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▲1970年I――ドラえもん出現、左腕・星飛雄馬現役最終年




1970年(昭和45年)は大阪万博の都市。
正月に東京の野比家にドラえもんとセワシ(のび太の孫の孫)が来訪し、のび太がこの両名と始めて逢った。
『ドラえもん』の「未来の国からはるばると」で記録されている。
のび太はのちに1964年8月7日生まれと判明するが、そうなると70年の正月はまだ5歳になる。
ドラえもんとセワシが提供したアルバムによると、のび太は1979年に大学受験で落第、19年後(推定1989年)にジャイアンの妹・ジャイ子と結婚する予定だった。

ドラえもんの助っ人として、鳥型ロボット・ガチャ子も22世紀から送り込まれたが、
半年で去って行った模様(小学館『ド・ラ・カルト do:ra:carte』)。
なお、73年に放送された日本テレビアニメ版では、最終回でドラえもんが去ったあともガチャ子が残ったはず(リアルタイムで観たときの記憶)。

また、この1970年の正月に花形満が阪神の村山実監督の自宅で消える魔球の謎を解明。当時、「あっと驚くタメゴロー」がはやっていた模様。
オズマが帰国。中日の星コーチは伴をトレードで獲得することを決め、飛雄馬と伴は後楽園球場で、花形、左門と非公式に対戦。飛雄馬は負けを認め、伴は明子からの忠告を受け、中日への移籍を決意する。

ロッテに移籍した江藤慎一にかわって背番号8。伴の代わりに中日が巨人に譲った投手はアニメで「黒松」、伴の巨人時代の119番を受け継いだ。

この年から与那嶺要が中日のヘッドコーチになったはずだが、『巨人の星』ではこの年も星一徹がヘッドコーチのような役割であった。梶原一騎が与那嶺の活躍を描くのは『侍ジャイアンツ』と『新巨人の星』である。
伴が移籍したあと、飛雄馬は宮崎キャンプでも不調だったが、飛雄馬からの葉書で調子を取り戻す。長嶋は飛雄馬への助言で「めくら蛇におじず」という諺を使っていたが、のちに変更(改竄)された。
アニメでは美奈の上司だった沖竜太郎医師が飛雄馬に助言した。山奥の診療所では「たらい回し」は不可能であろう。

飛雄馬は大リーガーと対戦し、アメリカ人選手は消える魔球を知らず完敗。しかし、A・オズマから情報を得ていないのは不思議だし、アメリカ代表がサンフランシスコ・ジャイアンツで、オズマのカーディナルスでないのが不思議だ。帰国後のオズマは見えないスイングで大活躍したはずだ。この時期はベトナム戦争に参戦していたのだろうか。

「ドラえもんの大予言」では、2月6日、のび太は車にひかれ、重症を負うはずだったが、ドラえもんとセワシの働きで、のび太はミニカーを額に受けた軽傷ですんだ。もっとも、「無事故でけがをした話」でドラえもんは「過去を勝手に変えてはいけない」と言っていた。ドラえもんはタイムパトロールから許可をもらっていたのだろうか。

中日の一徹・伴コンビは消える魔球に挑む。川上監督は大LB1号による併殺を狙って星飛雄馬を起用。代打・伴は逆方向のスイングで1号をファウルし、そのたびに倒れて体重で土を固め、ボールを隠す土煙を防いだ。しかし、川上監督の指示で飛雄馬は2号を外角に外しており、伴が打った結果は投飛。一徹のサインミスと想われているが、しかし、もしサインがなくても伴は打った可能性があるし、打たなかったら巨人バッテリーがタイムをかけ、打席附近の土をかきならしただろう。

消える魔球は花形によって打倒される。花形の打法は三塁走者協力→帽子落とし→一本足打法で、長嶋は伴の体重地固め策と花形の前の2つの策に初めから気づいていたと言ったが、伴の策のとき、長嶋は予想外のように驚いていた。

