呼び名の大切さを
1986年卒の7クラスの室長会で自主的に決めた生徒中心の
イベントでしたから 正月早々の出来事は 何年経っても
唖然とした気持ちは消えずに残っていました
20年後に女子生徒のAさんとTさんが問い合わせの手紙を学年主任だった
私宛に出してくれたのをきっかけに 同窓会をしようという話になりました
私はすでに退職して母の介護中でしたので
Y先生にお願いして話していただきました
プチモナミたちを思い出したので 今日のブログは学級担任だった時の
忘れられない追憶です
アクセス解析の中で見つけ出して頂きました
ありがとうございます(*^-^*)
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弱者の味方に立つ(2006年10月31日の自分史より)
肉親のありがたさは私には痛いほど大きく感じられたのです。
養護施設で家族の愛に飢えた子どもたちの空虚な思いを埋めてやることの
難しさを体験していたので、すぐにこの宝物に目をつけて親の心を繋ぎ止める
パイプ役として学級通信の活用を思いついたのです。
プチモナミ(小さな恋人)と言う通信はこの年に始まりました
いつも気になる人、大切に思う人、幸せであって欲しいと願う人、
それは恋人です。
フランス語でプチは小さなという意味、モナミは恋人。
みんなのことをプチ・モナミと呼ばせてほしいです。
先生の片想いだと思うけど、心を伝えていけばきっと振り向いて
ステキな笑顔をいつの日か返してくれるのではないかと思い、
通信を出します。
その後30年近く学級通信・学年通信・みどり学級通信(全学年)と
対象者は大きく変わっていきましたが、毎年1号には私の自己紹介と
通信名の謂れを載せていました。
2号は自己紹介を兼ねて、今年の抱負を語り合うページです。
わが子が新しい環境でどんな毎日を送っているのか、親は知りたいと
願いますから このやり方はとても私には合っていました。
最初の3年間は苦い思い出もなく試行錯誤しながら
うまく進んでいきました。
3年担任の時に次男が小学校入学の年でした。
いじめに遭い、ごきぶりのあだ名が付いたりして 親子ともども悩んだ
年でしたので、親としてなす術の無い憤りを体験できたので、
これは許せんと次の学年を受け持った時から学級開きの翌日に、
呼び名の大切さを取上げる取り組みを始めたのです。
本当にわが子の成長の過程で見せてもらえた様々なことが
親の気持ちを理解できる大きな教えとなっていました。
いじめは許さないと言う姿勢を示し、担任は一番弱者の味方に立つと
学級の雰囲気が変わって来ることを学んだ年でした。
34歳の時でした。
かなり重い知的障害のあるHが 親の希望で普通学級にいました。
年子の兄がいるから肩身の狭い思いを兄にさせたくないと親は考えたのです。
Hは退屈になり誰かにかまって欲しくなると すぐに唾を吐きかける癖がある
と言う引継ぎ内容でした。
普通学級でお客さんとして静かに座っていたら良しとする毎日なので、
善悪をみっちりと教え込む余裕の無いところで生活してきました。
ほんとうは何の進歩も向上も無いなかに
Hは毎日閉じ込められていたのでした。
座席は教卓のまん前。
唾を吐いても一段高い教卓がさえぎってくれるから
被害は少なくて済みます。
どこに座らせたらクラスのみんなへの被害が少なくって済むか。
Hのことはそっちのけでお客さんのままに放置していた担任でした。
いじめの対象は自分たちと異質なものに向けられ、エスカレートしていきます。
言葉をもたないHはいつもおびえたような
泣き笑いに似た笑みを浮かべていました。
どこまでしたらほんとうに泣き出すのか一度泣かせてみようという
度胸試しが始まり、昼休みに男子数人のいじめの対象になっていきました。
椅子に座って黙って必死に固まっているから面白かったと言います。
椅子を背後からガタガタと揺すってみたり・・・
だんだんエスカレートして行き、たたいたりつねったり・・・
言葉を持たないからされるままだし、いやだという意思表示もできません。
家に帰って何も言わないし誰も気づいてやれませんでした。
だんだんそんな日が続くうちにHは教室の入り口から中に入りたくないと
言う素振りを見せ始めます。
朝の会が始まるときに入り口の廊下で
私を待っているのです
明日に続きます
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