地理講義   

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238.千厩町の遠見遮断(枡形)β版  岩手県一関市千厩町

2016年12月27日 | 地理講義

都市の中間地点
平成の大合併前の市町村名で示すならば、千厩(岩手県)から一関(岩手県)まで国道284号で22km、千厩から気仙沼(宮城県)までも気仙沼街道で22kmの位置にある。つまり千厩は一関と気仙沼の中間にある。読み方は千厩せんまや、一関いちのせき、気仙沼けせんぬまである。
鉄道の開通前、一関~気仙沼44kmを歩き通せば10~12時間だが、荷物があったり、悪路であれば二日間の行程である。中間地点の千厩が休息あるいは宿泊地になる。千厩は小さいながらも宿場の役割を果たしていた。

 5万分の1地形図(平成19年)には千厩町の道路は、遠見遮断までは描かれていない。市街地の主要道路は屈曲部分がない。素描の誤差の範囲内として無視されたのである。

市街地の地図(Yahoo)では、市街地が屈曲している。市街地が岩手銀行千厩支店付近は道路の拡幅が進められ、直角路の平滑化がなされたが、屈曲部分は明瞭である。ここが2回直角に屈折する道路、つまり枡形あるいは遠見遮断である。これは城下町・宿場町に特有の防衛的な道路携帯である。

現在のメインストリート
千厩最大の現在の商店街はさびしい限りである。周辺農村地域の高齢化と人口減少により、かつての賑わいはなくなった。町に賑わいを取り戻すより、各商店主が近くにできた工場で収入を得たり、バイパスに新店舗をつくることが優先される。1商店がカネをかけて改築改装をしてやる気を出しても、商店街全体に客を集めることは難しい。

 遠見遮断あるいは枡形
1960年代、つまり高度経済成長に取り残されるまでは、賑わっていた。商店街を東から西に進むと屈曲路である。道路改修前の1960年代までは今よりもきつくて狭い道路であり、自動車には危険であった。
商店街を東の本町から西の新町にまっすぐに進むと、銀行がある。本町のメインストリートを直進すると銀行に飛び込む道路であった。現在は多少の手直しが進んで、銀行が右に移り、道は拡幅された。それでも正面には銀行があり、道路は屈曲状態が残っている。


古い商店街なので旅館が2軒残っている。昔の商人宿の風情があり、風呂・トイレ共同であり、2食付きで5,000円程度である。岩手銀行千厩支店が岩手殖産銀行としてできたのが昭和15年であり、それ以前は薬局(大正14年創業)、その前は旅館であった(明治6年)。
現在の岩手銀行千厩支店の枡形になっている道路に面し、明治6年に旅館がつくられた。明治6年にはすでに新橋・横浜間に鉄道が開通していたが、地方においては馬車輸送が急発達していた。馬車の通行できるように、主要集落間に幅2~3間(4m程度)の道路が整備され、馬宿もできた。近世の宿場町が、地方には近代になって成立発展した。千厩は、馬車時代開始の明治6年以後から、自動車普及の昭和40年まで、つまり近代に成立発展した宿場町であった。

 

 拡幅した銀行(旅館、明治6年~大正14年)の裏手の道路、つまり西からこの遠見遮断(枡形)を見ると、道路が拡幅されて直角路は緩和された様子が分かる。銀行側1車線は、改築前には銀行用地であり、道路は狭く、危険であった。まさに馬車道そのものであった。また、かつ丼の看板の手前空地にはパチンコ店があり、交差点の道路は狭く、馬車はすれ違いに難渋した。

 「あんかけかつ丼」の看板がある食堂は角地にあるから、小角食堂である。小角は「こっかど」と読み、近くにある旅館の客が利用する。かつて、小角食堂と道路の間にはパチンコ屋があったが、道路拡幅のために姿を消した。小角食堂が大角食堂になってしまった。

 小角食堂の斜め向かいに岩手銀行千厩支店がある。かつては道路の真正面が入口であり、自動車が飛び込んだことがある。改築により、玄関をずらした。また、建物自体を円形の外見にし、交差点との調和を図った。なお、道路拡幅前は銀行の左は2車線であり、非常に危険な交差点として有名であった。

アジール
なぜ、こんな小さな宿場町に、遠見遮断(枡形)が必要だったのだろうか。城下町・宿場町は敵軍の来襲や盗賊の攻撃に備える防衛的必要性から枡形の存在意義が説明されるが、しかし、明治以降は、そのような時代でもなかった。一関~気仙沼間を往来する商人宿だけの小さな宿場町には、遠見遮断の道路は無意味であった。
商店街が結束して遠見遮断よりも外側に商店を作らせない、商店街の利権保持の意味があったのかもしれない。地方の商店街では、新たな商店を開こうにも、既存商店からの圧力があり、問屋が取引を始めようとしないことは、よくあることである。この交差点から外側は新町と言われるが、その利権境界が遠見遮断(枡形)である。
江戸末期から明治初期までは周辺では大きな百姓一揆がしばしば起こり、一揆来襲を防ぐために遠見遮断は必要かもしれないが、この程度の屈曲では一揆を防ぐ効果はない。
商業都市・宿場町としては、千厩は小さな集落だが、遠見遮断(枡形街路)内部の商店街は既存の利益を守るための結束をしていた。排他的な組織としての商店街・宿場町は、遠見遮断外に新たな商店を作らせなかった。自らの利益を守り続けることの象徴が遠見遮断であった。千厩の市街地は、遠見遮断で区切られるアジールであった。

 老舗の旅籠旅館伊勢屋である。銀行前の遠見遮断までは100mの距離である。風呂・トイレは共同だが、食事は頼めば作ってもらえる。気仙沼~一関を往来する者は、国鉄大船渡線の開通により、宿場町千厩に泊まる必要はなくなった。千厩に出張で来る葉たばこ検査員、馬喰、県庁職員、置き薬、イタコ、旅程の狂った旅行者などが泊まるようになった。鉄道開通前、道路が人馬で賑わっていた頃、旅館は大賑わいであった。
なお、伊勢屋の斜め向かいに崑慶旅館がある。また岩手銀行千厩支店の土地は枡形だが、そこには旅館があった(明治6年~大正14年)。旅館閉鎖の大正14年は大船渡線の開通年であり、千厩の宿場としての存在価値が低下した年でもある。

 



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