飛雄馬は打たれた直後、勝手にマウンドを降りて新大阪から新幹線に乗り、東京に帰った。それは「取材陣につけ回されるのがいやだった」かららしい。ここでもマスコミは邪魔でしかない。
飛雄馬はいつも勝手に挫折して失踪するだけで、他の選手や指導者に相談することもなく。球団に引退を申し出ることもしない。消える魔球を打たれたとき、飛雄馬は「野球は大きい男たちが力を競うもの」、「俺は野球を手品に堕落させた」と言ったが、だからといって誰にも相談しようとしていない。「手品」に関しては、のちに大LB三号のとき、ファンから「マウンドの魔術師」と言われ、星投手と引田天功の対談が企画され、七八年の大LB右一号のときはロメオ・南条が「こんな手品の相手にはならん」と言っており、飛雄馬は「野球界の手品師」を受け入れたようだ。

一九七〇年の春によど号ハイジャック事件があり、ハイジャック犯が「われわれは明日のジョーである」という声明を残した。

飛雄馬がマンションのテレビで中日×大洋戦を観ていたとき、中日の星野仙一の代打で伴が登場。解説者は伴を中西太の再来と表現した。飛雄馬がチャンネルを変えると藤圭子が「圭子の夢は夜ひらく」を歌っていた。

七〇年の夏のオールスター戦の前、飛雄馬の長屋は取り壊されたが、その近くには公衆電話があり、過去、飛雄馬も一徹もそれを使った形跡はない。

オールスターのファン投票で選ばれたとき、飛雄馬は「昨年も一昨年も選ばれなかったのに」と言っていた。実際は、「昨年」、つまり一九六九年は選ばれていた。
オールスターで川上監督は星飛が投手で一塁が花形、右翼が左門というライバル協力の守備を実現させたが、なぜか伴は出場せず、客席で一徹と観戦していた。捕手は巨人の森。球宴で巨人の星飛と中日の伴のバッテリーが実現しなかったのは惜しい。
星飛は南海の野村克也(選手兼任監督)、ロッテのアルトマンによって消える魔球を連打され、長池への大LBは失敗。長池は六八年の日本Sで星が大LB一号で打ち取った相手だった。星飛は自分が集中しないから失敗したのに、「絶望だ、大リーグボール二号敗れ、一号もすでにさびついていた」とひとごとのように落胆していた。
星飛は花形と左門の働きで救われる。
次の球宴で星飛はバットをよける謎の下手投げ・大LB三号を披露。野村、アルトマン、そして東映の張本を三振に打ち取った。

そして、飛雄馬は大LB三号で勝ちまくった。
さきほど、述べたように、一部のマスコミでは引田天功と星飛雄馬の対談(「魔術師対魔球投手」か)が提案され、また、女優の吉沢京子が星飛雄馬のファンで、やはり対談が提案されたが、実現したかどうか不明。吉沢京子は当時、ドラマ『柔道一直線』で高原ミキを演じていた。
飛雄馬は石坂浩二司会のテレビ番組『スター千一夜』に出演。共演者は歌手・藤圭子とキックの鬼・沢村忠。

アニメではA・オズマが三度目の来日をして、星飛雄馬と非公式に対戦。だが、オズマはベトナム戦争での傷がもとで、死んでしまう。

張本はバットをよける三号をバットに当てる大LB一号の逆だと評した。アニメでは一徹が三号を一号の応用と推理し、「飛雄馬は打者の動きを予測しボールをはずしている」と言った。三度目の来日をしたA・オズマも飛雄馬と非公式に対戦したとき、同じような推理をしていた。しかし、実際は違い、バットの風圧でよけるものだった。しかし、風圧でよけるなら、ボールは後戻りしたり、下に落ちたりすることもあるのではないか。
『ドカベン』で山田太郎は鷹丘中学野球部の長島(長嶋茂雄とは別人)の投げる球をスイングの風圧で下に落とした。また東海高校に入学する直前の雲竜は、バットをボールに当てずに風圧だけで飛ばした。
イージス艦と漁船の衝突事故の話で、テレビの某キャスターが巨大戦艦の前では漁船は並みの影響を受けるのかという質問をし、專門家は「船の横やうしろなら大きな波ができるが、前では少ない」と説明。すると、柳田理科雄が『空想科学漫画読本』のシリーズで解説したように、ボールがバットの風圧を受けるのは、放っておいても空振りになるコースの場合である。
また、のちに『侍ジャイアンツ』で中日の大砲万作が番場蛮のハイ・ジャンプ魔球を打つためにやった立て膝打法は、バントの構えに当たったボールを腕力で客席まで飛ばす打法である。これなら大LB一号と三号を打てたはずだ。残念ながら星飛雄馬と大砲万作の勝負は実現していない。
花形が大LB一号を打った鉄球・鉄バット特訓打法はそれに近く、これで大LB三号を打てたはず。アニメでは左門が弟、妹たちの協力で花形式に近い訓練を行い、非公式に飛雄馬と対戦してスピン打法を試みたが、結果は投ゴロ。花形も非公式の勝負で鉄球・鉄バット特訓打法を試みたが、飛雄馬は寸前で上手投げに切り替えた。

