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▲徳川吉宗と大岡忠相、平賀源内




▼徳川吉宗と大岡忠相、享保の改革(『暴れん坊将軍』、『大岡越前』)
江戸時代の日本に彗星が落下!
1716年、幼い家継が病死。吉宗が将軍となる。享保の改革の始まりである。
1719年、吉宗は長崎から天文学者・西川如見(にしかはじょけん→にしかわ~、1648~1724)を呼び寄せた。

テレビ朝日『暴れん坊将軍』によると、この時期、日本の関東地方に彗星が落下。
www.tv-asahi.co.jp/abare/
吉宗と西川如見、町火消し・め組の親分の働きで、落下地点・大和田村の住民は事前に無事、避難した模様(円道祥之=えんどうまさゆき『空想歴史読本』、柳田理科雄『空想科学読本3』)。ただ、1719年当時に町火消しはあっても、「め組」があったかどうか、意見が分かれるところであろう。
暴れん坊将軍 IX 第19話

人材不足は相変わらず
吉宗は城では弓矢の練習だけをしていたようだが、剣の達人で、たびたび城を抜け出して偽名を名乗り、犯罪者の家におしかけて、お庭番2名とともに大立ち回りを演じて、成敗させていた。政治的に解決できない意味で、将軍としては人事が下手か、よほどの人間不信だったのだろう。
TBS『水戸黄門』によると、吉宗は紀州にいた若いころ、漫遊中の光圀と直接、会話したことがあり、町を見て回るのも光圀の影響かも知れない。
www.tbs.co.jp/mito/mito38/story/05.html

2008年、イージス艦(Aegis destroyer)が漁船に衝突したとき、一々、序列の順序どおりに連絡して手間がかかり、いきなり下から上に連絡すると中間層の面子をつぶすかららしい。言ってしまえば、『水戸黄門』と『暴れん坊将軍』は奉行や目付けの面子丸つぶれ、『遠山の金さん』は同心、与力の面子丸つぶれである。

『暴れん坊将軍』では吉宗は投獄されたこともしばしばで、銃で撃たれて崖から落下しそうになったこともある。また、盗賊に加わって江戸城の金蔵を破るのに協力したこともあったらしい。普通なら、幕臣から吉宗辞任を求めるリコール運動でも起きて、尾張の宗春を擁立する声が高まっても不思議はなかった。
また、光圀は日本各地の地方政治に干渉していた当時、從者が真の身分を明かすと、周りは大体、ひれ伏したのに対し、吉宗の場合、将軍であることを名乗っても、犯罪者の家来たちは吉宗に斬りかかるのが常で、吉宗は光圀より尊敬されていなかった模様である。

TBS『大岡越前』では吉宗が忍びで町を歩いただけで、騒動になり、大岡忠相(おほをかただすけ→おおおか~、1677~1751)が将軍に「上様が江戸市中を歩き回るのは度が過ぎています。市中の安全を守るのが奉行所の役目」(要約)と忠告をしていた。
また、TBS『大岡越前』では、大岡忠相の裁判に吉宗が証人として白州に出るだけで大問題だったが、テレビ朝日『暴れん坊将軍』では、忠相が裁いている白州に、吉宗が忠相に事前の断りもなく証人として平気で出廷したことがあった。
https: // www.gakubun.co.jp/hanbai/shouhin/330054_ot.html

テレビ朝日版『名奉行!大岡越前』によると、忠相が在職していた南町奉行所では冤罪(えんざい)事件、誤認逮捕が多かった模様。
www.tv-asahi.co.jp/echizen/

結局、忠相が浪人姿で自ら捜査をすることが多く、与力、同心ともにそろって役立たずで、奉行にとっても部下の大半は信頼できなかったようだ。ここでは奉行が同心や岡っ引きの仕事を奪っており、配下の者たちは、奉行が将軍に言った意見をそのまま奉行に言いたかったのではあるまいか。

この「奉行自身による探索」は、首都の警察のトップが裁判官と捜査官と目撃者を兼ねていないと事件の真相がわからない意味で、やはり、慢性の人材不足だが、南町と北町、両方の奉行所で共通の問題だったようだ。その後、天保時代になると、北町奉行・榊原忠之も同じことをしており、そし遠山金四郎(1793~1855)まで真似するようになる。

日本人女医第一号は定説より早い?
吉宗の治世において、小石川養生所の医者は複数の交代制だったようで、TBS『大岡越前』では一人が大岡忠相の旧友でおそらく武士の医者。彼は忠相を呼び捨てにしてタメクチ(非敬語)で話していた。彼が不在のときの代理の医者は、さすがに奉行に普通に接していた模様。

一方、『暴れん坊将軍』では若い女医で、め組の関係者(つまり町人)と推測される。日本人の女医としては、普通、シーボルトのむすめ・楠本イネ(くすもと~、1827~1903)が第一号とされるが、イネより一世紀ほど前に日本人の女医は誕生していた。もっとも『水戸黄門』でも日本人の女医が出てきたので、テレビ時代劇の歴史観では日本人の女医は元禄時代からいたらしい。
片岡千恵蔵が演じて印象的だったのは忠相の父親・大岡忠高。一方、『暴れん坊将軍』シリーズで大岡忠相の養父が出てきたことがあるが、「史実」の養父は大岡忠真(~ただざね)で、ネットで調べると吉宗が将軍になったときは故人だった。

TBS版では忠相にむすこ(忠宜=ただよし?)がおり、テレ朝版ではむすめ(香織)が目立っていた。

吉宗の時代、丹下左膳という片目、片手の剣客がいた。

そして、享保の改革の最中、1726年に『ガリヴァー旅行記』が出版された。
1727年4月2日、ガリヴァー(Gulliver)が從兄シンプソンにてがみを書いた。この文面は岩波クラシックス5、平井正穂(ひらいまさお←*ひらゐまさほ)譯『ガリヴァー旅行記』に記載されている。

1728年に平賀源内(1780年没)が誕生し、1729年にのちのエカテリーナⅡ
(Ekaterina II、1796年没)が生まれた。

水戸光圀の場合、家臣が正体を明かすと、相手はひれふしたが、吉宗は「世の顔を見忘れたか」と叫んで相手がひれ伏しても、最後は相手が抵抗し、相手が「であえ、であえ」で呼び出した家来たちが吉宗に斬りかかって大立ち回りとなる。このことから、光圀と比べて吉宗は余り尊敬されていなかったことがわかる。

徳川吉宗と大岡忠相、平賀源内
9代家重と大岡忠光、平賀源内
大黒屋光太夫、寛政の改革、アントワネット、エカテリーナの時代
フランス革命は正しかったか
『おろしや国酔夢譚』『ラ・セーヌの星』『ダントン』

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2008年2/25 2/27 2/28

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吉宗 旅行記 越前
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