地理講義   

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239.秋保町長袋の遠見遮断  宮城県仙台市秋保町

2017年01月04日 | 地理講義

仙台と山形を結ぶ道
宮城県南の山中七ヶ宿街道、現在は幹線道路・鉄道の通る笹谷街道、最短距離だが934mの難所を越える二口街道が主要街道であった。明治5~15年までの二口街道は、道路整備者にカネを払う有料道路であったが、仙台~山形の物資輸送がには最もよく利用された。明治以降に流行した馬車も二口峠は通行できず、峠を越える物資は馬と人の背で輸送された。


長袋は、仙台側の秋保温泉から10km、二口峠への最終宿場馬場まで3kmの位置にある。山形か~仙台の旅人が宿を借りるのには中途半端な距離であり、宿場町としては小振りのものであった。長袋集落は、小商人相手のささやかな宿場町であった。
地形図のAは名取川の河岸段丘崖であり、急勾配の坂道になっているので、道路は曲がりくねって勾配をゆるやかにしている。Aの東が秋保温泉である。
Bは名取川をはさんだ本砂金(もといさご)である。
Cは遠見遮断のS字型カーブで、ここに長袋神明神社がある。長袋神明神社の東も西も直線道路である。
Dは二口峠を越えて山形に向かう道。

宿場町の遠見遮断(枡形)
長袋神明社は養老年間(8世紀はじめ)にできたと伝えられる。また、江戸時代のはじめに仙台大町から移転されたものとの説もある。長袋神明神社で道路がS字型の遠見遮断(枡形)になっている。
山形から二口峠を越えて敵軍あるいは群盗が来襲することを防ぐ目的としては、カーブがゆるやかであり、勢いを止めることは難しい。番所があれば、神明神社の陰から西を見張り、神明神社を戦場とする程度の戦闘ならば、可能であった。長袋は小規模ながら遠見遮断の道路があり、宿場町の面目を保っていた。 

 仙台から二口方面に向かい直線道路は、長袋神明神社で急カーブにさしかかる。S字型の遠見遮断である。長袋の小さな宿場町を奇襲する盗賊を防ぐ目的かが退治されたかもしれない。あるいは敵の大群が押し寄せる光景を目撃し、遠見遮断で食い止めている間に、援軍を頼むことができたかもしれない。遠見遮断に防御的な価値はあったのであろうが、長袋は敵軍に襲撃されない要害の地にあった。盗賊に襲撃されることはあったかもしれないが、枡形をつくるほどのことではない。

長袋神明社で急カーブになっている。しかし、敵軍と接近戦あるいは一騎打ちがあった場合、戦闘覚悟の敵軍と平常警備の自軍との争いは、敵軍に有利になる可能性が高い。遠見遮断のために遠方の敵軍を見落とす恐れもある。何百、何千の敵軍が隙間なく攻めて来るのであれば、攻め足を鈍らせる点では遠見遮断は有効かもしれないが、足を鈍らせる程度の防御能力に過ぎないとも言えるが、攻撃される恐れのない土地である。泥棒・盗賊対策は必要であったろうが、敵軍攻撃に備えるほどの集落ではない。



 長袋神明社があるのは、長袋集落の中心部である。仙台側と山形側に大きな変化がない。長袋神社付近のS字型遠見遮断で敵軍との一騎打ちあるいは総力戦が行われると、集落全体に影響が及ぶ。ここの遠見遮断は、適切な位置ではない。それでも神明神社横が遠見遮断になっているのには、別の理由があるのかもしれない。

長袋神明神社の二口側にもまた直線道路をはさんだ集落である。江戸末期から明治初までのささやかな宿場町を思わせる。秋保温泉よりも難所二口に近い宿を選べば、長袋の宿になるであろう。馬を使って馬場の宿まで行く者は、長袋を素通りすることになる。



神明神社と道をはさんだカーブ外側に、秋保神社がある。山形県の民家風のデザインの局舎である。

アジール
遠見遮断には軍事防衛とは異なる意味がある。宿場町・城下町の大小にかかわらず、遠見遮断が作られたのは敵軍・群盗などから町を防ぐためと説明されてはいるが、遠見遮断にはそれとは異なる存在意義がある。
① 遠見遮断は敵軍の視界を遮るとか敵軍の一斉攻撃の勢いを弱めるためだとすると、迎え撃つ身方側にも同様の不利がある。つまり迎え撃って一斉にたたきつぶすには、視界が遮られていて、大軍を投入できないのである。
② 江戸末期から明治初期には藩間の軍事抗争や他藩侵略は、幕末・維新以外にはなかった。幕府により、争議行為は厳しく禁じられていた。迎撃あるいは偵察地点としての遠見遮断は、軍事的には必要はなかった。
③ 武力に長じた群盗が自衛力の弱い宿場を襲い、商店や客から金品を強奪することは、珍しいことではなかった。遠見遮断は強盗団の来襲を察知するため、町の設置した防衛設備であったことになる。
④ 経済的側面からは、宿場町が利益を独占するため、客を宿泊させることのできる範囲を設定した。遠見遮断から外側では旅客を泊めることは禁じられた。あるいは遠見遮断を中心に街道前後何軒かに限り宿を経営することができたのであろう。いずれにしても、遠見遮断は利益共同体としての象徴的な意味があった。
⑤ 遠見遮断で利益を守られる商店は、さらに利益を独占するため、仲間内では新規出店の規制や取引条件の談合など有利な取引をする一方、外部に対しては問屋に圧力をかけて商業取引を事実上禁止した。
⑥ 自らの居住圏内を聖域のように扱い、居住圏外には差別的な姿勢があった。現在も地方の商店が新規開店することがなかなか難しい。聖域の象徴が遠見遮断であろう。専制的な政治の象徴が城の天守閣であったように、独占的な商業圏としての象徴が遠見遮断の道路である。この特権的独立的な商業圏は、アジールの一型とみなすことができる。
※21世紀の現在においても商工会の勢力が強い保守的な市町では、コンビニエンスストアの新規開店、商店の営業時間の規制、日曜日の一斉休業などの規制が強い。激しい生き残り競争のない、有利な経済活動を維持できるのである。商店街から外れた地域においては新規出店をしたくても商工会の圧力を受けた問屋が動けず、不利な立場での営業となり、利益はあがらない。法的拘束力のない有形無形の力が商業地域内外に作用し、結局は既存商店街の利益が守られている。

長袋は神明神社を境界として、東側が仙台文化圏あるいは仙台商業圏である。笹谷峠が仙台~山形の最大ルートで馬が通行でき、明治初期からは馬車も通行できた。笹谷峠への近道が、長袋東の道であり、仙台商人の通り道であった。
長袋西側つまり神明神社から東側は山形文化圏あるいは山形商業圏であった。二口峠は難所とはあったが、山形~仙台の最短ルートであった。明治以前には馬も通れなかったが、仙台からは魚介類、山形からは山形の食品やエゾの物産が運ばれて来た。
長袋神明神社は仙台から移された神社でありながら、長袋というアジールを、仙台文化圏と山形文化圏とに分ける存在であった。仙台文化圏には何もないが、山形文化圏では山形の山伏の影響の強い秋保神社があり、山形の商品が多い。

 

 

 



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