原作『巨人の星』では飛雄馬は最後の試合の日以来、失踪。『巨人の星外伝・それからの飛雄馬』では、飛雄馬は一九七〇年師走に球界から去った。
WOWOWのアニメ『猛虎・花形満』花形は飛雄馬との非公式の三球対決で敗れ、阪神を引退、元選手として客席で最終回の巨人×中日戦を観戦。試合終了後、花形と明子は結婚し、式場に飛雄馬が駆けつけ、三球対決のボールを渡した。一方、原作とアニメの『新巨人の星』ではシーズン終了後、花形が引退、伴と一徹も中日Dを退団。花形は明子と結婚したが、飛雄馬は祝電をよこしただけで、現れず。

一九七〇年にはブルガリアで女子バレーボール(排球)の世界選手権大会がおこなわれ、ソ連が優勝し、日本は準優勝。『アタックNo.1』の最終回で日本対ソ連の決勝戦が描かれ、日本チームの新人・鮎原こずえは球が分身する魔球を編み出すが、鮎原個人がソ連チームから集中攻撃を受け、日本は惜敗。しかし、鮎原は最優秀選手に選ばれた。

一九七〇年、星飛雄馬が去った直後の巨人は、それでも六連覇を達成した。しかし、川上監督は「サムライがほしい」と嘆く。
秋のドラフト会議、川上は土佐嵐高校の番場蛮を指名(原作『侍ジャイアンツ』)。
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『巨人の星』

KC16巻、文庫9巻
「飛雄馬のしごき」
1970年初め、巨人軍の自主トレの際、長嶋と柴田は箱根にこもり、王貞治は伊豆で調整。多摩川グラウンドで飛雄馬は伴宙太をしごく。花形は六甲山で、左門は九十九里浜で消える魔球を打倒するための特訓をしていた。

阪神の自主トレでは花形が参加せず、記者が不思議がっていた。村山実監督によると、自主トレは選手が自主的に行なうもので、監督が選手に参加を強制したら連盟のルール違反。花形は六甲山で二軍選手1名の協力のもと、消える魔球打倒特訓。
左門は九十九里浜で特訓。

「真冬の特訓」
川上監督は欧洲旅行中、パリで星一徹から国際電話を受け、その場で巨人軍事務所に電話して5勝以上確実な投手と交換できるなら伴のトレードに応じると表明。
巨人軍には星飛雄馬がいながら投手難。これは川上監督が星飛雄馬に登板を命じても、星飛雄馬がそれに逆らって2軍にいるからである。伴がトレードされたのは星飛雄馬が伴の打撃を鍛えなかったせいもあるが、また、星飛雄馬が身体の故障でなく勝手に精神的に傷ついて、勝手に試合をサボるせいもある。

花形と左門の特訓は、いずれも一徹が一人で視察。名古屋の中日宿舎住まいであるはずの一徹にとって、六甲山から九十九里浜までの交通費と国際電話料金も結構、かかっただろうが、中日のコーチになった一徹はさすがに裕福になった模様である。

Y!Blog-1234

Y!Blog
2008年9月16日 [3]

前後一覧
2008年2/28(1968年大リーグボール1号~1973年「よれよれ18番」)
2008年2/28(1969年消える魔球~1973年大回転魔球)
2008年9月15~16日(AmebaBlog)

関連語句
1970 大リーグボール3号 未来の国から・・・

参照
AmebaBlog>〔1970年(1)――ドラえもん常駐開始、伴宙太移籍
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