎ上げて統幕を狙う勢力がいて、反徳川の動きがまだ残っていた。家光の時代には島原の乱もあり、キリシタンが家光の命を狙うこともあり、柳生十兵衛が家光を暗殺したという説(『柳生一族の陰謀』)もある。家光の没年には由井正雪(由比~)の乱もあった。
家光が忍び旅をしていたとき、人々は家光に平伏していたが、平伏後に斬りかかるのが常で、家光も道中で命を狙われたことが何度かあり、この時代に水戸藩主が葵の紋の印籠など持ち歩いても安全どころか危険だった可能性がある。
家光が忍び旅をしていたとき、人々は家光に平伏していたが、平伏後に斬りかかるのが常で、家光も道中で命を狙われたことが何度かあり、この時代に水戸藩主が葵の紋の印籠など持ち歩いても安全どころか危険だった可能性がある。
2光圀(みつくに、1628~1701、在職1661~、隠居1690~)…中納言
3綱條(つなえだ、1656~1718、在職1690~1718)…中納言
4宗堯(むねたか、1705~1730、在職1718~1730)光圀の在職中は家綱と綱吉の治世。
3綱條(つなえだ、1656~1718、在職1690~1718)…中納言
4宗堯(むねたか、1705~1730、在職1718~1730)光圀の在職中は家綱と綱吉の治世。
時代劇では隠居後の光圀が諸国漫遊したとされるが、公式の「史実」では光圀の行動範囲は勿来(なこそ)から熱海までの間に限られていた。事実上、白河から箱根までの範囲とほぼ同じである。
綱條の在職期間は綱吉、家宣と家継と吉宗の治世。『暴れん坊将軍』で綱條が水戸から江戸を経由して箱根まで移動しようとした。
宗堯の藩主在職期間は吉宗の享保の改革の時代。『大岡越前』では吉宗が町を歩き回って越前を困らせ、『暴れん坊将軍』でも吉宗が徳田新之助を名乗って江戸市中を歩き回っていた。
5宗翰(むねもと、1728~1766、在職1730~1766)
在職期間は吉宗、家重、家治の治世の前半である。家治の治世の後半には治保が水戸藩主。『殿さま風来坊隠れ旅』では紀伊と尾張の藩主が忍び旅をしており、水戸藩主の出る幕ではなかった。
在職期間は吉宗、家重、家治の治世の前半である。家治の治世の後半には治保が水戸藩主。『殿さま風来坊隠れ旅』では紀伊と尾張の藩主が忍び旅をしており、水戸藩主の出る幕ではなかった。
6治保(はるもり、1751~1805、在職1766~1805)…中納言
将軍は家治の後期から家斉の初期まで。寛政の改革のときに松平定信の意向で隠密同心が活動。
将軍は家治の後期から家斉の初期まで。寛政の改革のときに松平定信の意向で隠密同心が活動。
『あんみつ姫』は平賀源内と水戸光圀が登場したようで、時代考証が滅茶苦茶。もし源内が活動した時代に水戸黄門がいたら、それは治保であろう。
7治紀(はるとし、1773~1816、在職1805~1816)
8斉脩(なりのぶ、1797~1829、在職1816~1829)…中納言
もっぱら文化・文政時代。家斉の弟・松平右近が偽名を名乗って江戸市中で医者をやっていたので、水戸藩主の世直し旅の出番はなかっただろう。家斉の時代、大目付が闇奉行をやったり、北町奉行が素浪人に化けて市中を探索したりしていた。闇の仕事人の活動が一気に激化。
8斉脩(なりのぶ、1797~1829、在職1816~1829)…中納言
もっぱら文化・文政時代。家斉の弟・松平右近が偽名を名乗って江戸市中で医者をやっていたので、水戸藩主の世直し旅の出番はなかっただろう。家斉の時代、大目付が闇奉行をやったり、北町奉行が素浪人に化けて市中を探索したりしていた。闇の仕事人の活動が一気に激化。
9斉昭(なりあき、1800~1860、在職1829~、隠居1844~)…中納言
10慶篤(よしあつ、1832~1868、在職1844~1868)…中納言
11昭武(あきたけ、1853~1910、在職1868~、隠居1871~)
天保から幕末にかけて。家斉の治世の後半と大御所時代、家慶(天保の改革)、家定(日米和親条約)、家茂(安政の大獄~公武合体)、慶喜(大政奉還)、そして廃藩置県までの時代になる。
天保の改革の時代は鳥居甲斐守による仕事人狩りが盛んだったにもかかわず、仕事人グループの活動が文政や幕末に負けないほどに集中していた。1840年代に斉昭が遠山金四郎を支援して、雪姫が紫頭巾になったりしていたが、水戸藩主の活動はこのくらい。遠山が南町奉行になったとき、斉昭は隠居の身だった。家慶の弟・源久郎が忍び旅をしていたが、葵の紋所の威光が通用したのは家慶の治世までであった。
10慶篤(よしあつ、1832~1868、在職1844~1868)…中納言
11昭武(あきたけ、1853~1910、在職1868~、隠居1871~)
天保から幕末にかけて。家斉の治世の後半と大御所時代、家慶(天保の改革)、家定(日米和親条約)、家茂(安政の大獄~公武合体)、慶喜(大政奉還)、そして廃藩置県までの時代になる。
天保の改革の時代は鳥居甲斐守による仕事人狩りが盛んだったにもかかわず、仕事人グループの活動が文政や幕末に負けないほどに集中していた。1840年代に斉昭が遠山金四郎を支援して、雪姫が紫頭巾になったりしていたが、水戸藩主の活動はこのくらい。遠山が南町奉行になったとき、斉昭は隠居の身だった。家慶の弟・源久郎が忍び旅をしていたが、葵の紋所の威光が通用したのは家慶の治世までであった。
八幡和郎(やわたかずお)『江戸の殿さま全600家』(講談社+α文庫)とインターネットを参考にした。
『江戸の殿さま全600家』では綱條は「綱条」、宗堯は「宗尭」という表記である。
『江戸の殿さま全600家』では綱條は「綱条」、宗堯は「宗尭」という表記である。
『西郷どん』では慶喜が「ひー様」と名乗って、町人姿で、外出していた。そこで西郷吉之助と何度か会っていた。
光圀 綱條 斉昭
家康 秀忠 家光 家綱 綱吉 家宣 家継
参照
Y!Blog>徳川家歴代将軍1~5【人物】
Y!Blog>水戸徳川家のその後
Y!Blog>水戸徳川家の系図
Y!Blog>水戸徳川家の虚実歴史💻
家康 秀忠 家光 家綱 綱吉 家宣 家継
参照
Y!Blog>徳川家歴代将軍1~5【人物】
Y!Blog>水戸徳川家のその後
Y!Blog>水戸徳川家の系図
Y!Blog>水戸徳川家の虚実歴史💻