地理講義   

容量限界のため別ブログ「地理総合」に続く。https://blog.goo.ne.jp/morinoizumi777

236.相馬市の街路 遠見遮断

2016年12月05日 | 地理講義

相馬中村藩
相馬中村藩は福島県浜通北部を治めていた。相馬藩とは藩主の名字から由来し、中村藩とは地名から由来する。併せて相馬中村藩と呼ばれる。廃藩置県まで、相馬家による支配は700年以上の長期に及んだ。天明の大飢饉(1782~1788年)では餓死者が5,000人とも8,000人ともいわれた。その人口減少を補い、さらに新田開発を進めるために富山などからの移民を受け入れた。その人数は30年間で9,000人に達した。
遠見遮断
藩政時代の市街地が色濃く残り、特にクランク(屈曲型道路、枡形)、丁字路(ていじろ)、緩曲路などは、まとめて遠見遮断(とおみしゃだん)といわれ、防衛上、大きな役割を果たした。城下町中心部への敵軍や暴徒の侵攻を阻止する上で、先の見えない入り組んだ道路(遠見遮断)が有効と考えられた。相馬市中心部には遠見遮断の道路が残っている。


城下町の基本型は藩主相馬利胤により慶長17年(1612年)からつくられた。身分別・職業別に配置された。

 (A)細かに観察すれば十字路だが、交差点に南下する道路は狭く、大勢の者が一度に通ることはできない。道路標識は進入禁止の一方通行であり、実質的には丁字路(ていじろ)である。眼鏡店は丁字屋、読みはていじやである。書店は店名を眼鏡店とは区別して丁子屋、読みはちょうじやである。眼鏡店・書店とも丁字路にあることを示している。

(B) 丁字路。右側(北側)は民家風の銀行であり、周囲の景観を考慮した建物になっている。正面は藩政時代の遊郭、現在は割烹旅館新開楼である。道路は新開楼前では左に直角に折れている。新開楼には遊郭としての面影が残る。



 

 (C) 道路が直角路を円で曲がるので、ハイカラヤ百貨店(休業中)も道路に沿って丸くなっている。戦後のハイカラ時代にはハイカラな百貨店であった。道の向かいにはスポーツ用品などを扱うトムハイカラヤがある。

 ハイカラヤ百貨店の東向かいはトムハイカラヤ、南向かいはNTTである。相馬では景観保護のために建築物の高度規制があり、NTTビルは相馬では巨大ビルに属する。ハイカラヤ百貨店前を90度曲がった道路はNTT前と市役所前をまっすぐに進み、やがて中村第一小学校を通り過ぎて左に直角に曲がる。

 

(D) 相馬市役所と中村第一小学校にはさまれた直線道路は400m、中村神社門前で左折する。この道路は国道115号線だが、かつては相馬街道あるいは中村街道と呼ばれた。相馬中村の城下に入るためには、このような遠見遮断の道路を抜けなくてはならなかった。なお、道路右は中村城跡、左は中村第一小学校である。

 (E) 宇多川の河岸段丘上に相馬神社がある。中村城本丸跡でもある。

 

地図は、電子地図が分かりやすい。

 直進の道路をあえて数回直角に屈曲させて遠見遮断になっているものを、枡形という。敵軍の攻撃から町を守る防御的な役割があったとされるが、敵味方が入り交じって戦う場合、遠見遮断は敵軍にも有利な場合がある。枡形の遠見遮断路は、城下・宿場の存在を示す境界の役割が大きかった。つまり、何らかの特権的身分の者の町の境界は、枡形であった。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。